オオサンバシからオールトの図書館(2)

 赤い絨毯じゅうたんの道を進むと、蛍光灯に照らされた巨大な空間に出た。

「オールトの図書館の一階は展示スペースでね。今は絵画展をやっているんだ。ちょっと見て回りながら二階へ向かおうか」

天井の低い展示スペースには床から幾枚いくまいもの壁が一見不規則に、しかし自然な順路を形作るように生えていた。私たちはゆっくりと歩きながら、そこに掛けられているさまざまな画風の絵を見て回った。

 ひまわり、モナ・リザ、真珠しんじゅの耳飾りの少女、落穂おちぼ拾い、睡蓮すいれん、見返り美人図、富嶽ふがく三十六景より神奈川沖浪裏。

 絵画に詳しくない私でも、見たことのある絵がいくらもあった。

「トアノ、随分有名な絵が多いけれど、まさか本物じゃあるまいね」

絵画の合間をって歩きながら、私はたずねた。

「何をもって本物と呼ぶかにもよるけれど、全部、作者本人が描いたものだよ。ここにレプリカはひとつだって無いさ」

私はアリスエに一刻も早く会いたくもあり、また、これらの絵をもっとじっくり見て回りたくもあった。

 ゲルニカ、タヒチの女、オペラ座のオーケストラ、イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢、草上の朝食、カード遊びをする人々、ピエタ。知らない絵が多くなってきた。私は歩きながら絵とタイトルの書かれた札を見比べていた。

「あ、主人。これを見てよ」

トアノが指す壁の方へ、私とキミは早足で歩いていった。掛けられた三枚の絵は、星月夜と象、そして恋人たちであった。

「この絵まであるのか」

私とキミは旅路で出会った者たちの本来の姿を改めて観察した。流動するうずと星月によって表現された幻想的な風景、長い脚をもち、オベリスクを背負った不自然な調和で存在する宇宙象、そして、顔がおおい隠されたことによって異質な恐怖を振りまく恋人たち。

 ねえ、キミ。信じられるかい。今、私たちは彼らと同じ世界に居るんだ。

 順路は次第に図書館の壁に沿い始めた。緩やかに湾曲した壁には各ゲートから繋がっているのであろう入り口が一定間隔に並んでいた。私たちはその合間に掛けられている絵を見ながら歩いた。

「この辺りの絵は、広く、世間に知られることのなかった作品たちなんだって。でも、その良さは決して今まで見てきた作品たちに引けを取らない。当然だね」

今の私には、その言葉の意味が分かった。私もキミも、多数が振り向かなかったというだけの偉大な画家たちの名画を丁寧に見て歩いた。

 雨のロンドン、ケープの少女、自画像、ヤシ酒と主人、港の風景、永代橋えいたいばし、無題の静物画、エジプトの夜明け、愛する人。

 どれも見事だった。私は全ての画家とじっくり、創作について語り合いたいような気がした。

 キミはどの絵が気に入った?

「主人、キミ。階段が見えてきたろう? あそこから二階へ上がるんだ」

速めようとした歩みが、止まった。視界の端にとらえた絵のためであった。何故なぜ、その絵が気にかかったのかは、よく分からなかった。

「トアノ、キミ。少しだけ待ってくれ」

私はそう声をかけるとその絵の正面に立った

 タイトルは、素敵な食卓。

 ラムプが吊られた質素な食卓。その中央にはこの家の主であろう初老の男性が座っている。その両脇には、その男性と同じくらいの年齢の女性と若い男性が座っていた。食卓にあるのはパンを入れたかごとスープの器、恐らくワインが入っているのであろうボトル。若い男性の手元には少し大ぶりの真新しいマグカップ、主人とその妻と思われる夫人の手元には古びたマグカップがあった。そして主人が今、若い男性にワインを注いでいるところであった。

 ねえ、キミ。私はね、こんな想像をしてみたよ。聞いてくれるかい。

 この主人とこの女性は、夫婦だろうね。そして、こっちの若い男性が二人の息子なんだ。祭事か、息子の休暇のためか、家族は久々に再会が叶ってこうして食卓を囲んでいるというわけさ。見てのとおり、この家は裕福じゃない。でもね、二人は息子を迎えるために随分ずいぶん奮発ふんぱつしたよ。ほら、ワインを見て。食卓に似合わず、と言っては申し訳ないけれど、洒落たデザインじゃないか。きっと、少し上等なんだろう。マグカップもそうだ。ひとりだけ、こんなに真新しいのは不自然だ。もしかしたら、この日のためにお父さんが買ってきたのかもしれないね。暗くて分かりづらいけれど、息子は何処どこか、きまりが悪そうにしている気もする。そしてね、この三人は互いに遠慮えんりょしている。ほら、見てごらん。パンとスープは幾らか減っているのに、ワインは少しも減っていないんだ。お父さんがこれだけボトルを傾けただけなのに、ワインが流れ出ているだろう? きっと息子もお父さんも、互いに飲ませたいんだ。お父さん、きっと、なみなみと注ぐだろうね。この後、息子もお父さんに注ぎ返すだろうか。しかし、お父さんのマグカップの中はあまり減っていない気がするよ。なんだか、心が温まる、素敵な絵じゃないか。

 おっと、少し喋り過ぎた。すまないね。キミが話を聞くのが上手いものだから、つい、ね。もちろん、私が今言ったことは全く見当違いかもしれない。勝手な妄想さ。しかし、それでも私はこの絵が好きだ。言語化できる理由なんて無くてもね。


 長い階段を上ると天井近くまで届く程の高い本棚が無数に並ぶ空間が広がっていた。スライド式の長い梯子が方々の本棚にかけられていた。二、三人の利用者が本を抱え、足音を忍ばせて歩いてる空間にはミストのような静けさと古い紙の匂いが満ちていた。

「すごい蔵書の量だね」

私は声を潜めてトアノに投げかけた。

「そうとも。上の階にも地下にも、ここと同じくらいの本があるんだ。さ、アリスエを探そう」


 私たち三人は案内所を訪れた。カウンターの中ではフリルのついた青いエプロンを身につけた少女が座っており、利用者の女性と何やら話をしていた。少女は手元の書類を整理しながら女性に何かを確かめていた。

「ええと、プリンキピアさんは今日は最新の数学の学術論文をお探しなんですね」

「はい。ゲートでドロシーさんにおたずねしたところ、アリスさんに聞けば分かるとのことでしたので、こちらにうかがいました」

プリンキピアと呼ばれた女性は丁寧な口調で返答した。

「それで、お探しの論文はいつ頃完成したものですか」

「昨日、完成を知らせる手紙が私の主人のもとに届いたのです。まだ、こちらには届いていないでしょうか」

女性は姿勢よく直立したままであった。

「もう一度、著者ちょしゃのお名前をお聞きしてもいいですか」

「ライプニッツ。ゴットフリート・ライプニッツです」

「ゴット……フリート……ライプニッツ……」

少女が手元の書類に目を落としたため、カウンターにその姿が消えた。

「あ、ありました」

少女が勢いよくカウンターから顔を覗かせた。

「その論文なら、確かに、今日届いていますよ。今日、到着分の作品はまだ、地下に保管しているので、向こうの昇降機しょうこうきをご利用ください。貸出処理を行う場合、こちらのカウンターで受けつけますね」

「分かりました。ありがとうございます」

プリンキピアは丁寧に頭を下げ、歩き去った。


 一度椅子に深く腰掛けた少女は私たちに気がつくと、再び立ちあがった。

「トアノさん、お久しぶり」

「やあ、アリス」

彼女は丁寧にお辞儀した。

「アリスエに会いに来たんだ。今、何処どこに居るかな」

「まあ、それならちょうどよかった。今、アリスエさんと交代したところなの。多分、談話室で帽子ぼうし屋とお茶しているんじゃないかしら」

「そうかい。ありがとう」

トアノはアリスが指した談話室の方へ歩き始めた。

「トアノ、今の女の子、君はアリスって呼んでいたけれど、彼女はやっぱり、あのアリスなのかい」

「そうさ。彼女は気の向いた時、ここで司書の仕事を手伝っているんだ。形式上、アリスエの上司、ということになるのかな。かなり長く勤めているんだ」

「アリスエもここで働いているのだったね」

「そう。司書としてね。さっきアリスが交代したって言っていたから、きっと休憩時間なんだろう。本当にいいタイミングでやってきたね」

本棚をいくつも抜け、私たちは談話室、という札のかかった扉の前にやってきた。トアノが扉に手をかけると同時に、中から大きなシルクハットを被った男が出てきた。彼は小さく、失礼、と呟くと歩き去った。

 私はいよいよ待ちきれなくなり、顔を突っ込むようにして中へと入った。

 かなり広い部屋。椅子と机がまばらにあり、五、六人の利用者たちが銘々めいめいに読書をし、あるいは談笑していた。入り口近くにはささやかなキッチンのようなスペースがあり、珈琲の粉や茶葉の詰まった瓶とティーポット、ティーカップ、マグカップが並んでいた。そして部屋の突き当り、半球の一部として曲面になった大きな窓、その近くで安楽椅子に腰かけ、本を読む女性! トアノとキミを置いたまま、私は大股に彼女の方へと歩きだした。

 一歩ずつ、距離が縮まる。

 彼女、そう、彼女がアリスエだ。繰り返し、私の創作に登場した彼女はどんな人物であっただろう。彼女は、私を見てなんと言うだろうか。私は、なんと声をかければよい? やあ? 久しぶり? いや、違う。初めまして? ようやく会えた? 会いたかった? 覚えてる? 違う、違う。嗚呼ああ、なんと言えば。

 とうとう私はアリスエのかたわらに立っていた。熱心に本を読む彼女は、まだ気づかない。私が彼女に声をかけられず、口を開けたり閉じたりしているところへ、トアノとキミがやってきた。その気配に気づいたアリスエは本から目を離し、私たちの方を振り向いた。しばらく彼女は細い目を見開き、私の顔を言葉もなく、見つめていた。しかし、不思議なことに彼女と視線が合うことはなかった。

「貴方なのね。やっと、姿が見られた」

彼女は声を震わせながら、嬉しそうにそう呟いた。

「よく来たわね」

彼女は立ちあがり、琥珀こはく色の慈悲じひ深い目で私のほおのあたりを見ていた。緩やかにカーブした栗色の長髪、いかにも女性らしい曲面的な身体つき、大人びた長いスカート、私と変わらない程の身長、下がった目尻。嗚呼、そうだ、間違いない。彼女がアリスエ。私が生み出した愛しい人物。

 アリスエはキミへ、目を向けた。

貴方あなたも、いらっしゃい。おおよそのことはトアノから聞いているわ。三人で旅をしているんですってね。私はアリスエ。よろしくね」

アリスエの差しだした手を、キミは握った。

「そうだ。ここまでやってきたんだもの、疲れたでしょう。さ、座って。今、お茶をれるわ。待っててね。この辺りにある椅子なら好きに使って構わないから、とにかく皆、楽にしていて」

アリスエはそう言い残すと、小さなキッチンの方へ歩いていった。

「トアノ、キミ。私はちょっと彼女を手伝ってくるよ」

私は返事も聞かず、アリスエの後を追った。


 彼女はちょうど、電気コンロで湯を沸かしているところだった。

「何か手伝うよ」

彼女は驚いて私の方を見た。

「休んでいてっていったでしょう? いいのよ、気にしなくても。でも、ありがとう」

アリスエは私に微笑みかけた。どう返事をしてよいか分からず、私はいびつな笑顔を返した。談話室の静けさが心地よくもあったが、私は何かしらの会話でそれを埋めようと模索もさくしていた。

「ねえ」

アリスエは電気コンロに背を向け、私の顔を見た。やはり、目は合わなかった。

「本当に久しぶりね。元気にしてた?」

「うん。なんとか」

「そう。よかった、貴方が今日まで無事に生き延びてくれて」

郷愁きょうしゅうにも似た感情がこみ上げてきた。

「ここにやってきたのは、いつだったかしら」

「初めて来たのは昨日の夜ってことになるかな」

そう言いながら、私はこの二日間の夢でいかに濃密な経験をしていたかということを自覚した。

「そう。トアノとの旅はどうだった?」

「楽しくもあったけれど、それよりも今は、この世界が消えてしまうかもしれないということが恐ろしいよ」

睡中都市すいちゅうとしを、大切に思ってくれているのね。ありがとう。じゃあ、旅で何か思いだしたことはある?」

思いだす、という言葉が金属のように光った。

「私が、かつて創作をしていた、小説を書いていたということと、ウツギの核、憎悪ぞうおのことは思いだしたよ」

「憎悪って、どういうこと?」

「夢を否定して、苦悩礼讃くのうらいさんを現実だと宣言する者たちへの、憎悪」

アリスエは小さく頷いた。

覚醒党かくせいとうのことね。それも、私は知っているわ。じゃあ、それ以外はどうかしら。何か思いだしたことはある?」

「それが、思いだせないんだ。でも、分かる。私にはどうしても思いだせない記憶があって、それは、確か――」

 ?

 私が記憶を手繰たぐろうとした時、アリスエの手が、私の頭に触れた。

「いいの。そんなに苦しそうに、必要以上のことを思いだそうとしなくても。確かに、貴方に思いだしてほしい記憶はあるわ。それは貴方にとっても、この世界にとっても、大切なこと。いずれは思いだして。ただし、本当に大切なことだけをね。失われた記憶の中には、貴方にとってつらい記憶もあるわ。貴方が記憶を失くしているのは自衛じえい本能のようなものなの。いい? ゆっくりでいいの」

アリスエは私の頭を優しくでた。

「今日まで、よく頑張ったわね。本当に」

どうしてよいか分からず、目線が彼女の首元辺りを泳いだ。

 彼女は私の全てを知った上でいたわってくれている。そんな気がした私は、ここが図書館でなければ、泣きだしていた。

 やがてアリスエは並べてあったびんから、茶葉をティーポットに移した。

「ご主人。貴方が失っている記憶の中には、私たちの誕生日もあるのよ」

「え?」

確かに、アリスエやトアノ、ウツギがいつ生まれたのか、私ははっきりと思いだせなかった。

「その日は私たちにとって特別な日。どうかしら。少しは記憶を呼び戻すのが楽しみになった?」

アリスエがティーポットに湯を注ぐと、ダージリンの香りが立ち込めた。

「いつだろう。君たちが生まれたのは。そしてどうして、君たちは生まれた? もう少しで思いだせそうな気もするんだ。そして、アリスエ、君の核は……」

「はい」

アリスエがカップの並んだトレーを私に差しだしたことで思考が止まった。

「お茶もれたことだし、皆の所へ行きましょう? 続きはその後で、ね」

私は促されるままにトアノたちの所へと戻ることにした。


「あれ、キミひとりかい」

 戻るとトアノの姿はなく、大きなテーブルの周りに椅子が並べてあった。そしてキミは誰も居ない中、何処どこか居心地が悪そうにしていた。

 ひとりにしてしまって、すまなかったね。トアノは?


 私がカップの乗ったトレーをテーブルに置きながらたずねると、キミは彼が誰かを呼びに行ったと教えてくれた。

 一体、誰を呼びに行ったんだろう。

「一緒にお茶をする人は多い方がいいでしょう? もう直ぐ来るんじゃないかしら」

アリスエがティーポットを机に置くと同時に談話室の扉が開いた。トアノと共に入ってきたのは、中性的な美貌びぼうの少年。私たちは、彼を知っていた。

「ウツギ!」

思わず私が叫ぶと、彼はあからさまに嫌な顔をした。

「幾ら談話室でもそんなに大きな声は出さない方がいいと思うけど」

彼とトアノがそれぞれ椅子に掛けると、アリスエがカップに紅茶を注ぎ始めた。

「ウツギ、どうしてここに? あの後、大丈夫だったかい? ついの町はどうなった?」

あまりにも矢継ぎ早な質問に自分でも驚いていた。

「少し落ち着きなって」

ウツギはため息をついた。

「さあさ、紅茶を飲みながら、ゆっくりお話ししましょう、ね?」

アリスエの言葉で、紅茶の香りに意識が向いた。私の心は少しずつ、落ち着きを取り戻し始めた。


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