オオサンバシからオールトの図書館(1)
五 オオサンバシからオールトの図書館
「主人、キミ、あそこに見えるのがオールトの図書館だよ」
長い桟橋の向こうに広がる丘の頂上に、浮き島で見たドーム状の建物が見えた。空には満月と針の
「主人、前にも話したけれど、あそこには過去から現在までの全ての創作物が所蔵されているんだ」
「そして、この桟橋を渡りきると、オールトの図書館の力が働く。そこを訪れる人にとって、繋がりの強い創作が出迎えてくれるんだ」
「繋がりが強いって、どういうことだい」
「単純なことさ。主人やキミが良いと感じる創作ということだ」
桟橋と陸地との境界で、トアノが立ち止まると、私たちもつられて足を止めた。
「さあ、どんな作品が現れるのかな。行こう」
一歩、踏み込んだ途端、夜空が
「
トアノはうっとりした表情で息をついた。
これまで写真でしか知らなかった絵画が今、風景として私を包んでいた。私はかの、耳を失った情熱の画家と、時空を超えて固い握手を交わしたような
キミはこの絵画を知っているかい?
月と星の輝きを視界に捉えながら筆跡の渦を見つめていると、催眠にかけられたかのように自我を忘却しそうになった。そして生まれた思考の空白に“ようこそ”の情報が入ってきたような気がした。
「そうだ、糸杉!」
思い当って空から視線を戻した。周囲を見渡すと、果たしてそれは丘の中腹にあった。燃え上がる城が炎と共に固化したような黒い糸杉。星月夜の不連続な
偉大な絵画の風景は見渡す限りの大パノラマ。その中に、私たちは生きていた。今、私たちの姿すら、あの画家によって描かれているのではないかという空想までもが浮かんだ。
「トアノ、キミ、美しい風景だね」
トアノとキミは言葉を返すことなく頷いた。
星月夜に照らされながら、緩やかな傾斜を歩むうちに、少しずつ、白銀のドームが近づいてきた。私は睡中都市の消滅も、現実世界の生き方も、何も考えることのない、この瞬間が永遠に続けばよいと考えていた。
ふと、私は図書館の
ねえ、キミ。あんなものがさっきまであっただろうか。
私の指す方をキミが見たその時。しわがれたトランペットのような高音が大音量で響き渡った。これまでの旅路で唐突な大音量と不安とが条件付けされていた私は、反射的に水晶塔を探した。ちょうど、それは私たちの背後にあった。そこでは、私たちの歩んできた道や桟橋、川までもがあの画家の筆に染まっていた。
「水晶塔は、なんともない」
では、今の音は。
「彼だよ、主人」
私はトアノの目線を追った。
「ああ、なるほど。あの
「よく目を凝らしてごらん。あれは櫓なんかじゃないよ」
再びトランペットのような音が響いたかと思うと、櫓だと思っていたものの脚が滑らかに動いた。大きな一歩を踏みだし、次の一歩を踏みだしてそれは歩き始めた。あまりにも大きな歩幅のために、遠近感を超越したように動くそれは、どんどんと私たちの方へ近づいてきた。やがて、私たちの眼前にそびえるように立ったのは、オベリスクを背負い、昆虫のごとき節を
「客人よ、よくぞ参った」
「すまんな。驚かせたか。我なりの歓迎のつもりであったのだ。許せよ」
「宇宙象だ」
ようやく彼の名を思いだした私は子供のように大声をあげた。
「我を知っておるか。そうだ。我が宇宙象である」
宇宙象は遥か頭上から、私とキミに視線を定めたようであった。
「我は今、お前たちに呼応する作品として、ただ
宇宙象はその細長い脚を弓のようにしならせて私とキミの顔を
「ふむ。ゲンジツによる浸食。水晶塔を介した消滅の危機、か」
彼は身体を戻し、低く
「案じぬがよい」
彼の放ったあっけない返答に私とキミは顔を見合わせた。
「そう妙な顔をするでない。何故そう言い切れると、問いたいのだな。少し、待ってくれ。我ら描かれた者は言語や文字によって語ることに慣れていないのだ。いやしかし、
彼が天を
「そうともそうとも。こやつの言うとおりよ。思えば、こやつと対面するのも随分と久しいことだ。こやつの主も、我が主に劣らず、上手く描いたものよ。おっと、すまん。話を戻そう」
宇宙象は再び、私たちに目を落とした。
「この世界の滅亡を案じぬ方がよいと言ったのはな。そう。そんなことは、真の意味では起こり得ぬからだ」
「本当に、そう言い切れるのですか」
私は大きな声で頭上に問いかけた。
「不安は晴れぬか。では、我が姿を見よ。これが最も正確な解答である。我が姿を見て、お前たちは何を思う」
私たちは彼の言葉に従い、
細い枝のような脚は見上げる程に太さを増し、節によって次の枝へと接続されていた。それらが今にも折れそうなバランスの妙で生命の理から外れたかのように枯れた巨体を支えていた。そしてその背にあるのは身体と同じく、砂丘の色をした浮遊するオベリスク。
「答えよ。我を見てなんと思う。我が主の意向はさておき、お前たちは何を見る」
星月夜に描かれた大きな星々が宇宙象を照らしていた。
少しの間をおいて私とキミが二つ三つ、言葉を発した。それを聞いた宇宙象は言葉を解析するようにして深い息をついた。
「ふむ。そうか。お前たちの言葉の髄、そこに共通するものを抜きだせば“不自然”ということになるか。そう。そのとおりである。間違ってはおらぬ。お前たちの観念から見れば、この身体は大層、不自然、
宇宙象の言葉を、まるで理解できないわけではなかった。しかし、脳裏に浮かんだ消滅の光景のために、私はそこに安堵を見出すことはできなかった。
「しかし、私はこの目で見たのです。ゲンジツの影響で生まれた、水晶塔の輝きで焼かれた者たちを。あの者たちはどうだというのです」
私は少し、宇宙象に食い下がった。
「
その言葉を聞いても
「いやしかし、そこまでこの世界を気にかけてくれるか。トアノよ。お前は良き主を持ったな」
宇宙象はトアノに目線を移しながらそう言った。
「ああ、そのとおりだよ」
トアノは晴れ晴れとした表情で叫んだ。
「さあ、客人たちよ。アリスエ
宇宙象はそう告げると、星月夜に鳴き声を響かせ、長い足を踏みだして川を渡っていった。私はその後姿を、
キミ、どう思う? 宇宙象の言っていたように誰かの心に残り続けていれば、いつか彼らは
キミは何かを考えるように、黙って宇宙象の後姿を見つめていた。
「二人とも。彼が言っていたように、今はそのことに捕われ過ぎないで。旅を続けようじゃないか。せっかくの景色がもったいないよ。星月夜に宇宙象! なんていう組み合わせなんだろう。きっとまだ、僕たちを待っている存在が居る筈だよ。それを楽しみに進もうよ」
道はやがて、丘の頂上へ続く少し急な坂道となった。しばらく歩いてから、私は立ち止まり、絵画の風景の一部となっていた足元の草を少し、千切った。絵筆の筆跡が具現化した、人工と自然の
「トアノ、こうして少し高い所から見下ろしてみると、たくさん道があるんだね」
「ああ、そうさ。オールトの図書館、つまり、全ての創作へと通じる道は決してひとつじゃない。どんな方向にも、等しく開かれているってことさ」
私とキミはこの場所に秘められていた真実に接したような心地で息をのんだ。
「と、僕は思っているんだけどね」
「なんだ。トアノの感想かい」
そう言いながらも、私はトアノの言ったことを全面的に信じていた。
キミはどう思う?
やがて丘の頂上に至ると、それぞれの道が集約した異国の環状交差点のような景色が広がっていた。そして、その中央に星月夜の光を
「入口になるゲートは幾つもあるんだけれど、今日は一番近い所から入ろう」
トアノに続いて図書館へと近づいた。周囲をたくさんのゲートに囲まれた図書館は古代の円形闘技場のようにも見えた。ゲートに支えられた半球状の部位には大きな窓がランダムに
私たちはようやく、ひとつのゲートの正面に立った。よく見てみると、想像に反して、アーチになっていると思っていた
「ゲートは訪れる度に変わるんだ。今回みたいなものは、僕も初めて見たよ」
私が中へ入ろうとドアノブに触れると同時にドアが開き、スーツ姿の人物が出てきた。
「おや。少し席を外していた間にお客様が。失礼。ようこそいらっしゃいました」
続いて、赤い服をまとった人物が出てきた。
「ようこそ。歓迎いたしますわ」
私は頭の片隅で口調と声、身体つきからスーツの人物が男、赤い服の人物が女であろうと予測しながら、声も出せなかった。
二人の人物が頭部全体を白い布で
「二人とも、どうしたんだい」
ふいに後ろからトアノに声をかけられ、私とキミは
「トアノ、驚かさないでくれよ。少し、彼らの
「おや。我々の姿から異様さ、不気味さを感じていただけたとは、恐れ入ります」
小声でトアノに話しかけたつもりではあったが、それは彼らに筒抜けであったようだった。
ねえ、キミ。あの布越しに口の所だけパクパク動いている様は、特に不気味じゃないかい。
キミは顔の見えない二人の姿と先に見た覚醒党員の姿が重なって見えると教えてくれた。
「ああ。そうだね。確かに共通点はあるようにも思えるけれど、彼らは覚醒党員のような存在ではないように感じるよ。彼らは有る顔を隠している。覚醒党員の顔はそもそも存在していない筈だ。これは大きな違いだと思うな。それにね、私は彼らの姿を昔、絵画で見たことがあるんだ。確か、タイトルは“恋人たち”だったかな」
女が私の方に顔を向けた。
「あら、よくご存知ね。そう。私たちに与えられたタイトルは確かに“恋人たち”よ。もっとも、タイトルが常に絵画の内容を物語っているとも限らないでしょうけれど。ねえ」
女が男の方を向くと、それに呼応するように男もまた、女の方を向いた。二人が、恐らくは見つめ合っているのであろう時間が
「私たちのことはお気になさらず。今日はお呼びいただき、ご挨拶にあがっただけでございますから」
「どうぞ、中に入ってくださいましよ」
私は少し、彼らの方へ近づいてゆくのを
「さあ、主人。恋人たちもこう言っていることだし、入ろうよ」
トアノにそう言われ、私は二人の間にあるドアのノブに恐る恐る手を伸ばした。
?
ノブは回らなかった。幾度回しても、駄目であった。
「あの、鍵が」
男に声をかけてみた。
「いえ、鍵など、かかっておりませんよ」
言い切られてしまったものの、ノブは一向回らず、押しても引いても開く様子はなかった。
キミ、開かないんだ。代ってみてくれないか。
しばらく
「あら、あれを忘れていますわよ」
女が男に投げかけた。
「あ、そうそう。これを取りに行くために席を外したというのに。いやはや、失礼」
男はスーツのポケットから、到底そこに収まりきらない筈の大きなステッカーを取りだし、それをドアの中央に貼り付けた。そこには異国の言葉で
“これはドアではありません”
と書かれていた。
「なんです、これは」
「そのままの意味ですよ」
返す言葉も見つからず、私は沈黙するしかなかった。
キミ、どうしようか。これはドアではないらしい。うん。そう。確かにそうだ。彼らはここから出てきたよね。とすれば、ここから中に入れるのだろう。ドアでない、とすれば、戸だったりしないだろうか。ちょっと試してみてくれ。そう。ドアノブを持って、引き戸のように開けるんだ。スライドさせて、どう? 駄目か。反対側にも? そうか。
「ねえ、トアノ。何か知らない? どうやって入ればいいんだろう」
「うーん。こんなゲートは僕も初めてだよ。以前見たゲートの中には、ドアがホログラムになっていて、素通りできるものがあったけれど」
なるほど。これかもしれない。キミ、今度は私が試してみよう。もし通れたら、キミも続いてくれ。
私はドアのはるか向こうを見るようにして歩き始めた。
通れる
!
ドアに激突した。ドアはどうしようもなく、存在していたのであった。頭を押さえて俯くと常夜ヶ原の氷壁が一層鮮明に頭に浮かんだ。
「おやおや。お怪我はございませんか」
男が私に顔を近づけた。顔が布目の分る程に近づいてくるのはかなりの恐怖であった。
「少し、ヒントを差し上げてはいかがでしょう」
女がその場を動かず、男に提案した。
「では、そうしよう。良いですかな、皆様。何事も上手くいかない時、人は必ず固定観念に捕らわれているのです。これはこうであるべき、こうでなければならない。そうして自身をより小さな
「固定観念」
キミ、どう思う? 今思いついたんだが、忍者屋敷によくある、壁がくるりと回転するあれじゃないだろうか。ちょっとやってみよう。
私は力を入れ、ドアのあらゆる
「駄目だ」
私はため息に蓄積した
「いえいえ。駄目、ということはありませんよ。貴方がたは早くも第一の固定観念を突破していらっしゃる。つまり、ドアはノブを回してから押し、或いは引いて入るものだという観念を。しかし、まだ貴方がたはより大きな固定観念に捕らわれたままなのです。視野を広く持ち、それを突破するのです」
困り果てた私は助けを求めるようにしてトアノの方を振り向いた。首を傾げていたトアノはやがてドアから離れ、大きなゲートを上から下まで広範囲に眺めた。
「ああ、そういうことか」
彼は納得した様子で手を打った。
「トアノ、どうやって入るか分かったのかい」
私とキミはトアノのもとへと駆け寄った。
「恋人たちの言ったとおりだよ。僕たちは固定観念に捕らわれすぎていたようだ。ちょっと、ここから向こうを見てごらんよ」
キミと並んで言われるままにドアの方を見る。ゲートに比べて随分と小さなドアだということしか分からなかった。
キミは何か気づいたかい?
「二人とも、ドアばかり見ていては分からないよ。あれはやっぱり、ドアじゃないんだから。それに、
ゲートの幅広い人造石の面を、巨大な三日月の光が薄く、照らしていた。焦点を定めず、その全体を視野に入れ続けていると小さな異変に気づいた。ゲートの上方、その隅にうっすらとした線状の影が出現すると、それが長くなりながら、滑らかにゲートの対角へと動いたのである。何かがおかしい。そう考えているうちに、影は幾度も同じように出現しては消えた。
まるで、ゲートが波打っているようだ。人造石が波打つわけはない。しかし、今、それが風に揺られるかのようにして動いている。もしやあれは。
キミ、分かったかい。
私たちはゲートの方へ戻り、ドアの横辺りの箇所を
「おめでとうございます」
恋人たちが声を揃えてそう言いながら拍手していた。
「固定観念を打ち破った貴方がたに祝福を」
「改めて、ようこそいらっしゃいました。さあ、お入りになって」
「二階でアリスエさんがお待ちですよ」
ハリボテになったドアの
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