第4話 眼鏡④
視力検査を終えた悦ちゃんと私は一階に戻り、じっくりと眼鏡のフレームを選んだ。H眼鏡店の価格にはやっぱりびびってしまうが、どのフレームもデザインが素敵だし、かけ心地がとてもいいので、投資する価値はある。何より長く使うものだし。元は十分取れるはずだ。
ちなみに、悦ちゃんのレンズは遠近である。動きが院内に限定される私と違い、悦ちゃんはデパートの外商として顧客の自宅や勤め先を訪問する際に、車を運転するからだ。また、デパート内で顧客の買い物をアテンドする際も「広範囲の見通しがきかないと気持ちが悪い」とのことで、その点でも遠近が適していた。今使っている遠近よりは「だいぶ老眼が進んだ」とのことで、度数はかなり調整されるそうだ。
フレームは、悦ちゃんは今使っているものに近い紫色の細いチタンで、形はボストンを選んだ。丸みのある四角と逆三角形の間のような形が悦ちゃんの小顔によく似合うし、クラシカルでありながら洗練された印象は、外商の仕事にぴったりだ。
私はセルフレームを選んだ。形はウェリントン、色はモスグリーンのグラデーション――最初に試着した時、悦ちゃんによく似合ったものだ。正直、丸顔の私には悦ちゃんほどは似合わないのだけど、形と色がとても気に入って、「似合う」より「好き」を優先した。
眼鏡をかけている時は自分からは見えないから、本来なら相手からの視線――つまり、似合う・似合わないを優先すべきかもしれないが、今日の私は自分の「好き」を大切にした。かけている姿はほとんど自分からは見えないと言っても、それでも、眼鏡を出し入れするときにその色と形を目にするから、そういう時にいい気持ちになるのは間違いない。肌触りや重さもちょうどよく、良い眼鏡を選べたと思う。
「眼鏡の仕上がり、楽しみだね」
帰宅後、パスタ鍋で菜の花を茹でていると、シャワーを終えた悦ちゃんが髪をタオルで拭きながら、私の横に来て言った。
気の毒に悦ちゃんは数年前に花粉症を発症し、春先は帰宅後すぐのシャワーが欠かせなくなってしまった。そうしないと、目が痒くてたまらないのだそうである。
ちなみに私はずっと北海道に住んでいたからスギ花粉とは無縁で、発症するまではかなり猶予があると思われる。
「うん、楽しみ」
あの素敵なセルフレームが自分のものになる。そして見やすさがぐっと改善されると思うと、わくわくする。
私は鮮やかな緑色に変わった菜の花をトングで掴み、ボウルに用意しておいた氷水の中に放った。
悦ちゃんは冷蔵庫を開け、「飲み物、ビールと白ワイン、どっちにする?」ときいた。
「うーん……。迷う。喉が渇いているからビールの炭酸が恋しいけど、菜の花のペペロンチーノには白ワインの方が合うよね……」
「そうだねえ……じゃあ、白ワインを炭酸水で割ろうか」
「ええ? そんな飲み方、あり⁉」
「ありだよ。スプリッツァーっていうカクテル、あるもん。作り方はええと……ほら」
悦ちゃんがスマホで検索すると、レシピが出てきた。
ワインと炭酸水を1:1、とある。簡単だ。
「じゃあ、スプリッツァーにしよう」
「ん」
私が言うと、悦ちゃんは作り付けの戸棚からワイングラスを二つ取り出してアイランドキッチンのカウンターに並べ、白ワイン、そして炭酸水を注いだ。
しゅわあっとおいしそうな音がして、私の喉は鳴り、悦ちゃんも同じだったのだろう、私たちはさっそくグラスを手に取って、
「乾杯!」
とグラスを合わせ、ごくごくとスプリッツァーを飲んだ。
あっという間にグラスを空け、乾きが落ち着いた私たちは、二杯目を飲みながら調理を再開した。
「パスタの量はどうする? 二束? 三束?」
本来なら一人百グラムとして二束が良いのだろうが……私たちは二人ともよく食べるので、それだと足りないのだ。なのにわざわざ量を確認するのは、悦ちゃんも私もお腹周り――特に下腹――に肉が付いておばさん体型化が進んでいるから。胴回りがずどんとしてきたのは、二人に共通の悲しみだ。
「あー……二束がいいんだろうけどねえ……足りないよねえ…………三束」
悦ちゃんがうめくように言い、私はお鍋にリングイネを三束投入し、トングで押して全体をお湯に浸からせた。そうしておいて、ニンニクを二片薄くスライスし、フライパンにオリーブオイルと鷹の爪と一緒に入れ、ぐつぐついっているパスタのお鍋を横目に、じっくりと弱火で香りを引き出していく。
ニンニクがこんがりして来たら、水気をぎゅっと絞った菜の花を食べやすい大きさに切って、これもフライパンに投入し、フライパンをあおってさっと全体を絡ませる。するとちょうどパスタが茹で上がり、何回かに分けてトングで掴んでフライパンへ入れた。こうするとパスタに絡んだお湯が適度にフライパンに入り、ちょうどいいソースができるのだ。私は手早くパスタと具材を絡ませた。
「相変わらず、大胆」
いったんパスタをザルにあけてからフライパンに入れる派の悦ちゃんは、私の作り方を見るといつもそう言って笑う。
「ゆで汁も麵と一緒に入るから、合理的なんだよ」
フライパンを揺すり、味見をしてから塩を少しふりかけ、火を止めて完成。
悦ちゃんがお湯で温めておいてくれたパスタ皿にきれいに盛り付け、三敗目のスプリッツァーと共に、カウンターに並べた。
「いただきます!」
二人して、食べ始める。
絶妙なアルデンテの麺に絡むニンニクの風味と鷹の爪の刺激、そして菜の花のコクとほろ苦さ。
「おいしい」
思わず声に出し、
「うん、おいしいね」
悦ちゃんが答える。
質素で簡単だけどとてもおいしくて、今日という一日を占めるのにふさわしい夕ご飯だ。
私はもちろん、きっと悦ちゃんも、夫を失った喪失感はまだ癒えていないけれど、それでもこうして日々は進んでいく。
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