第8話 氷河期世代④
「で、どうなったの? ノルマダウン、認めてもらえた?」
夏ちゃんは、右手に握りしめた大根をすごい速さですり下ろしながら、きいた。今日の夕食は、大根おろしとシラスの丼(炊き立てのご飯にたっぷりの大根おろしとシラスを載せてお醤油をちょろりと垂らすだけだが、抜群においしい)と、フキのお味噌汁だ。
私は残業が多く夏ちゃんと夕食を食べられる日は少ないのだが、定時で上がれた日や平日休みの日(土日のどちらかは出勤することがほとんどなので、その代休だ)には、アイランドキッチンのカウンターに座り、夕食ができるのを待ちながら、ビールを飲んで会社での出来事などを話す。守秘義務があるので何から何まで話すわけにはいかないが、ノルマ程度のことだったら夏ちゃんは口が堅いから安心して話せるし、こうして食事時に悩みや愚痴を話すことができるのは(そして夏ちゃんが興味津々で聞いてくれるのは)、私の心の安定に大いに役立っている。
何でも話せる相手がいるって、とても大切なことだ。
「ううん。今日は何の反応もなかった」
私は夏ちゃんの質問に答えた。
財前部長は新年度の挨拶回りなどで忙しそうにしていたから、申告を見る暇がなかったのだろう。もし見ていたら、いつもの調子で「ちょっと会議室まで、いい?」と私を呼び出したはずだ。
「振り込みは? 今月もちゃんとされてた?」
「――ん」
四月一日。
今日もこれまでの一日と同じように、私の通帳の「お取引内容」の欄には、「シモヒラサトシ」と「シモヒラマイ」が並んだ。人づてに聞いた話だが、下平麻衣は資産家の一人娘だそうで、聡は婿入りしたのだ。
(十五歳も年下の女の苗字に改姓するなんて、情けない。でも聡の老後は安泰か。なのに慰謝料は三百万ぽっち)
通帳を見るといつも苦々しい気持ちになる。彼らも毎月私のことを思い出して、不快になっていればいい――それもあと残り三回だが。
「おはようございます」
出勤して外商部のみんなに挨拶をし、席に着こうとすると、ゆっくり近づいてきた財前部長――今日もスーツ姿が決まっている。五十代後半という年齢にもかかわらず贅肉がなく引き締まった体つきの彼は、ダニエル・クレイグのようにトム・フォードのスーツを粋に着こなしている――が私の目を見て、
「ちょっと、いいか?」
と押さえた声で言った。
呼び出された先は、会議室ではなく屋上庭園。
開店すれば緑を求めるお客様の憩いの場所として賑やかになるが、今はひっそりと静まりかえっている。部長は桜の木の下のベンチに腰を下ろし、私にも座るよう勧めた。福永百貨店が開店した当時からあるというその立派な桜の幹に、ぽわんと桜が花開いていた。
「失礼します」
「ああ――これ」
そして私が座ると、財前部長は内ポケットからスマホを取り出し、画面を私に見せた。表示されえているのはもちろん例の申告書で、私は身構えた。
「大丈夫か?」
「はい?」
てっきり詰問されると思っていたので、財前部長の優しい口調は予想外だった。
「何がですか?」
「何がって、その――メンタル」
メンタル?
「……大丈夫ですけど。離婚や更年期のせいでイライラしたり落ち込むことはありますが、メンタルはいたって正常です」
「そうなのか?」
「はい」
「じゃあなんで、ノルマを下げようと? 知っているだろう、前年比増が暗黙の了解だと。それに大沢、業績は右肩上がりで絶好調じゃないか」
「五十代はこれまでより力を抜いて細く長く、定年に向かって収束していく年代にしようと思いまして」
私が答えると財前部長は細い目を丸くし、それから「あはは」と楽しそうに笑った。
「何で笑うんですか、何がおかしいんですか?」
「いや、意外だったし、でもよく考えれば、欲のない大沢らしくもあるなと思って」
「そうですか? あの、部長。それでノルマはどうなりますか。下げてもいいですか?」
話の方向性が見えず、しびれを切らした私は聞いた。もう新年度は始まっている。早くノルマを確定させて、それに合わせた営業をしていきたい。
「いや、だめだ」
「え……」
認めてくれるかと思ったのに。
「でも去年の売り上げは、たまたま二宮様の――」
「わかってる。でもいうだろ、運も実力のうちって。だから今年はもっと上、大台を狙え」
大台。まさか――。
私は財前部長の顔を見た。
「二億」
部長はピースサインをし、
「えー⁉」
私は思わず大きな声を出した。
「大沢。五十代は大沢が思っているより長くて色々あって、楽しいぞ。気弱になるな。攻めていけ。じゃ、俺行くわ」
部長は意味ありげな笑顔を浮かべると立ち上がり、私を残して屋上庭園を去った。
どうしよう。
まさかのノルマ・年間二億円を言い渡されてしまった。
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