第3話

 照らされる深い森の道を歩き続ける。灯りが前に向かって一直線に伸びている光景は壮観だった。だんだんと木々がまばらになり、周囲が明るくなってくる。思っているよりもずっと早く、その時は訪れた。

 眩しい光が目を差す。思わず閉じてしまった目をゆっくりと開ける。そこに広がっていたのは広大な大地と遮るもののない青い空。私はその光景を言葉なく見つめていた。


「大丈夫ですか?」


 声をかけられて我に返る。相槌を返すと青年はホッとしたように顔を綻ばせた。ふと振り返ってみた先に森はない。まるで自分に起こっていることが夢のように思えた。


「とりあえず街を目指しましょう。ちょっと待っていてくださいね」


 青年はそう告げると大きな紙を取り出した。覗いてみると、そこには絵と文字が書いてある。あいにく、私には読めない文字だった。どうやら、それは地図らしい。青年は長からもらった木葉を確認し、地図と睨み合いをすると、程なくして顔を上げた。


「ここから一日ほど歩けば街に着きそうです。頑張りましょう」


 広い荒野を二人で歩く。休憩を挟みながら歩みを進めると、整備された道に辿り着いた。青年は掲げられている標識を確認して太い道を行く。

 太陽が低くなり、だんだんと空が薄暗くなっていく。オレンジと深い青が緩やかにグラデーションを作る空がとても美しかった。

 一日を経て、少し湿り気のある空気が私たちを出迎えた。そこには多くの人と物が溢れていた。青年に案内されながら街を巡る。すぐここに辿り着いたのは幸運だったと青年は笑っていたが、人波に酔ってしまった私にはあまり幸いなことと思えなかった。

 案内されるがまま歩くと、開けた場所に出た。見たこともないような広大な水面が遥か彼方まで広がっている。たくさんの船が岸壁に並んでいた。キラキラと光が反射する水面に目を奪われる。


「綺麗ですよね」

「……ああ」

「僕、ここの街が好きなんです」


 私も好きだよと返すと、彼はとても嬉しそうに笑った。

 港を見た後、青年はまずは宿をとりましょうかと提案した。慣れないことばかりで正直疲れ切っていた私にはありがたい申し出だった。その日は体を休めるために早々に床についた。

 翌朝、朝食を済ませると青年とともに街中へと出かける。街の大通りはさまざまな物が並んだ小さいテントがたくさん並んでいた。野菜や果実、衣服や織物といった日用品。見たこともない物が所狭しと置かれている。


「すごい……」


 もはや人の流れに圧倒されるばかりである。人々をかわしながら店――市場を巡る。色とりどりの物が並ぶ光景は見ているだけでも楽しかった。

 突如、少し前を歩いていた青年が小さな子供とぶつかった。幼子は詫びることもなく逃げていく。身なりは綺麗とはいえなかった。小さな後ろ姿はすぐに人ごみの中に紛れてしまう。


「ん? あれ?」


 ふと青年はそう呟き、ズボンの後ろポケットを漁る。そこにあったはずの皮袋がなくなっていた。確か硬貨を入れていた袋だ。


「もしかしたら、さっきぶつかった子に盗られたかも」

「それはいけない。早く探し出さないと」

「え? ああ、別にいいですよ」


 予想外の返答が来て、私はえっと声を上げてしまう。彼は苦笑いを浮かべて頭を掻きながら続けた。


「恥ずかしい話、僕も昔、さっきの子みたいに盗みをしていたことがあります。気持ちが分からなくもないといいますか。だから、まあいいかなって」


 唐突な告白に私は言葉を失ってしまう。青年は苦笑いを濃くすると、ぐるりと市場を見渡した。


「雑踏の中で、食べるのもやっとな日々を生きてました。ある時、盗んだことがバレてしまったことがあったんです。その時はボコボコにされるんじゃないかって、怖かったです」


 幼い頃の彼はどんな日々を送ってきたのだろう。想像もつかない。

 森の暮らしは退屈と感じることもあったが、平穏だった。あんな小さな子が生きていくのさえ、ままならないらしい世の中。この世界で生きる人々は果たして幸せなのだろうか、なんて思ってしまう。

 青年は遠くを見つめながら続ける。その横顔に諦観などない。


「けど、その人は怒るどころか許してくれて。諭されていろいろなことを――生きる術を教えてくれました。それからは真っ当に生きようと思えて、世界を渡り歩いています」


 彼の姿は太陽の日差しよりもいっそ眩しい。ふと目を逸らしそうになったところで私はあることに気がついて、ぽつりと漏らした。


「それなら、尚更さっきの子を探して、話をしてあげたほうがいいんじゃないかな?」

「あ、そうか!」


 青年は辺りを慌てて見渡すものの、後の祭りだった。この人混みで名も顔も知らない誰かを探すなんて到底無理だ。

 仕方ないですねと言って青年は苦笑いを零した。けれど、それ以上に私の心には不安が押し寄せてきていた。


「……その、大丈夫なのかい?」


 私が不安になるなんて恐れ多いとは思いつつも、ついそんな言葉が出てしまった。

 この世界で生きていくにはお金が必要だと青年が言っていた。現に、宿に泊まるのにも食事をするにも銀貨や銅貨を使っていた。いくら世情に疎いとはいえ、現実を目にしているのだから不安にならざるを得なかった。


「あ、はい。なくなってしまったのなら稼げばいいんです」


 青年は事もなげに笑ってみせる。狼狽える私を引き連れ、彼は街中の広場へと赴いた。そこには先ほどとは違った賑やかさがあった。一人を大勢の人が取り囲んでいる。青年によると、中央にいる人が芸を披露しているらしい。

 そこで青年は空の皮袋を置くと歌を歌い始めた。突然何を始めたのかとびっくりしたが、彼の軽やかな声はすぐさま人の目を引いた。あっという間に人が周りに集い、一つ曲を終えるごとに皮袋に硬貨が投げ入れられた。唖然とする私を差し置いて、青年はウインクしてみせる。


 私は何も知らなかった。世界はさまざまなものと生き方で溢れているということを。

 私は己の白紙を埋めるように青年とともに道を辿る。世界は美しくも無邪気で残酷で、時に優しかった。青年が流行り病に罹った時は肝を冷やしたものだ。人はあっけなく死ぬのだと改めて知らされたようだった。

 彼と道を辿るうちに、だんだんと私の白紙が埋められていく。抜け落ちていた記憶が徐々に蘇ってきたのだ。


 そう、私たちはもともと無知ではなかった。いや、それは違う。無知だったからこそ、あの森に辿り着いたのだ。

 あそこは罪を起こした者の流刑の地だった。世界に溜まった悪しきものを捨て置く場所。世界に不要と評された者の終の住処だった。私たちは記憶と知識を剥奪されてあそこに堕とされた。きっと森を出ないままでいたら、知らなかった事実。

 自分に嫌気がさした。物事を知り始め、無知から抜け出したと思った矢先、元から道理を知らぬ莫迦だったことを知ったのだから。

 己の生き方を恥じた。そして、自身の愚かさを思い出したことで、もう一つの懸念が浮かび上がってきた。これを他の者に知らせるか否かだ。悩みに悩んで結論が出せなかった私は青年に相談した。ありのままをすべて話して。

 青年は初めとても驚いた様子だったが、真剣な表情で私の話に耳を傾けてくれた。すべてを聞き届けた上で一人納得したような顔をする。そして、彼は私に問うてきた。


「貴方はどうしたいんですか?」


 その問いを前にして私は何も返せなかった。青年はそんな私を見て、ただ笑った。


「僕は貴方が選んだ道がどちらだとしても、応援しますよ」


 ああ、この選択まで他人に任せてしまうところだったのかと、自分の莫迦さ加減に気がつく。けれど、悔いてばかりで立ち止まっているわけにはいかない。私はもう一度悩みに悩んで、森に戻ることにした。ちょうど季節が一巡りする時だった。あの港街の外れに行くとあの森が私たちを出迎えた。

 戻った私は自身の仕事をこなしながら、外で学んだことを住人たちに教えて回った。青年もそれに手を貸してくれた。そのおかげで森での生活は少しずつ変化し、豊かになっていった。外に興味を持ってくれる人もいて、青年とともに外に出かけていった。


 そうして彼らも自身の白紙と無知を知る。そう、私は彼ら自身の選択で自らを知ってもらおうとしたのだ。教えられるよりも、体感したほうが自分のこととして受け止められるだろうと思ったのだ。そして、彼らも自分の無知を恥じて、生き方を変えたいと力を貸してくれた。







 たくさんの季節が巡りゆく。多くの人が外に出かけて己の罪を知り、無知を自覚した。不思議なことにそれにつれて鬱蒼としていた木々がまばらになり、森が徐々に明るくなっていった。長い時間をかけて街は明るい光に彩られるようになった。


「ずいぶん賑やかになりましたね」


 青年は広場の噴水に腰掛けて、感慨深そうに呟く。いつの間にかこの街は流れ者の止まり木と呼ばれるようになり、たくさんの人が訪れるようになった。


「青年のおかげだよ」


 もう青年という歳でもないですけどねと彼は笑った。壮年を越え、貫禄を感じさせる彼を私は今も青年と呼んでいた。

 広場に風がそよぐ。ようやくここまできたのだと、私はその光景を改めて見て思った。私は意を決して青年に声をかけた。


「もしよかったら、君の名前を教えてくれないかな?」


 私の言葉に青年はとても驚いたような表情をした。

 名前を尋ねるのは自分が彼と対等になれたと思えてからと決めていた。どうしても自分の生き方に納得してから彼を名前で呼びたくて、ずっと問わずにここまできた。内に秘めていた願いをようやく口にして、緊張に体が強張る。

 優しい風が吹いた。青年は顔を綻ばせる。少年のような屈托のない笑顔だった。


「僕の名前は――」


 彼の名は涼やかで自由で、とても綺麗な音だった。

 その日、私は初めて名前を自分で口にした。

 辿ってきた白紙に色がついた日だった。

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白紙を辿る 立藤夕貴 @tokinote_216

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