第6話 氷河期世代②
だが結局、子どもはできなかった。
三年に及んだ妊活ではオギノ式から始まって最後は体外受精まで試したが、子どもを授かるためとはいえどの検査も処置もストレスで、金銭的な負担も大きく、私も聡も疲弊してしまった。そしてそんな時、私はまた正社員への誘いを受けた。
苦節十五年。いよいよ掴んだおそらく最後のチャンス。もちろん返事はイエスで、正社員になるのをきっかけに、私は不妊治療をやめた。そうして仕事にのめり込んだ。
配属された部署は外商部。
福永百貨店有楽町店の社員約三百人のうち十名しか所属していない小さな部署だが、その十名で売り上げの四割を叩きだすという少数精鋭部隊である。外商部の中でさらに法人外商と個人外商に分かれているのだが、私が配属されたのは個人外商で、すでに何人か同世代の太客を持っているのを評価されてのことだった。
「いやあ、僕、びっくりしちゃったよ。新しく外商顧客になられた二宮様に担当としてご挨拶申し上げに行ったら、『なぜ大沢さんを外商に配属しないんですか? せっかく外商顧客になるなら私、これまでお世話になってきた大沢さんに担当してもらいたいです』と言われちゃって。で、調べてみてびっくり! 化粧品、婦人服、バッグ、靴、家具、どの売り場でも継続的にノルマ達成してて、しかも二宮様他、ここ数年で外商顧客になられたお客様を何人も担当されていて。僕たち外商の知らないところで、お客様を育ててくれていたんですねえ――というわけで是非、うちに来てくれませんか。もちろん正社員として」
会議室に呼び出した私を前にしなを作りながら三島部長が言ったのを(黙っていれば男前の三島部長はゲイらしかった。真偽のほどは、結局彼の退職までわからずじまいだったのだが)、昨日のことのように鮮やかに思い出すことができる。
あの時は本当に嬉しかったし、驚いたものだ。特に「お客様を育ててくれていた」という言葉には、言い得て妙だなと感心したものである。
(そうか、私はお客様を育てていたのか)
二宮様をはじめとする何名ものお客様と出会ったのは、化粧品売り場のカウンターだった。当時まだ初々しかった彼女たちは、私と二人三脚で、社会人としての洗練されたメイクを身に付けていった。そして私が新しい売り場に移るたびに、ついてきてくれたのである。ちょうど、彼女たちの会社での立ち位置やライフステージの変化――平社員から管理職へ、独身から既婚へ――に沿って売り場が変わったのが功を奏し、ありがたいことにずっとノルマを達成してこられた。彼女たちが友人や夫、親戚を紹介してくれたのも大きかった。
その彼女たちの買い物全般に携われるとは、なんという幸運だろう。
私は嬉々として外商で働き始めた。
最初のノルマは月八百五十万、年間にすると九千六百万円だったが、難なくクリア。翌年には月九百万になったが、これもクリア。毎年上がっていくノルマは、私をわくわくさせた。
(あの頃は若かったなあ)
アラフォーといえばもう立派な大人どころかミドルだが、五十一歳、ネオシニアの今の自分からすれば、十分すぎるほどに若い。実際、まだ体は引き締まっていて今みたいな二の腕や下腹のたるみはなかったし、仕事で無理をしても、休みの日にゆっくりすればすぐに回復できた。
それが今はどうだろう。
上がり続けるノルマにかつてのようなわくわく感はなく、日々積み重なる疲れを少しでも取るために、毎晩、夏ちゃんと共に薬用養命酒のお世話になっている。
(ああ、疲れたなあ。今年度のノルマ、どうしよう)
新入社員と新入学生――通勤・通学にに不馴れな彼らのせいで普段よりさらに混み合って雰囲気の悪い車内でぎゅうぎゅう詰めになりながら、思わずため息をついた。
ノルマは昨年度の売り上げ実績を元に自己申告した上で上司の承認を経て決まるのだが、原則、前年度より下げることは認められていない。となると、最低でも一億八千万――離婚で気力が低迷中の私に達成できるとは思えない。
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