11 国家権力?

「任意だよね、黒木さん」

 そう言って聡は走った。トレンチコートが集団で追いかけてくる。今度は逆に、混雑が味方した。一人の聡は人々の間をすり抜けられるが、団体はそうはいかない。群衆との間に摩擦が起きて、刑事たちは徐々に遅れていく。これならば。そう考えた時、前方から別のトレンチコートが現れた。待ち伏せだ。立ち止まっている余裕はない。路地に飛び込んだ。だが、それは罠だった。袋小路に追い詰められた。おおよそ一対三十。もしも格闘技の達人だったとしても、勝ち目はない。一子相伝の怪しげな拳法を使うアニメではないのだから。しかも相手は警察官だ。それぞれが、それなりに戦うすべを持っていると考えた方がいい。

 聡は奥歯が擦り切れそうなほどに歯ぎしりした。自分が捕まるのはいい。過去の行いを反省しているのだから。でも、こうしている間にも流光は。部長の脂ぎった顔が頭をよぎった。無邪気に微笑む流光の顔に影が差し、それは怯えの表情へと変わっていく。そして。

 聡は膝を折り、地についた。目を閉じてうなだれる。自分があの時、たった一言、言えたなら。行くな、と。

「観念したか、お兄さん」

 黒木が集団の中を抜けて近づいてきた。

「……行かせてはくれないだろうか」

 聡は舗装されていない地面で土下座した。

「はあ?」

「どうしても行かなければならないんだ。それが終わったら自首でもなんでもするから。今は、行かせてくれないか」

「何を言っているのか分からないなあ」黒木は自分の部下たちの方へと振り返った。「誰か、この人の言うことを翻訳できる者はいるか」

 静かな笑いが起きる。

「おっと、足が滑った」

 黒木のつま先が聡の鳩尾みぞおちを蹴った。声も出せないで地に顔を落とした聡の頭を、黒木が踏みつける。聡は砂を噛んだ。

「国家権力を舐めるなよ」また後ろを振り返った。「どうだ、今のセリフ。それっぽいだろ。県警だけどな」

 さっきよりも大きな笑いが起きた。

「少しぐらい抵抗しろよ、情けない。世界最高のスポーツマンだったじゃないか。つまらん奴――」

 黒木は最後まで言えなかった。聡を踏んでいた足が大きく上がって後ろへ倒れた。聡がふいを突いたのだ。走った。全力で。トレンチコート集団の横をすり抜ける。

「ようし、公務執行妨害だ。好きにしろ」

 路地の出口にもトレンチコートが現れた。完全に囲まれた。黒木が前に出た。

「妖精さんの力を借りて好き放題しやがって。それも、もう終わりだ」

 拳が聡の頬を捉えた。視界が大きくぶれた。激しい痛みを感じながら、聡は舗装されていない地面を転がった。

「いいざまだな。妖精さんがいなければ何もできない。ただの雑魚だ。雑魚とは違わないのだよ、雑魚だ」

 黒木は見せつけるように大きく右足を引いて、聡の腹に狙いを定めた。

「そう言えば妖精さんの姿が見えないが。見捨てられたのか。哀れなものだな」

 残忍な笑みを浮かべて足に体重を乗せる。

「公務執行妨害への対応中に事故で死亡」先の尖った靴が地面を離れた。「死ね、インチキばっかりしやがっ――」

「そのくらいにしてはどうだ」

 少ししわがれた、けれども強い意思の力を感じさせる声が路地に響いた。黒木の体がビクン、と跳ねた。直立不動になり、敬礼した。

「ほう、私の声は忘れていなかったようだな、黒木」

「隊長殿に、敬礼」

 トレンチコート集団が全員背筋を伸ばして敬礼した。

「身に染みついた記憶とは恐ろしいものだ。まだ私が怖いのか。ただの年寄りだぞ」

「怖いのではありません。尊敬しております」

「嘘をつくな。膝が震えている」

 老人が聡の所へ歩み寄って跪いた。

「大切な用事があるんだろう? それは妖精さんに関係することじゃないのか。倒れている場合じゃないはずだ」

「あなたは、さっき公園で……」

 聡はきゅっと唇を結んで拳を握り締めた。立ち上がる。一礼して駆けた。

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