白紙を辿る

立藤夕貴

第1話

 青年が屈託ない笑顔を浮かべながら食事を食べている。まだ見慣れない光景だ。彼は質素な食事を本当に有り難そうに口に運んだ。彼がいるだけで簡素な寝室がやけに鮮やかに映った。


「助かりました。本当にありがとうございます。どうなることかと思いました」


 食べ終わって開口一番、青年はベッドの上から頭を下げた。彼を客人と表現していいのかは分からなかったが、そんな人に対してろくなもてなしができないことが悔やまれる。


「いや、こんなものしかなくて申し訳ないね」

「そんなことはありません。助けてもらって本当に感謝しています。僕は」

「ああ、待って」


 私は慌てて手を挙げて制止する。突然言葉を遮られたからだろう、青年はきょとんとした顔をした。


「ええと、固有の名詞――名前っていうのかな。そういうのは、ここでは言わないほうがいいと思う。ここでは皆、そういったものを持たないからね」


 えっという驚きの声を青年が上げる。顔にはわずかな困惑が垣間見えた。しばらく彼は思案しているようだったが、やがて分かりましたと答えた。


「ここの規則ならそうしたほうがいいんでしょうね。でも、恩人の名前を知れないのは……寂しいですね」


 青年の思いがけない言葉に今度は私が目を丸くする。なんとも律儀な青年だ。思わず顔が綻んでしまう。


「はは。気にしないよ。なんせ、ここではみんながそうなんだから。それに、命の恩人だなんて大袈裟な」

「僕にとっては大切なことなんですよ」


 青年はそう零してむくれた顔をした。その振る舞いが子供っぽくて、再び笑みが零れてしまった。青年は少し不服そうにしていたが、やがてベッドの端に足を下ろした。慌てて私は彼を押しとどめる。


「もう少し休んでいてもいいんじゃないかな?」


 彼はこの森に訪れた迷い人だった。仕事中に倒れている彼を見つけて、急いで自宅へと運び込んだのだ。特に怪我といったものはなかったものの、この土地の医者に見せたら衰弱しているとのことで、しばらく介抱していたのだ。


「だいぶ調子がいいんです。こうしてお世話になりっぱなしなのも悪いので、何かお手伝いさせてくれませんか?」


 青年は柔らかな笑みを浮かべて、そう申し出た。とはいえ、自分がやるべき仕事は決まっているので、何かを頼むならそれしかない。しかし、それを頼んでいいものか頭を悩ませる。


「お願いします。なんでもいいんです」


 青年から縋るような目を向けられる。その視線に負けて私は肩を竦めた。

「それじゃあ、私の仕事の手伝いをしてもらってもいいかな?」

「はい、もちろんです!」


 私の返答に青年は相好を崩した。







 なんの変哲もない一日が始まる。けれど、いつもと違って今日は隣に青年が立っていた。

 鬱蒼とした森が私たちを出迎える。大きな袋を持ちながら私たちは森を巡った。

 この森に流れ着いた物を拾うのが私の仕事だった。物は大抵役に立たない物だし、時には何かの亡骸もあった。

 ここは世界の吐き捨て場だと、どこかで聞いたことがある。あらゆる世界のいらなくなったものがここに流れ着いてくるらしい。


「流れ着くなんて言い方、不思議ですね」


 流れ物を大きな皮袋にしまいながら青年が言う。指摘されて不思議なのかと私は思った。ずっとこう言い伝えられていたから、疑問にも思わなかった。海とか川なら分かるんですけどねと青年は苦笑いを零した。

 そうか、ここは森だったと私は天を仰いだ。深緑の葉を茂らせる木々はいつものように何も語らない。

 そんなたわいもない言葉を交わしながら、私たちは流れ物を拾い集めた。読めない字が書かれた空き缶、使い古した靴、黒くて細長い恐ろしい物――何かの武器だろうか。流れ物を拾い集めて、見つけてしまった亡骸を埋葬し、私たちは家に戻る。

 普段なら流れ物を何でも飲み込んでしまう洞穴に投げ入れるのだが、青年がじっくり見てみたいというので一度自宅に持って帰ることになった。彼は拾った物を見ては興味深そうに頷いたり、一人でうんうん唸っている。


「これってあの国の? うーん、読めないなあ」


 床に座りながら青年は流れ物である古本を吟味する。好奇に満ちた顔に何となく興味をそそられて、私は彼の横に腰を屈めた。


「何か見たことがある物でもあったかい?」

「あ、はい。この本、見覚えのある文字が書かれているなあって思って。でも、この言語あんまり得意じゃなくて、ほぼ読めないんですけどね」


 そう零して青年は苦笑した。続けて手に取った物を見て、彼は懐かしいと顔を綻ばせる。

 流れ物を見ながら、青年が知りうる限りの中で解説をしてくれる。それを聞くのは純粋に興味深くて楽しかった。表情をころころと変え、楽しそうに語る青年がなぜかとても羨ましかった。






 しばらく青年と仕事を共にしてからのことだった。


「おじさん、この森を出てみませんか?」


 流れ物を片付けて自宅に帰ってきて早々、そんな問いが投げつけられた。私は夕食のためにと剥いていた芋を落としそうになる。


「この森を出る?」

「はい」

「どうして?」


 あまりにも突飛な話についていけず、問い返すことしかできない。青年は至って真面目な表情で私を見ていた。その顔を見て冗談ではないのだと察した。


「僕と世界を回ってみませんか? こことは違った文化があって、きっと学べることも多いです」

「私はここの生活で満足しているよ。それに仕事もある。ここを離れられない」


 これでこの話はおしまいと言わんばかりに私は背を向ける。話を終わらせたかったのは正直な気持ちだ。これ以上彼の言葉を聞いてはいけないと思ったのだ。


「どうして離れられないと思うんですか?」


 青年から疑問が投げかけられる。子供のような純真無垢な声音だった。なぜかその声を聞いて、ちくりと胸が痛む。


「それは、前例がないから……」


 前例がないのは事実だった。流れ者として訪れた人に感謝されることはあっても、こんなふうに森から出てみないかと誘われたことなど一度もなかった。前例がないことを自分がやるなど、恐ろしくて仕方なかった。


「やってみないと分かりません。出られなかったら出られなかったでいいんです。それにおじさん、僕の話を聞いてくれていた時、楽しそうに見えたんです」


 青年の言葉にぴたりと動きが止まってしまう。青年は背を向ける私に変わらずに言葉をかけてきた。


「もしよかったら、僕と一回、挑戦してみませんか?」


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