Last Christmas
続 凛
第1話
2008年12月
今まで生きてきた中で一番いっしょに父と過ごした最後の時の記録
まず、何から語ろう…。
そう、これは初めての看取りの体験。
そして長い長い後悔の始まり。
2007年10月、父の肺に癌が見つかった。それから約5か月後摘出手術を行ったのだが、父の癌はすでに5mm程度から2cm程度に成長していた。
その17年ほど前、すでにインシュリン注射を必要とする糖尿病の状態で、その長患いの中、細菌性の髄膜炎を起こし頸椎移植という大手術を経験している。
父の病気はそれだけでは収まらず、その後数年を経て今度は心臓の弁膜がボロボロになり人工弁に取り換えるという、またもや大手術を経験することとなった。
ワーファリンを常用する身となった父。血糖値のコントロールも必要とし、かつ高齢である父に今度は直腸癌が見つかった。癌の摘出手術にどの外科医も二の足を踏んだ。
唯一、市内の大きなS総合病院のO医師が大きな体で父を迎え入れてくれた。そして直腸癌の手術後、曲がりなりにも症状は安定し、年に数回の海外旅行を母と楽しむまでになっていた。
そして長年行きたがっていたトルコ旅行から帰ってきた父の便に血が混じっていることに気が付く。直腸癌の摘出手術から3年後のことだった。
再びS総合病院へ行き検査した結果、そのまま入院することとなった。
あれよあれよと手術の日程が決まる中、O医師は快活な笑顔で私たち家族を安心させてくれた。
そして手術当日、頭にシャワーキャップのようなものをかぶり術衣に着替えた父が私たちの目の前から手術室へと消えていった。
「どうか、これが最後の手術となりますように…」
数時間後、術後の説明でリンパ節の一部に転移が認められたとのことだった。
O医師の「大丈夫ですよ。」の言葉に私たち皆が胸をなでおろした。
それからの父は、また旅行を楽しんだり趣味の家庭菜園に勤しんだり、充実した毎日を送っていたのだと思う。
一方では、姉夫婦が離婚騒動を起こし両親に心配をかけていたが、私はそれも張り合いの一つと対岸の火事のごとくであった。その頃の私は家庭に仕事に、地域活動に育児にと忙しく両親とは徐々に疎遠になっていった。
しばらくして母から父の肺癌の話を聞いた時、止まっていた時間が再び動き出したような感覚に囚われた。まるで時限爆弾のスイッチが入ったかのような…。
高齢で1型糖尿病で心臓病患者でもある父に開胸手術は無理だったので、内視鏡による切除手術となった。
私はその時、不届きにも「もう手術はしてほしくない」と思ったのだ。
もう、二度とシャワーキャップをかぶった父の姿は見たくない。
このまま死んでしまうなら、それも運命なのではないか…そう思ってしまった。
父の希望で手術は行われた。
私はなんと親不孝者なのだろう。
私はなぜ父が死に急ぐような選択を望んだのだろう。
これからの本当の最期を知っていれば、もう何でも、なんでもいいから少しでも長く生きてほしい、そのためならどんな治療も受けてほしいと願ったに違いない。
それだけ私の認識は甘かったのだ。
いや、私だけではない。
母も姉も、家族の誰もがあの最期を予想していなかったに違いない。
手術を終えた父はPET検査を受けた。
父はこの時から具合が悪くなったと言っていたが、この時はすでに癌は全身に転移し始めていた。肺から副腎へ、そして眼の脈絡膜へ。癌は父から視界を奪った。
O医師は「入院し10クールの抗癌治療をしましょう。」と提案した。しかし、姉がそれを断った。父が在宅での治療を望んだからだと。
一、二度の抗癌剤治療で父は酷く衰弱し、傍目にも良くなっているとは思えない状態だった。また「新薬だから」といって投薬するのは末期癌患者相手の人体実験なのではないか?私たち家族の中で不信感が一気に膨らんだ。
「お父さんを実験台にして論文を発表するためのデータを取ってるんだよ!きっと!!」
皆がそう思い疑わなかった。
私はあのデッカイ体の笑顔に自信が現れているO先生が「まさか、そんなことを…」と思いはしたが「やはり大きな総合病院だもの、出世もしたいだろうから…。」と抗癌剤治療の中止に賛成してしまった。
その時の父は「薬を止めたら元気になる。畑にも行けるし、なんでも食べられる。少し見えづらくなっただけだから病院に入院する必要なんてない。」そう考えていた。
また「しかし、いずれはO先生ん所に入院することになるんだから、お前たち、あまりO先生のことを悪く言うな。」とも言っていた。
父は最終的にはS総合病院に入院するものと思っていたようだった。
それが違うと知ったのは、それから数週間後の10月初めのことだった。
姉のすすめで市内に唯一の在宅医療・在宅ホスピスを行っているSクリニックへ向かった父と母。そこで「最期まで当院で看ます。何かあってもS総合病院には連絡しないでください。」と言われた。この時から本当の意味での在宅医療が始まった。
当時、私は派遣社員から正社員への起用が決まり、新しい仕事についたばかりだった。毎日頭の中をよぎるのは仕事のことばかりで、父のことは「まだ大丈夫だろう」くらいにしか考えていなかった。それだけ私の目から見た父の姿は普通に思えた。
坂を転げ落ちるように容態が変化していったのは10月も半ばを過ぎた頃だった。頻繁に足の付け根に痛みを訴えるようになり、趣味の畑仕事も満足にできない状態になっていった。
姉は私に「お父さんの余命は後2か月だって言われたからね。」と告げた。
私は姉に「そう…。じゃ、年賀はがき買えないね。」と答えた。
「アンタって本当っ!冷たい人間!!」と吐き捨てるように言うと電話を切った。
でも、じゃあ、なんて答えたらいいの?
悲しみのあまり泣き叫べばいい?肺に再発した時点である程度の覚悟はしていた。それに今度は眼への転移。脳にだって転移しているかもしれない。10クールなんて言ってるくらいだもの。…そんなに長くはないだろうって!予測してたさっ!!
でも、だって、私に何ができるの?
体を取り換える?
ありえない空想の世界だけのこと
じゃあ、臓器を提供する?
そんなの そんなの
全身に転移しちゃってるの、どうしようもないじゃんかっ!
私はささやかなイベントを計画した。
スッポンを食べたことがないという父を湖畔の国民宿舎に招待し、父と母、私と私の息子の4人でスッポン鍋を囲っての晩餐会を催した。
スッポンの生き血を全員分たいらげた父。大笑いする私を見て、高校生の息子は「テンション高けぇ~。うぜぇ~。」と笑った。
私にとってこれが経済的にも精一杯の親孝行だった。
この時すでに父は杖をついての歩行しかできなくなっていた。じきに服用する薬もワーファリンに加え、抗てんかん剤に抗癌剤、鎮痛剤にはオプソが加わった。
母はこのオプソが何なのか認識していなかった。
モルヒネに対する不信感。
かつて祖父、母の父は膀胱癌で亡くなっているのだが、最後はモルヒネでもうろうとした中、息を引き取ったという。その時の嫌悪感がぬぐえないのだ。
母はSクリニックの主治医H医師に「モルヒネだけは処方しないでくれ」と言っていた。実際にはあり得ない話で、父が亡くなる寸前、私が指摘するまで母は知らなかった。
10月も終わりの頃、父の疼痛は酷くなる一方で室内の歩行も困難になり始めていた。そんな状態にもかかわらず、母は趣味のダンスに朝から晩まで出掛けることが度々あった。そんな時は、母が帰って来るまで私が父の傍にいた。
繰り返し、幼かった時のことを語る父。
中には初めて聞く祖父母の話もあった。私が生まれた時はもうどちらも亡くなっていたので、かえって新鮮な思いで聞くことができた。
「舌がうまくまめらんなくなってきた。」
父はゆっくりとした口調でそう言った。
癌が脳に転移してきたからだろうか…
私は何も答えることができなかった。
「寒い、寒い」と言って震えながらストーブの横に横たわり、母の帰りを待つ父。
「おかあさんはまだかねぇ。」
「もうすぐ帰って来るよ。」
父の体に毛布をかけ、さすってあげることしかできない自分が歯がゆかった。
母が帰ると、父は痛む足を引きずり「おかえり」と歩み寄る。
「ただいまぁ~」と意気揚々に答える母。
ダンスの後で高揚した母の顔を見ると怒りが込み上げてきた。
「もうちょっとお父さんの傍にいてあげられないの?!」
父の姿が見えないところで母に言うと「いやよぉぅ。ストレスが溜まっちゃうじゃない。」と言った。
もう少しで、もう二度と会えなくなるかもしれないのに
それでも外で皆と楽しくダンスを踊る方がいいのか
私には理解できなかった。
11月になると父の容態は急速に悪化していった。
この時すでにケアマネージャーの訪問が何度かあったらしいのだが、そのことを母から聞くまで全く知らなかった。介護用品カタログと名刺を見せられ、クリアファイルにはSクリニックのパンフレットがあるだけだった。
インテークは家族そろったところで行うものと思い込んでいた私は、今か今かとケアマネからの連絡を待っていたのだ。私の勝手な思い込みなのか、他のやり方は知らないが、在宅ケアに関しては当の患者本人の意見が最も尊重され、次いで家族の思いや意見が汲まれ、それに医療・介護・地域がチームを組んで取り組むものだと思っていた。
しかし、実際は担当ケアマネは父と母のみに会い(当時のキーパーソンは母だった)、私には一切打診することは無かった。姉は自身がケアマネであったため、担当ケアマネと話をすることが度々あったようだ。これは姉がケアマネである特異性もあってのことか分からないが、私が担当ケアマネと直接会ったのは父が亡くなる数週間前になってからだった。
11月も終わりにさしかかったころ、姉は父を箱根に連れていくと言い出した。
父と母、夫婦で何度も海外旅行に行っているのに箱根には行ったことが無いという。200km程度しか離れていないのに不思議な話だ。
この頃の父は見た目にも変化が表れていた。
訪問医を待って起きていることも苦痛となりだしたのだ。
思い余った母は「訪問回数を減らしてもらえないだろうか」と姉に相談している。在宅医療で週1~2回の訪問は通常の回数と思えるのだが、姉は「だったら月1回の訪問にしてもらったら?どうせ点数稼ぎに来てるんだろうから。」と母にアドバイスしている。
点数稼ぎ?80万都市のこの市内でたった一軒しかない在宅医療を行っている医院で4・5人の医師と数名の看護師でこの全域をカバーしている、文字通り寝る間もないだろう、そんなことが予想される医療サイドで度々訪問するということは、それだけ父の症状が予断がならないということではないか?私はそう受け取ったのだが、母と姉の受け止め方は違ったようだ。
そうした中で姉は箱根一泊旅行に父と母を連れて行った。
私は一抹の不安を覚えながらも「いってらっしゃい。気を付けて。」と送り出した。
「いや~、楽しかった。寿命が延びたよ。」という元気な父の声を想像しながら
ところが、旅行から帰ってきた父の姿は変わり果ててしまっていた。
顔はむくみ、瞼は赤く腫れあがり、髪は抜け落ち乱れていた。
5分と起きていることができず、いびきをかいて眠り込む。
目の前で座っていたと思ったら、バタっと倒れこみ「こんなことなら入院した方がよかったなぁ。死なせてくれぇ。」と晴れ上がった眼を固くつぶって呟く。
私の記憶の中の父と違う顔。
今にも溶けてしまいそうな、今にも心臓が止まってしまいそうな、そんな恐怖が私の身を包む。
なぜ、どうして?
ケアマネである姉の同行だから許したのに!
元気になって「楽しかったよ!」って笑顔でいると
「寿命が延びたよ。」って、またいつもの笑顔で話してくれると思ったのに!
なぜ!?
なぜ!?
聞くと4時間余りの間、ずっと座っての移動だったらしい。
箱根では杖をついて歩き回ったそうだ。
旅館ではビールを1本飲み干したそう…。
オプソ飲んでるのに!!
私は怒りを覚え、今にも姉に抗議したい気持ちをぐっと抑えた。
多分、父は姉妹ゲンカするところを見たくないだろうから
多分、送り出した私も同罪だと思うから
12月に入ると、いよいよ父の容態も正念場を迎えたようだった。
日替わりに変わっていた容態も時間・時間で変わるようになってきた。
それまで仕切りに寒がっていたのに、今は暑がったり寒がったりと。
冷たい手が熱を帯びたかと思うと、左右の足の温度が全然違うなど、ホメオスタシスがめちゃくちゃになってしまっているのだろうか。
この頃が一番薬の種類が多かったのかもしれない。
鎮痛剤に強オピオイド、抗てんかん薬、向精神薬、ワーファリンに抗癌剤、便通を良くする薬に胃薬などなど。一度医師が生理食塩水の点滴を行った時に母が投薬と勘違いし一回父に薬を飲ませるのを止めてしまった。3回のところを2回に減らしてしまっただけなのだが、その日の父の容態は最悪なものになった。
医師からは「ちゃんと必要回数を守ってください。」と念を押された母だが「ちゃんと説明してくれない方が悪いじゃんねぇ。」と逆切れ。
現場にいなかった私には何も言えないが、見た目にも急速に悪くなっていく父に不安ばかりがつのった。
師走になると仕事の方も忙しさを増す。
正社員になったばかりの私には介護休暇を申し出る度胸がなかった。
会社創立以来、一度も取得した人はいないと聞いて半ば諦めていたのだが、同じ職場の先輩女性が「申請するだけでもしてみたら?」と言ってくれた。彼女は申請する直前に母を亡くしている。
それだけ傍目にも切羽詰まって見えていたのかもしれない。
私は思い切って総務課長に申し出た。まずは介護時短から…。
すると総務課長は「必ず通しますから。」と言ってくれた。課長も父親を亡くされたばかりだった。
ほどなくして私の時短勤務は決まった。1日で決まるというスピードだった。
それには、つい数か月前に奥様を亡くされた社長の思いも託されていたのだ。
「入院していた家内の容態が急変したって病院から連絡があってね。15分後には着いたんだけど、間に合わなかったんだよ。貴女には、そんな思いをしてもらいたくないから、お父さんの傍にいてあげない。」社長は私に優しくそう語ってくれた。
私は多くの人の理解と支えを得て父の元へ行くことができた。
父はヘルパーの人が来ることを拒んでいた。「他人を家に入れたくない。」と。
その話を母から聞き、母の憔悴ぶりを見ての時短申請の決意であった。
正社員に成りたての私にとって、せっかくの正社員という立場を失うかもしれないという辛い選択であったが、今!今するべきことをやらないと一生後悔する!その思いの方が強かった。
この時も担当ケアマネからの打診は無かった。
後から分かったことだが、担当ケアマネが訪問すると父は私と間違えたそうだ。いつも体をさすってくれる人=私、という認識になっていたのか?私のケアぶりを聞いてヘルパーを頼む必要が無いと思ったそうだ。
私としてはどうだったのだろう。
介護時短・介護休暇を申請せずに、ヘルパーを頼んでくれと突き放した方が良かったのだろうか。申請して父の傍にいることができて良かったと思う。しかし、この後も後悔の念に囚われることになり、 結局はどちらを選択しても後悔したであろう…が今の私の結論である。
ほどなく意識が混とんとし呼吸も緩慢になってきた父。
もはや自力でトイレや入浴も不可能になっていた。
私は実家に着くと、まずはひとしきり痛む背中をさすり、体を拭いた。手が火傷しそうなくらい熱いお湯にタオルをひたし、肩からゆっくりと拭いていく。
「ああ、死んで体を拭いてもらっているようだ。」と父が言った。
「何言ってん!死んどったら水だよ!水!!生きとっからお湯なんじゃん!!」と私が言うと「水なんかで拭かれたら死んでんのが飛び起きるわ!」とろれつもままならない父がはっきりと言った。「死んでんのが飛び起きたら、こっちがびっくりして倒れるわ!」と母が言って皆が大笑いした。
楽しい瞬間
こんな一瞬がずっとずっと続けばいいのに
こんな些細な会話が永遠の記憶の中の宝石のように今も蘇る
あの一瞬は何物にも代えがたい私の宝物となった。
結局、私には担当ケアマネから何のアプローチも無いまま、トイレや風呂場に手すりが設置された。完全に後手後手である。
私はたまりかねて母に詰め寄ったことがある。
「なぜ、お母さんや姉さんにはケアプランの報告があって私には無いの?」母に詰め寄ったところでお門違いかもしれないが、母からの答えは「だって、アンタは関係ないじゃない。」だった。
私はその時の心情を日記にこう記している。
…関係ない!?
同居していない家族は家族じゃないの?
それじゃ、姉も同居していない。
では
なぜ姉の意見が通って
私の意見は無視されるのか?
「だって、アンタはいつも忙しいって言うじゃない」と母
「姉さんだって、いつも忙しいって言ってるじゃない。
同じ忙しいで私と姉さんとどう違うの?」
ケアプランを作成する上で
もっとも重視されるのはケアを受ける本人である。
そして、それを支える家族の意見が次に重要視されるのでは?
…では
何もアプローチの無い「関係ない」とまで言われた私は
……………………………………………家族ではない?
私はハナから部外者だったのか
息子にこの日のことを伝えると「もう、じーじの所、行くのやめたら?関係ないとまで言われて行くことないじゃん。」と言われた。
そう、関係ないなら行くことない…。
でも次の日、私の足は実家へと向かっていた。
理屈ではない。
そう思った。
私が行きたいから行く。
ただそれだけのこと。
理屈じゃない。
私は夢を見た。
桜が爛漫に咲き乱れる真っ白い空間に私と父がいた。
花吹雪の中、桜の一枝が父の胸に舞い降りた。
術衣を着た父がにこぉっと笑った。
「よかったね、お父さん。神様に祝福されているよ。」
そこで夢が覚めた。
ようやく遠方に住む父の兄弟が来訪することが決まった。
医師から「会わせたい人がいるなら今のうちに連絡を。」と言われ、ようやく母が動いたのだ。本当は父が何でも食べれて何でも飲める時に来てほしかった。しかし、それを母に告げると反対されたのだ。「誰が相手すると思ってるの?私は嫌よ。」と足蹴にされたのだ。
12月の今にも降り出しそうな曇り空の中、6時間もの時間をかけて父の兄、姉、弟たちが駆けつけてくれた。私は叔母に「がめ煮を持ってきて。」と電話していた。父に故郷の料理を食べさせてあげたかったからだ。私は転勤した先で生まれ育っているので作ってあげられない。まだ少しでも経口摂取ができるうちに叔母の手料理を食べさせてあげたかった。若くして母を亡くした父にとって叔母は母親同然の人で、兄弟の中でも一番仲が良かったそうだ。
「いつも手を引いて歩いとったんよ。」と叔母は言う。
父に会うなり「何しとう!しっかりせにゃあ!!」と叔母が言うと「こんなんなると思わなんだもぉん。」と父は泣き声になってしまった。その姿はまるでお姉ちゃんに怒られている幼い弟のようで、弱弱しく差し伸べた父の手を叔母や叔父たちはしっかりと握った。
「がめ煮、いっぱい持ってきたから食べさしたって。」と一抱えのがめ煮をもらった。
「重かったでしょう。ありがとう。」と受け取ると涙があふれてきた。
泊りがけで来たものと思っていたらトンボ返りだという。
わずか3時間ほどの再会。そして、これが今生の別れを意味することは誰もが感じている事実であった。片道6時間かけて病床にある父に会いに来てくれた叔母たち。
皆、後ろ髪をひかれる思いだったに違いない。
別れ際、叔母に抱きついたまま離れなくなった私を叔母はしっかりと抱きしめ「がんばってね。たのむね。」と言い帰っていった。
降り出した冷たい雨の中、わずかな再会の時は終わった。
疲れたのか安心したのか、大いびきで寝てしまった父。
私は叔母が作ったリリアンで編んだ亀のマスコットを父の枕元に飾った。
この頃から、父の体のあちこちに腫瘤が見られるようになった。痛みがさらに増し、アンペック座薬に加えデュロテップパッチによる疼痛コントロールを開始。経口摂取が困難になり始めたため点滴による水分補給も開始された。しきりに暑さを訴える。腰と背中、左肩の痛みが顕著。自力による立位保持、歩行が困難となり、日を追うごとに衰弱していく父。それでもお気に入りのソファーに座り見えなくなった眼でお気に入りの演歌番組を見る。「もう横になったら?」と私が言うと「想像して見てるの。」と言ってしばらく座って見ていた。
父は度々夜中も痛みを訴えるようになったため、私は泊まり込みでの介護を決めた。
実家に泊まり込み、早朝、家に行き息子の朝食と弁当を作り会社へ向かう。仕事を終え帰宅するとすぐに台所へ向かい夕食を済ませると実家へと急ぐ。母と交代で介護し就寝。夜中も多い時で2時間おきくらいに投薬やトイレの世話をする。母も私も体力の限界に近づいていた。後悔のないように、できるだけのことはしたい、という強い思いだけだった。
私は最悪の場合「解雇」も覚悟して介護時短から介護休暇の申請をした。
この時も担当ケアマネから一切の打診もなく、姉からはねぎらいの言葉ひとつもなかった。自分勝手な判断と言えなくもないが、憔悴しきった母を見ると私の判断は正しかったように思う。
最も困惑したのは投薬だった。
この頃の父はまだ心臓病のためのワーファリンと糖尿病のためのインシュリンを継続している。それに加えて鎮痛剤のカロナールや強オピオイド薬、吐き気止めなど幾種類もの薬を飲んでいた。それにプラスして疼痛の際のレスキューにアンペック座薬、胸にはデュロテップパッチが貼られている。癌の疼痛は突然やってくるのか、うなるように痛みを訴える父にアンペック座薬を使った。当然、使用記録はとっていたので十分な時間を空けての投与だったのだが呼吸が緩慢になってしまった。
慌てた私は医師に電話すると「様子を見てください。」と言われ、まんじりとした夜を過ごすことになった。
翌朝、医師の回診があったのだが、とりあえず様子を見るだけで終わった。
血圧も血液中の酸素飽和度も問題の無い数値だった。
私はほっとしたものの、強い恐怖を感じざるを得なかった。
私の投与がきっかけで父の呼吸が止まってしまうかもしれない。
そう思うと、在宅医療をすすめた姉に怒りが湧いてきた。母にはこの恐怖を背負わせてはいけない。以前、母は投薬のミスを犯している。もしかしたら、今度は本当に愛する夫の息の根を止めてしまうかもしれない。
たくさんの薬、投薬の量、時間、タイミング。
初めての在宅ケアをしかもターミナルケアを経験して、その難しさに直面し恐怖に震えた。もしかしたら、私が父を死なせてしまうかもしれない…。
私は実家にノートパソコンを持ち込み、インターネットで情報収取を始めた。しかし、ネットで情報を集めても、いざレスキューで使うとして、何の薬が一番適しているか迷う。いきなりの疼痛でレスキューに何が最適なのか分からない。オピオイド系と非オピオイドとの組み合わせも複雑で、父が苦痛や絶望を訴えた時の心理的ケアも難しかった。
本人にとって、住み慣れた家で家族に付き添われているのは気が楽なのだろう。だが、ターミナルケアの場合、どこまで家族は対応しきれるのか、この精神的恐怖と肉体的疲労。自らの限界と在宅医療の難しさが浮き彫りになった気がした。
そもそも、医療、介護、地域、家族との連携でなされるのが理想の在宅医療だとするなら、スタートから間違っていたのではないかと思う。父にとっては家族に看取られて旅立つことができたのは幸せだったのかもしれない。私たち自身も多くのことを学んだ。それは何物にも代えがたい経験だろう。
しかし、この後、10年以上もの長きに渡って後悔の念を抱くことになったのは、在宅ケアの難しさにあると感じる。少なくとも薬の問題や症状のコントロールは病院にいれば、私の中で恐怖を感じるものではなかったはず。
ほどなくして父の両耳は聴力を失った。この頃から手先の振戦、せん妄や認知症に似た症状が現れるようになった。不自由になった右手を左手で叩く。苛立ちのあまりの自傷行為。なだめるように話しかけても、おそらくこの声は届いていない。腫れあがった瞼。涙を浮かべ「お母さん、どうして思うよう、ならんのかねぇ…。どうしたらいいんかねぇ。」と大きく声をあげ、がっくりと頭を垂れる父。もはや私たちにできることは限られていた。
クリスマスが近づき、スーパーマーケットはクリスマスの装飾や品々で賑わっていた。母がシャンメリーを買ってきた。せめてものクリスマス気分を味わいたかったのだろう。私は父の手を握り聖書を読んだ。こんなに長く父の手を握ったのは子供のころ以来だろう。私は高校生になっても父と腕を組み買い物に出掛けていた。
私が男だったら焼き鳥屋でジョッキを傾けながら父と飲み明かす夜があったかもしれない。一度でいいから一緒に居酒屋で飲みたかったね。
私はビールの缶を開け父の口元へ近づけた。
父は嫌そうに手を振った。
「ザル」と豪語していた父だが、もうアルコールを受け付ける余力は無かった。
ああしとけばよかった、こうしとけばよかったと人は大抵ギリギリになってから思いつき後悔するのである。
日曜日の朝、父は呻き声にも似た声を大きく発すると意識が朦朧となった。
とうとう「その時」が近づいたのである。
血圧の降下と共に血小板の数値も下がり、血糖値も下がっていった。数種類あった薬も今や疼痛用の薬だけになっていた。点滴の針も刺せず、かろうじて刺せても血管から液が漏れてしまい苦痛が増えるだけとなった。輸液もできない。まさに万策尽きた状況だった。私たちにできることは傍にいて手を握って、痛む背中をさすってあげることだけだった。
もう残された時間はわずかだった。
遠方から母方の叔母が駆けつけた。返事すらままならない状態だった父がはっきりと話し出した。冥土へ行くための渡し賃を用意していること、孫たちに託したいこと。それまでとは嘘のようにはっきりと孫の手を握って話す父。姪は涙を流しながらじっと聞いていた。しっかりと手をつないだまま。
平成20年12月27日未明、父が永眠した。
壮絶なる闘病生活が幕を閉じた。
最後まで痛みを訴えていた父も、亡くなる寸前は安らかに眠って逝った。
27日にお通夜、28日に告別式と気世話しなく時間が過ぎていった。
幾たびも死の宣告を受けながらも、その度に意識を取り戻した父。
最後に笑顔を見たのはクリスマスイブの日だった。
父が植えた大根を見せにいくと、じっと見て「小さいねぇ」とつぶやいた。
「でも、みんな美味しいって言ってるよ。」と言うと、うんうんとうなずく。
「あっ!土落としちゃった!お母さんに怒られる!」と言うと、にた~っと笑った。笑顔はそれが最後だった。
お父さん
私は間違っていなかったでしょうか
でも
もう
それを答えてくれる人はいない
ただ言えるのは
今年のクリスマスは家族皆がそろった
最後の
本当に最期のクリスマスだったということ
Last Christmas 続 凛 @tama1107
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