第9話 愛想笑でやり過ごしてきたんだよね
どうしても、恐ろしいものがある。
「す、すすす数学さ、温度管理記録簿はどこにありますか…ひっ」
ギロリと光る眼光。長めの前髪から光るそれはまるで野生の熊にでも出会ったかのように背筋が凍る。
「…ここ」
「あ、あああああありがとう、ございます…」
数学さんとシフトが被る日が一週間の間で数回ある。それは今日のように夜勤であることが多い。僕はその時間が恐ろしくてたまらない。直接何かを言われるわけでもなければ勿論日常会話も無し。数学さんは基本的にレジの中よりも店内で他の仕事をしていることも多いため無言が気まずい、とかでもない。寧ろ誰かさんと違って仕事は勤勉にやるし、容量もいい。わからないことは今みたいに教えてくれるし、嫌なことをされるわけでもない。何ならたまに絡んでくるヤンキー達を排除してくれる頼り甲斐のある人だ。
でも僕は数学さんが怖くてたまらない。1週間前の同じ時間、このコンビニの前でたむろしていて近所迷惑だったヤンキー達を数学さんがいつものように追い払おうとした。でもそのヤンキー達はお酒に酔っていて一気に数学さんに襲いかかった。
その時の数学さんの冷徹で冷酷な目が忘れられない。大人数相手でも返り血しか浴びない数学さんはただ喧嘩が強いという言葉だけでは片付けられない何かがあった。
(失礼なことでも言ったら今度は僕が同じ目に遭うんじゃ…)
身震いが止まない。そもそも背も大きくて威圧感がすごい!僕ののび太くんくらい脆いメンタルが崩壊するぞドラえもんと。
「…次、これ洗浄」
「は、はいぃいいい!」
恐怖の念の籠った目で見つめていたのがバレたのか数学さんが僕に新たに指示を出した。翻った声とおにぎりに恥ずかしくなりながら僕はおでん機器を洗浄する。狭い蛇口でほぼ同じくらいのおでん機器を洗うのは見るからに大変で、制服には案の定水が飛び散りまくる。
「あれ?あいつ道徳じゃね?」
ドキリと胸が捻れるように鳴った。声はレジの向こう側から。
「お〜やっぱ道徳だ!おーい久々だな〜!3ヶ月ぶり!」
いくら水圧を強くしているからといって聞こえないふりをするには無理がある。僕は大人しく蛇口を止めて笑顔を作り後ろを振り返る。お久しぶりです、と会釈までつけて。
「お前何、うち辞めてこんなコンビニでバイトしてんの?w」
僕が3ヶ月で退職を決めた保険会社の先輩たち。その中でも直接教育係をしてくれた2人。何て運がないんだろう。できたら一生会いたくなかった。僕の恥ずかしい黒歴史を他の人には知られたくない。チラリと数学さんの方を確認すると数学さんはもうそこにはいなかった。恐らくバックヤードで今日もぴっちりとドリンクを並べている頃だ。他のお客さんもいないのが唯一の救いか。
「お前は無駄に正義感だけが強いと思ってたから他の会社どこでもやってけねーんじゃねーかと思ってたけどやっぱりコンビニでバイトに行き着いたか〜落ちぶれたなw」
「あ、あはは、そうですよねぇ…」
先輩たちが揶揄って僕の胸元についてる名札を触る。
「ちょ、ちょっと、」
制するように反抗したのが気に障ったのか、先輩は僕の名札をそのままパシッと弾き飛ばした。名札はレジの棚の奥深くに飛んでいってしまう。
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