第2話

 青年の誘いにはすぐに返答できなかった。それに、拒否し続ければすぐに諦めるだろうと思っていたというのもある。しかし、青年は勧誘を諦めることはなかった。あまりしつこくならない範囲で、流れ物について解説するなどして細々とアプローチを仕掛けてきたのだ。けれど、あまり流されてはいけないと思ってできるだけそっけなく返した。

 そんな日々が続き、一週間、二週間、一ヶ月と過ぎていく。青年はいつの間にかここの生活に染まり、他の住人たちと親しげに話していた。彼の持ち前の明るさと人の好さがあってか、遠目から見ていた住人たちさえも彼に好意的な態度を示すようになっていた。さすがに私も無下にし続けることができなくなって、青年に声をかけていた。


「参ったね。君はなかなかに頑固なんだな」

「そうですかね? 決めたらなかなか折れない性格だとは思ってましたけど、そう言われたのは初めてです」


 青年はにこりと笑ってみせる。強かな青年だなとそれを見て改めて思ったものだ。

 簡素な自宅に戻り、青年と自分用に茶を沸かす。この地域で育てられている薬草で作られた茶だった。口元に寄せると、スッとした爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。


「君が前に言った通り、私も外には興味がある」

「じゃあ」

「でも、私には役割がある。もちろん、他のみんなにもだ。それを放棄してはいけない」


 私の言葉に青年はしゅんと肩を落とした。反応が分かりやすくて、私は思わず笑みを零してしまう。


「たとえばこの茶もそうだ。この土地の奥に住んでいる女性が作ってくれて、こうして飲むことができる」


 それぞれに与えられた仕事があり、役割をまっとうしてここは成り立っている。


「じゃあ、放棄しない方法を考えればいいんですね?」


 そう言うと、彼は私が森の外へ出かけていいか許可をまず得に行った。私はそれにおよび腰で同伴する。首長は意外にもそれに許可を与えてくれた。門前払いではないかとすら思っていた私の予想はあっさりと外れたのだ。

 それから青年は私の仕事を請け負ってくれないかと、他の住人に頼み回ってくれた。難色を示す者もやはりいたが、一週間もすれば仕事の協力者が集まり、割り振りも決まった。

 私が外に出る期限も決めた。外の世界で季節が一巡りしたらここへ戻ってくる。それが約束だった。

 外に出る支度すら済ませたのだが、いかんせん現実感が湧かない。夕焼けをぼんやりと眺めながら茶を啜る。隣では青年が壮年の男性からもらった豚肉を串に刺して、火で焼いている。


「……まさか、ここまでやると思わなかった」

「おじさんが受け持っている仕事なら、協力してくれる人がいれば外には行けると思ってました」


 はいどうぞ、と青年が串を差し出してくる。それを遠慮がちに受け取って、私は見よう見まねで頬張った。 肉汁の旨みが口の中に広がる。出かける餞別だと言っていただいたものだった。この森で肉はなかなかの贅沢品だ。

 隣で肉を頬張る青年をちらりと見る。視線に気がついたのか、彼は何かと目に疑問を乗せてくる。


「どうしてここまでやるんだい?」

「だって、一度ぐらいやりたいこと、やってみてもいいじゃないですか。おじさんにも後悔してほしくなかった。それにきっと、外からのものを取り入れたら、ここにも変化が生まれると思うんです」


 変化。青年はためらわずにそれを口にする。変化は怖かった。不安定な中で生きていくのは何よりも恐ろしく感じた。


「変わることが、怖くはないのかい?」

「うーん、怖くないって言ったら嘘になると思います。でも、僕はこういう生き方しかできないから」


 青年はぽつりと漏らした。いつもの快活さが影を潜めた声音だった。その静けさはすぐに明るい笑顔で上書きされた。


「それに、こうして会ったのも何かの巡り合わせだと思うんです。改めて、明日からよろしくお願いします」

 そうして、青年との森での暮らしは一幕を閉じた。







 森を出る。言うのは簡単だけれど、森から出ていくのは初めてのことだ。とにかく緊張する。

 荷物を詰めたバックパックを背に、私は青年とともに森の入り口に佇む。ふと気になって、隣の青年を見た。


「そういえば、君はどうやってここに辿り着いたんだい?」

「どうだったっけなあ。行き倒れかけていて、気がついたらここにいたんですよねえ」


 危機感のない答えが返ってきて、私は呆れてしまった。

 この森に辿り着く条件も出ていけるかも分からないが、まずは先に進まなければならない。私たちは鬱蒼とした森をランプ片手に歩く。青年が何か丸いものを取り出したが、すぐにしまってしまった。気になって問いかける。


「さっきのはなんだい?」

「コンパスです。方向を確認するためのものなんですけど、ここでは役に立たなそうです」


 青年が苦笑いを零す。コンパスという道具の中央には針がついていた。その針はずっとクルクルと回り続けていた。

 ほんのりとオレンジの光が暗い木々を照らす。しばらく歩き続けるけれど景色は変わらず、急に心細くなってきた。そんな鬱屈を晴らすように、明るい声が隣から響いた。


「なんだか気が滅入ってきますね。……そうだ! 歌を歌いましょう」


 なんとも突拍子もない提案だ。彼と出会ってからしばらく経つが、まだ彼の行動は読むことができない。


「歌? 私は歌なんて分からないよ?」

「じゃあ、僕が歌いますね。聞いていて、歌えそうだったら歌ってください」


 なんて無茶な注文だと思っているうちに、青年が歌い始めた。

 口から紡がれたのはいつもと違う、大人びた伸びやかな声。歌なんてあまり聞いたことがないのに、不思議と心地よかった。青年が口ずさむのは森の空気を変えてしまうほどの陽気な歌。歌い続けているうちに耳に馴染んできて、私も少しだけメロディを口ずさんだ。


「故郷の歌なのかい?」

「いえ、世界を巡っている時に教えてもらった歌なんです。故郷のことはよく知らなくて」


 そんなものなのだろうか。疑問には思ったものの、それぞれ事情があると思ってそれ以上深くは聞かなかった。

 そんなふうに歌を口ずさみながら歩き、休憩を二度ほど挟んでしばらく経った時だった。


 ――ホーゥホーゥ。


 どこからともなく鳴き声がする。天を見上げると枝に何かがとまっているのが見えた。二羽のフクロウが驚いた様子でこちらを眺めていた。


『森の住人だ。森の住人がこんなところにいる』

『どうしよう?』

『長に知らせた方がいい?』


 彼らは私たちに構わず論議する。なんとも賑やかだ。彼らはひとしきり喋ると空へと飛んでいってしまった。


「……フクロウが喋ってる」

 ぽかんとした様子で青年がフクロウたちを見つめる。そうか、普通のフクロウは喋らないのかとそこで察した。そこでバサバサという羽音が耳に届く。先ほどの子たちよりも二回りほど大きなフクロウが枝に止まった。


『森の子よ。この外に出るおつもりかい?』


 重厚感のある声だった。先ほどの幼子が話していた長だろう。私は一礼をしてから彼の質問に答えた。


「はい。恐れ多いことですが。ここを通してはもらえませんでしょうか?」

『何も知らぬものが外に出るのは難儀だろう。それでも外に出るつもりだと?』


 長の言葉に私は何も返せなかった。私から視線を外し、彼は隣に立つ青年を見遣る。


『君が彼を外に誘ったのだね?』

「はい。……森の住人が外に出ることは、そんなにも悪いことなんでしょうか?」

『ここにはここの規則がある。遠い遠い昔から続いてきた因習がね。外に興味を持つ者もいたが、こうして実際に行動に移した者は君たちが初めてだ』

「因習……と仰るなら、それは崩してもいいものではないですか?」

『知らぬ方が幸せなこともあるだろう』

「それでも無知のままで生き続けるのは……愚かなのではないかと、僕は思うんです」


 青年の回答に長は黙する。長い静寂が森の中に鎮座していた。私は彼らの会話にただ飲み込まれていた。

 どのくらい経っただろう。不意に長が天を仰ぎ、ぽつりと漏らした。


『……そうですか。然るべき時が来たということですか』


 長は肩を竦めるような仕草をすると、向かい側の一つ下の枝に飛び移った。彼の姿を追って後ろを振り返る。そこには暗澹とした森が続いていた。


『お行きなさい。森の子よ。明かりが貴方たちの行く道を示してくれるだろう』


 長の一言で白いキノコがほんのりと光を帯びる。先ほどまで見据えていた木々の先に次々と光が灯り始め、闇を照らし出した。

 これを持っていきなさいと告げた長は何かを青年に向けて投げた。はらりと落ちてきて、彼はそれを慌てて受け止めた。


「行きましょう」


 青年がにこりと笑う。私はどうにかそれに頷いてみせた。

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