第7話 氷河期世代③
夏ちゃんは私のことを
「悦ちゃん、かっこいいよ。氷河期の不遇にもめげずにずっと福永百貨店で頑張って、ついには正社員、しかも外商で働いて厳しいノルマをこなし続けてるなんて。離婚も、聡さんの浮気がわかってすぐに決めたでしょう。私には事後報告だったもんね。そういう決断の速さとか、大事なことを一人で決められる強さ、見習いたい」
と褒めてくれるが、ノルマ達成は私の実力というよりは太客たちの支えあってこそだし、離婚は、「子どもができた」と言われては、どうしようもなかった。せめてもの腹いせとして慰謝料を不倫相手の下平麻衣にも請求し、支払いは一人百五十万を(合計三百万が私のケースで取れる最大の慰謝料で、これは相場と比較してかなり高いそうだ)十五カ月の分割払いで振り込んでもらうことにした。
「えっ? 分割払いですか? 一括にするのが普通なんですが――まあ、相手方は二人とも収入が安定しているので、未払いは発生しないとは思いますが――どうしても分割がいいですか?」
私が「分割でもらいたい」と申し出ると担当弁護士の桧山絢子先生――二宮様がCEOを務める大手法律事務所の中堅弁護士で、離婚調停後、私の顧客になってくれた――は困惑した表情を浮かべたが、「はい、分割がいいです」と私は押し切った。
分割にこだわった理由は単純で、嫌がらせである。
毎月初めに私のことを思い出させ、聡と下平麻衣に少しでも嫌な思いをさせたかった。
下平麻衣が聡に初めて手紙を送ってきたのは私たちが三十八歳で、ちょうど不妊治療を終えた頃だった。「就職の報告を大久保先生にしたかった」というのがその内容で、なぜ私が知っているかというと、聡が嬉々として話したからである。
「今どき封書で近況報告くれる子なんて、初めてだよ」と、職場に届いた手紙を家に持ち帰り、見せてくれた。
その時は「丁寧で真面目な子だな。聡はいい先生なんだな」と思った程度だったが、その後、聡の返信によって私たちの住所を知った下平麻衣は暑中見舞いや年末の挨拶などを封書で送って来るようになり、私は心穏やかでなくなった。
「ねえ、この子、聡が既婚者だって知ってるんだよね? なのにわざわざ封書で季節の挨拶送るって、ちょっと無神経というか、私に対する当てつけというか――この子、聡のこと、本気で好きなんじゃない?」
大人気ないかなと思いつつも、思い切ってきいた。
「まさか。仮にそうだとして、十五も離れてるんだぞ? 俺には悦子がいるんだし、何にも起こらないよ」
聡は「あはは」と無邪気に笑い、その笑顔を見たら私も自分の猜疑心の強さが恥ずかしくなって、「だよね」と笑った。
今思えば、あの会話が運命の分かれ道だった。笑っている場合ではなかったのだ。
仕事は基本的に好きだけど、なぜさほど高くない給与(外商のノルマの高さと給与の高さは比例しない。私たちもあくまで福永百貨店の一社員なので。ボーナスには成果が反映されるが)でここまで頑張っているかと言えば、「少しでも多くの老後資金を貯めるため」だ。
年金定期便によると、三十八歳になるまで契約社員として低い収入しか得ていなかった私が将来的に受け取れる見込み年金額は、毎月約十万。聡と二人の老後ならばそれでも大丈夫だったが、そうではなくなってしまったので、少ない年金額を補うために頑張って働き続けて、老後のために貯金を殖やす必要があるのだ。今は夏ちゃんと一緒に住んでいるおかげで節約できているけれど、夏ちゃんには夏ちゃんの事情があるので、ずっと一緒にいられるとは限らないだろう。もし一緒にいても、夏ちゃんが早く死んでしまうことだって、ありうる――そこまで考えて、私は頭をぶんぶんと振った。マイナス思考過ぎる。だがそれにしても、
「生きていくって大変だなあ」
私はため息をついた。
若かったころは、「結婚さえしてしまえば人生何とかなる」と考えていたけれど、全然そんなことはなくて、私の人生のハードルは年々上がっている気がする。
「――よし、決めた。ハードルを少し下げよう」
離婚と更年期のダブルパンチで参っている今、無理をするのは得策ではない。
五十一歳ネオシニア、ネオが付くとはいえもうシニアだ。これまでのように無理を続けたら、定年する前にポッキリと折れてしまいかねない。そうだ、五十代はこれまでより力を抜いて細く長く、定年に向かって収束していく年代にしよう。
私は出社すると自席に座ってノートパソコンを立ち上げ、「新年度売り上げ目標」のアイコンをクリックした。そしてフォームに数字を埋めていき、最終的な「売り上げ目標」を「一億五千万円」と入力した。昨年度より三千万円減である。
たしかに、原則としては前年度より下げることは認められていない。
けれどあくまで原則で、規則として定められているわけではない(裏はとった)。
昨年度一億七千五百万円もの売り上げを出せたのは、二宮様がマンションを購入された際、インテリアすべてを福永百貨店で揃えてくれたからで、極めて運の良いことだった。それをベースに今年度のノルマを算出させられては、たまったものではない。財前部長も、きっと理解してくれるはずだ――と思いつつ、小心なところのある私は、どきどきしながら送信ボタンをクリックした。
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