第2話 眼鏡②

 自由が丘は渋谷から東横線で約十分しか離れていないが、雰囲気はずいぶん違う。

 ビルと人があふれるような渋谷に対し自由が丘は低層階の建物が多く、人は渋谷よりずっと少ない。行き交う人たちを見ると、私たちのようなよそ者に交じって、地元の品のいいマダムたちが目立つ。渋谷のように若い子が集まっている風景は、

あまり見ない。

 私は初めて来たが、就職してから二十八年(!)に及ぶ東京生活の間に数えきれないほど自由が丘を訪れている悦ちゃんによると、五百メートル四方くらいの狭い範囲に大小のスーパーが四軒、ドラッグストア、無印、ユニクロ、家電量販店など生活に必要なお店が一通り揃っているのはもちろん、雑貨、インテリア、ファッション、カフェ、パン屋さん、お菓子屋さん、おしゃれなビストロから渋い居酒屋まで飲食店が豊富にあって、生活に必要なあれこれを見たりお茶休憩や食事をしたり――要するに休みの日にゆったり過ごすには――最適な街らしい。

 そこが、「私的には眼鏡の聖地でもある」と悦ちゃんは言う。

「なんとなく眼鏡店が多いなとは思っていたんだけど。ほら、検索したらこんなに出て来る。皇室御用達のお店まであるんだよ」

 スマホの画面をのぞき込むとそこには有名チェーン数店の他、私でも聞いたことのあるHやKなどの高級店、さらには皇室御用達とうたわれているお店や、海外発だというおしゃれ眼鏡店まで表示されていて、まさに「眼鏡の聖地」という称号に相応しいのだった。

「悦ちゃんの眼鏡はどこで作ったの? 福永百貨店じゃないの? 私は札幌のWなんだけど」

 初めての遠近両用ということで使いこなせるかわからなかったし(遠近両用眼鏡はレンズの上下で遠と近に分かれているのだが、試着してみた時、その切り替えに違和感を感じた)、そもそも眼鏡自体買うのが初めてだったから、「とりあえずお試し」と思って、安いのを選んだのだ。たしかフレームとレンズで二万五千円くらいだったと思う。結局六年も使うことになってしまったが、ごく無難な茶色いプラスチック素材のその眼鏡を、私は気に入っているわけではない。

 その話をすると悦ちゃんは、

「わかりみが深すぎる。私も同じ理由でWのプラスチックだもん。自由が丘店のだけど。特に気に入っていないのも同じ。うちの百貨店にも眼鏡屋さんは入ってるけど、高すぎてお試しには向かなかった」

 と頷いた。悦ちゃんのフレームは薄紫で、なかなか似合ってはいるのだが。

「今日はどうする? またWにする? きっと、フレームはそのままでレンズだけ交換できるよね?」

 夫の遺産と生命保険があるとはいえ、今後五十年生きることを考えると(うちは長寿家系だ)それは心許ない金額で、だから私はフルタイムで働いているし、節約にも励んでいる。

「そうだね……でもさ……せっかくだから素敵な眼鏡、欲しくない? 毎日使うものだし、顔の印象だけでなく、全体の雰囲気も変わると思うんだよね」

 だが私とは別の理由で老後の不安を抱えることになった悦ちゃんは意外な言葉を口にし、たしかに言われてみればそうだなと、私の心はすぐに悦ちゃんの意見に傾いた。

「……じゃあ思い切って高級店、行ってみようか」

「そうだね、行ってみよう!」

「どこにする?」

「……Hがいいな。すごく口コミの評価が高い」

 スマホで素早く情報を調べてくれた悦ちゃんが言うので、私たちは大通りに沿って緩やかな坂道を上り、何本目かの路地を左に入って、H眼鏡店に到着した。

「おお」

「さすがだね」

 私たちは、目の前にある建物を見上げた。

 H眼鏡店の店舗は三階建ての一軒家を改装したもので、小さいがとても瀟洒。窓から少しだけ中の様子が見えるけど、入り口の木の扉はしっかりと閉まっている。

 若い頃だったら怖気づいては入れなかったかもしれないが、悦ちゃんと私は五十一歳。大人女子(大人に女子を付けるのはどうかと思うが)といえる年代をとうに越え、ネオシニアだ。このネオシニアという言葉、初めて知ったときには、まだ五十代なのにシニアなのかとぎょっとしたが、実際、老眼は進んでいるわけだし、白髪やしわは増え、更年期のホットフラッシュや自律神経の乱れに悩まされたりと、たしかに体はどんどん老化している――それはともかくだ、悦ちゃんも私も年齢と共に色々な経験を重ねてきた。度胸は付いている。

「いくよ」

 悦ちゃんがドアに手をかけ、

「うん」

 私の返事を合図にドアを開けた。

 二人して、店内に一歩足を踏み入れる。すると祖母の家のような、懐かしい匂いに包まれた。艶々に磨き上げられた木の床。そして、白熱灯の光を反射してキラキラと輝く、テーブルや棚に並んだ沢山の眼鏡。

「いらっしゃいませ。何かお探しのものがありましたら、お申し付けください。眼鏡のご試着は、どうぞご自由になさってください」

 入り口のそばに立っていた店員さんは、悦ちゃんと私に微笑みかけると、軽く一礼し、すっと後ろに下がった。

 さすが高級店の接客。奥ゆかしい。

 店員さんの控えめな態度に安心した私たちは、しばらくの間、「これいいね」とか「そのフレームも素敵」なんて言い合いながら、いくつか気になるフレームを手に取り、かけてみた。そして思ったのは、「自分に合った眼鏡を見つけるのって、意外と難しい」ということだ。

 例えば最近よく見かける丸っぽいボストン型は、私がかけると途端にダサくなってしまう。逆にザーマス眼鏡みたいなフォックス型の赤いセルフレームは似合ったり。悦ちゃんには、落ち着いたモスグリーンのグラデーションが美しいウェリントン型のセルフレームがとてもよく似合った。

「それ、いい」

「うん。私も好き。お値段は……」

 二人してこっそり、フレームにぶら下がる小さな値札を見て驚いた。六万円もする。

「……うーん」

 悦ちゃんは小さく唸ると眼鏡をはずし、丁寧に畳んでそっと棚に戻した。

 店員さんが「あの、お客様」と静かに声をかけてきたのはその時だ。

「当店にいらっしゃるのは、初めてでしょうか?」

「はい」

 悦ちゃんと私の声が揃う。

「眼科からの眼鏡の処方箋、お持ちですか?」

「いいえ」

 また声が揃い、店員さんがにっこりとほほ笑む。

「でしたら、もしお時間があればですけども、視力を測定してみるのはいかがでしょう。お客様方が必要とするレンズの種類によって、選べるフレームとそうでないフレームがございますので」

「そうなんですか?」

「はい」

 店員さんはゆっくりと頷き、「よろしければまずはカウンターで、どんな眼鏡をお探しか、簡単にお話を伺えますか?」と言った。

 そうして私たちは、木の一枚板が美しいカウンターに案内されたのだった。

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