第5話 氷河期世代①
「じゃあ、これで――あの、その……悦子、今まで……」
「早く行って」
リビングのドアのところで気まずそうに振り返った夫の言葉を、ソファに座っている私は遮った。振り向きもせず。自分の声は驚くほど冷たかった。
夫は小さくため息をつき、ドアを開けて廊下に出た。そして静かにドアが閉まる。
廊下を歩く夫の足音。靴を履く微かな音。そして玄関のかぎを開け、ドアを開け、また静かな足音がして、ドアが閉まる。
私はいてもたってもいられなくなり、ソファから立ち上がり、ドアに駆け寄って開ける。
「行かないで! 聡」
そう叫んだところで、はっと目を覚ました。
(いつもの夢か――)
離婚して一年が経つというのに、私はしばしばこの夢を見る。
毎回叫んでしまうほどにリアルだが、事実とは異なる。
聡が出て行ったその日、聡を引き止めなかったのはもちろん、私はマンションにさえいなかったのだから。
最後くらいちゃんと別れの挨拶をかわしたかった、という深層心理が夢を見させるのだろうか――いや、そんなはずはない。私は不貞をはたらいた聡を――しかも相手は高校の元教え子で十五歳も年下だった――心底憎んでいるのだから。
サイドテーブルのスマホを手に取ると、七時。目覚ましをかけている八時より一時間早い。
私はよく眠るたちで、以前は零時就寝八時起床が日課だった。それが最近では、どんなに遅く――昨日眠ったのは一時頃だ――就寝しても、六時間ほどで目覚めてしまう。しかも眠りは浅く、夜中に一、二度目を覚ます。
「あ、悦ちゃん、おはよう。今日も早いね、眠れなかった?」
「うん」
リビングに行くと、パジャマにエプロン姿で食事の支度をしていた夏ちゃんが、テーブルから視線を上げてほほ笑んだ。
半年前からルームシェアをしているこの友人は一年前に夫を亡くしているが、ほんわかとした明るさは以前と変わらない。努めてそうしているのだろう。
「私も眠れないんだよねえ」
「起きたの、何時?」
「四時」
夏ちゃんは十時就寝だから、私と同じく六時間しか眠れていない。
「睡眠薬、効かない?」
内科クリニックの受付で働く夏ちゃんは、先週、先生から睡眠薬を処方してもらったのだ。
「効かない。眠るときはコロリなんだけど、夜中に何度か起きちゃうし」
これまた私と同じ症状か。
「更年期のせいだと思う。だから今度、婦人科に行ってみる」
「婦人科で寝不足、何とかしてくれるの?」
それは意外だ。
「先生が、自律神経の乱れからきてるんじゃないか、って。ホルモン補充療法をすると、それが改善するらしい」
「へえ。じゃあうまくいったら教えて」
そうしたら、私も婦人科に行ってみよう。
「ん、わかった――朝食、一緒に食べる?」
「うん」
ちょっと早いが、お腹は空いている。私はカウンターに置いてあるルクルーゼ(夏ちゃんはご飯をルクルーゼのお鍋で炊く。蒸らしを入れても三十分ほど、早いし美味しいし洗うのも簡単と、いいことづくめだそうだ)の蓋を開け、戸棚から出した二人分の飯椀に炊き立てのご飯をよそってカウンターに並べた。夏ちゃんは「今日のトッピングはキムチだよ。果物は不揃いイチゴ」と、冷蔵庫からタッパーを二つ取り出す。
聡と暮らしていた間、私の朝食はトーストとコーヒーだったのだが、夏ちゃんと暮らすようになってからは卵かけご飯と果物、ほうじ茶が定番になった。卵かけご飯にはキムチの他、高菜漬けや昆布の佃煮、韓国のりなど、すでに味付けされた野菜や海藻を混ぜる。これがとても美味しく、今ではすっかり病みつきだ。洗い物がほとんど出ないのに栄養バランス抜群で、よく考えられている。
「今日もお弁当、持っていくよね?」
夏ちゃんは、トレイに軽く打ちうつけて割った卵を、ご飯にぽとりと落とした。
「うん、助かる」
これも夏ちゃんが来てからの習慣で、「カスクート」という手のひらほどの長さのフランスパンで作ったサンドイッチ二本が、私たちの昼食だ。
具は、一本がエビやツナなどの魚介類とブロッコリーやホウレンソウなどの緑黄色野菜をマスタードとマヨネーズで味をつけたもの、もう一本がピーナツバターとブルーベリージャム。これまた、簡単なのに味と栄養のバランスがよく考えられており、何より最近下腹のもたつきが気になる私には、低カロリーなのがありがたい。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい」
先に家を出る夏ちゃんを見送り、私は身支度を始めた。歯を磨き、顔を洗い、メイクして、黒のパンツスーツに着替える。そうして鏡に映った自分を見て、ずいぶん遠くまで来たなと思う。
職場は新卒の時からずっと同じ百貨店だが、最初は契約社員としてのスタートだった。私が新卒の時は氷河期真っ只中で、しかも一九七三年生まれといえば、第二次ベビーブーマーだ。就職活動は困難を極め、札幌の百貨店に就職できなかった私は、東京で契約社員としてチャンスを狙うことにしたのだった。
そうして百貨店に入っているテナントの契約社員として渡り歩くこと十二年。やっと、「正社員にならないか?」との打診を受けたのだが――リーマンショックが起こって、その話は立ち消えになってしまった。あのときはさすがに転職を考えた。
けれどすでに三十五歳で、聡と結婚していた私は、踏みとどまった。生活は安定していたし、妊活もしていたから、このまま契約社員として各テナントを渡り歩くのも悪くない、と考えたのだ。
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