第3話 眼鏡③

「今はコンタクトをされていますか?」

「いえ、裸眼です」

「じゃあ、視力はけっこうおありになる?」

「健康診断では、0.5でした。若い頃に比べて落ちてきてはいるんですが、日常生活は眼鏡なしで何とかいけます。でも細かい字は見づらくて、スマホを見る時や仕事中は、眼鏡を。六年前からです」

 カウンターを挟んで座った店員さんの質問に、私は答えた。隣では悦ちゃんが同じように別の店員さん(七十歳くらいに見える女性だ。H眼鏡はシニア雇用が進んでいるのだろうか――私もああやって年を取っても働けたら、いいな)の質問に答えている。

 店員さんがまた私にきく。

「お仕事はデスクワークですか?」

「ええ、基本はデスクワークです。病院の受付ですが」

「ではお仕事で見る範囲は、主にお手元ですか?」

「はい。ノートパソコンにデータを入力するのと、他には、診察券や現金の確認と受け渡しで目を使います」

 私が勤めているのは有楽町にある内科の個人クリニックで、受付は二人。医療事務だけでなく備品の購入や待合室に置く雑誌の管理など、病院内のこまごまとしたことを担当している。

 私が答えると、店員さんは万年筆(!)でさらさらと小さなカードに書き込んでいく。今どきずいぶんクラシカルだが、それが心地いいなと感じた。

「他には?」

「そうですね……玄関から入って来た患者様のお顔を見てご挨拶したり、靴入れやスリッパが乱れてないかなども、見ますね。あと、掃除」

 私は職場での自分の動きを思い出しながら、答えた。

「なるほど。よくわかりました。ありがとうございます」

 店員さん――名札を見ると、富本さんとあった――は目を上げて私を見ると、にこりと微笑んだ。

「現在お使いの眼鏡は、本日お持ちですか?」

「はい」

 映画の字幕とスマホを見るために、バッグの中に入れてある。

「拝見してもよろしいでしょうか?」

 もちろんだ。

 私はバッグの中から眼鏡ケースを取り出して開け、眼鏡を店員さんに渡した。

 富本さんは少しの間眼鏡を確かめ、「遠近両用ですね」と小さく呟き、また私を見ると言った。

「お話を伺った感じ、お客様の場合は中近の方が適しているかも知れません」

 中近? 初めて聞く言葉だ。

 私が不思議そうな顔をしたからだろう、富本さんが説明を付け足してくれる。

「老眼鏡のレンズは大きく分けて四種類――近、遠近、中近、近々――があって、室内迚と作業で使用する方には、遠近よりも中近が適しているんです。視力検査の後で、試してみましょう。遠近とどんなふうに違うか、お分かりになると思います」

 へえー、だ。

 以前眼鏡を作ったW眼鏡ではこんなに細かいヒアリングも解説もなかった。「遠近両用メガネが欲しい」と最初に言った私も悪かったかもしれないが。

 H眼鏡店に思い切って入ってみて良かったな、と思い隣の悦ちゃんを見ると、悦ちゃんも同じように感じていたのだろうか、私を見てにこりと頷いた。


 さて、ここからは視力検査である。

 私たちは二階へ案内された。かすかにきしむ木の階段を店員さん達について上がると、そこは広々とした空間で、六畳間が三つ、仕切り無しで並んでいるような感じだった。部屋の一つには大小のソファが置かれ、待合室のようになっている。残りの二つがそれぞれ検査用に設えられてあり、自由が丘は賃料が高いだろうに、こういう贅沢な使い方ができるってすごいなあと感心する。

 悦ちゃんと私の視力検査は同時進行で、三十分ほどの時間をかけてしっかりと行われた。結果はやはり手書きで、よくわからない数値が、富本さんの几帳面な字でカードに書きこまれた。

「お手持ちの眼鏡のレンズよりも老眼が進んでいますね。作り直すのは、良い判断だと思います。まずはこれまでと同じ遠近、お作りしてみますね」

 そう言うと富本さんは、金属製のごつくて丸い眼鏡フレームとたくさんのレンズがきれいに収納された木箱を取り出し、カチャカチャと小さな音をさせながら、何枚かのレンズを選び出した。そしてそれをフレームにセットし、「どうぞ」と私に差し出した。

 かけてみる。そして、富本さんが私の前に置いた様々な大きさと色の文字が印刷されたシートを見てみる。

「わあ、よく見えます」

 思わず声が出る。

 ごく細かい文字までくっきりはっきり。明らかに今使っている眼鏡よりいい。

「遠くもご覧になってみてください」

 視線を悦ちゃんがいる部屋に向けると、これまたよく見える。

「いい感じです」

「良かったです。遠近はこの度数で良さそうですね。では次は、中近を」

 富本さんがまたカチャカチャと調整した眼鏡を手渡され、かけた私は「おおっ!」と声を出してしまった。何かが違う。富本さんを見ると、彼女はにっこりと笑った。

「いい感じですか?」

「はい。手元周りが見やすいというか……」

 シートの文字がクリアに見えるのは先ほどの遠近と変わらないが、何かが違う。

「手元の視野が、広いんです。ということはつまり、中近両用は、遠近両用よりもより自然に近い見え方をします」

「なるほど!」

 言われてみれば確かにそんな感じがする。

「室内で過ごされる方や、パソコンなど手元の作業が多い方に適したレンズです」

 ああ、わかる気がする。

「立って歩いてみてもいいですか?」

「もちろんでございます」

 私は席を立ち、ステンドグラスが美しい影を落とす窓際まで歩いてみた。歩きづらさや気持ち悪さはない。

「すごくいいです、中近。富本さんがおっしゃるように、私の使い方にぴったりですね」

「はい、そう思います。デメリットとしては、車の運転など遠方を見るのに適さないことですが、運転はされますか?」

「いいえ」

 免許は持っているし、札幌にいたころは運転していたが、東京では運転しない。地下鉄などの交通網が発達しているから、運転の必要がないのだ。それに、車の意地管理費や駐車場代を支払う余裕がないし。

「フレームは縦が三十五ミリ以上が推奨されますが、その点は大丈夫でしょうか?」

 三十五ミリ。さっき似合ったザーマス眼鏡では作れない、ということか――まあ、いいだろう。よし、中近に決めよう。

「このレンズで眼鏡を作りたいです」

 私は宣言してしまった。このお店はレンズだけで二万五千円もするというのに。

 フレームの値段は幅があったが、三万円から七万円くらいだったから、合計すると六万円から十万円ほどになるな。でもいいや、長く使うものだし、使いやすいレンズと素敵なフレームが手に入るのならば。

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