東京ルームシェア
オレンジ11
第1話 眼鏡①
「なっちゃん、般若顔になってるよ」
映画を観に行くために地下鉄の時間をスマホで調べていると、テーブルの向かい側で朝食後のお茶を飲んでいた悦ちゃんが言った。
「え」
「眉間にすごい皺、寄ってた。見づらいんじゃない? スマホ、少し離して見てるし」
「……老眼の度が進んだかな」
「多分、そう」
悦ちゃんは訳知り顔で頷き、続けた。
「私もそうだもん。だから今日は映画の帰りに眼鏡屋さんに寄ろうと思って。夏ちゃんもどう? 一緒に」
言われてみれば、最近、仕事中にパソコンや本の字が見づらいと感じることが増えている。今かけている遠近両用眼鏡を作ったのは――六年も前、四十五歳の時だ。
悦ちゃんも私も目はいい方で、日常生活は裸眼だが、仕事や読み書きをするときには、眼鏡が手放せなくなっている。きちんと度のあった眼鏡は大切だ。
「……行こうかな」
「行こう行こう」
悦ちゃんは明るく繰り返した。
私たちは半年前から、ルームシェアをしている。目黒川沿いのタワマンの八階、間取りは2LDK、家賃は十五万円。運の良いことに、本来の持ち主である独身の商社マンが海外赴任で不在中の間だけ借主を探していて、格安で借りることができた。
「また桜の季節がめぐって来るねえ」
「そうだね」
悦ちゃんと私は、立ち止まって桜の樹々を見上げた。
蕾はまだ小さいが、ほんのりと色づいていて、それで枝全体がピンクがかって見えている。
「去年の今ごろは、まさか今こうして東京で暮らしているなんて、夢にも思わなかったよ」
私は北海道の小樽で生まれ育ち、就職してからはずっと札幌で暮らしてきた。結婚し、家も買った(夫名義だったが)。
友人夫婦の紹介で知り合った夫は内科医で、義父から小さなクリニックを引き継いでおり、経営は順調だった。十歳年上の彼は包容力があって優しくて患者さん達にも人気があり、私は大好きだった。大好き過ぎて、家事の他にも夫の役に立ちたいと考え、医療事務の資格を取った。義父の代から受付を担当してくれていた笹川さんの定年が間もなくで、それに備えたのだ。
そうして結婚してから数年後、私はクリニックの受付で働き始めた。
夫は「夏子は、無理のない範囲でいいから。人を雇うこともできるんだし」と言ってくれ、私も(子どもが生まれたらしばらく休んで、小学校に入学するなどして手がかからなくなったらパートとして復帰してもいいな、タイミングさえ合えば)――なんて、彼の役に立ちたいと思っていた割にはけっこうふわふわした感じだった。若かったな、と今になって思う。結局子どもには恵まれず、二十年以上も働き続けることになったのだが。
「家でも職場でも一緒って、疲れない? 私には無理だなあ」
あの頃、そう悦ちゃんは言っていたが、私にとっては、穏やかで満ち足りた日々だった。職場で、家とは異なるよそ行きの夫を見られるのも嬉しかった。
「夏ちゃん」
「ん?」
「今、修司さんのこと考えてたでしょう。遠い目になってたよ。大丈夫?」
悦ちゃんは何でもお見通しだ。
「……大丈夫だよ。行こう、映画に遅れちゃう」
私は先に立って歩きだした。
上京した頃、知らない場所に出かける時には悦ちゃんの少し後ろについて歩く感じだったけれど、毎週末のように出歩いたり、退勤後に寄り道したりしているうちに、だいぶ土地勘が付いた。上映館はBunkamuraだから、目黒から山手線に乗って渋谷で降りればいい。
「はぁ」
「ふぅ」
上映後。スタバで向かい合って座った悦ちゃんと私は、キャラメルマキアートとハニージンジャーチャイティーラテを一口飲むと、同時にため息をついた。
「ずーんときた」
「私も」
一緒に観た映画は『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』――末期がんに侵され自死を望む女性とその友人の物語。はっとするような鮮やかな色彩の中で、静かにドラマは進む。主演のティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアは1960年生まれだから、私たちより一世代上の話ではある。が、十四年なんてこの年になったらあっという間に過ぎるし、そもそも、五十にもなれば、いつ大病を患ってもおかしくはないのだ。子宮筋腫、胃潰瘍など、健康診断でちょこちょこと小さな不健康を指摘されるようになったのは、五年ほど前からだ。
平均寿命は長いけれど、それはあくまで平均で、死は意外と身近にあるのだと――昨年六十歳の夫を亡くしたせいもあるのだろう――私は強く感じている。
「安楽死って、どうだろうねえ……」
「うーん……」
二人してまた、ドリンクを飲む。
「このままいったら私たち、どちらかがもう一方を看取るのかなあ」
「……そんな気がするよねえ……」
悦ちゃんと私の縁はちょうど四十年前、小学校五年生の時から細く長く繋がっていて、切れる気がしない。
今でもそうだが、悦ちゃんは華やかである。友人も多い。小中高と、クラスカーストの中では一軍女子だった。
それに引き換え私は地味で大人しく、二軍どころか三軍女子だ。高校までずっと、である。
だから私たちは別々のグループに所属していたし、同じ学校に通った十二年のうち半分は違うクラスだったが、それでも友情は途切れなかった。いや、友情と呼ぶにはあまりにあっさりしたものだったかもしれない。
違うカーストに属する私たちだったが、私はなぜか「悦ちゃんは信頼できる」と出会った時から思っていて、それは悦ちゃんも同じだったらしい。なんとなく帰り道が一緒になった日など、私たちは次第に、お互いのちょっとした秘密を話すようになった。
高校生になると、 悦ちゃんは悦ちゃんらしい華やかな恋を、私は私らしい地味な恋をして、失恋もして、時折、駅前のバス停のすぐそばにあるミスドで近況報告をしていたあの時間は、今となっては大切な思い出だ。
私たちが青春を過ごした頃にはスマホどころかポケベルもなく、だから、所属しているグループが違うと、コミュニケーションはほぼ発生しなかった。そんな中、悦ちゃんと付かず離れずの関係が続いたのは、今となっては奇跡のようだと思う。
「さて」
悦ちゃんはマグカップをテーブルに置いた。
「そろそろ行こうか、眼鏡」
「うん」
渋谷で買うのだろうな、と思ったのだが。
「自由が丘に移動しよう。あそこ、私的に眼鏡の聖地」
と悦ちゃんは言い、席を立った。
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