第2話 秘密と取引
翌朝、ぼくは誰よりも早く教室に到着した。
昨夜は一睡もできなかった。科学館の青白い閃光、輝城テクノロジーの買収、そして涙を浮かべていた亜佳莉の表情——すべてが頭の中でぐるぐると回り続けていた。
『ハルト、心拍数が上昇しています。興奮状態が続いているようですね』
「うるさいな、ソラ」
そう言いながらも、ぼくは窓の向こう、木々の梢ごしに見える科学館に目をやる。
昨日あの建物で何が起きたのか? そして、輝城テクノロジーは何を企んでいるのか?
ぼくの机の上には、これみよがしにバケツが置かれていた。中を覗くと、机に入れていたはずのぼくの教科書が乱暴に突っ込まれている。
「……またか」
『ひどいです、ハルト。これは明らかないじめです』
ソラの声に、ぼくはため息交じりに肩をすくめた。
「そうだね」
『残された指紋から犯人を特定できます。解析し、担任に報告しましょう』
ソラの提案に、ぼくは首を横に振った。
「ソラ、君の能力をあまり晒したくない。それに、そんなことをしても〝事故〟が増えるだけだよ。そのうちみんな飽きるって」
バケツから教科書を取り出す。水が入っていなかったことにちょっとだけホッとする。汚れたり破れたりすれば、母さんにまた余計な心配をかけることになる。それだけは避けたかった。
『ハルト……なぜ我慢するのですか?』
「慣れてるから」
『それでも……』
「いつも心配してくれてありがとう、ソラ」
ぼくはメガネの縁を軽くなでた。このいかつい黒縁メガネ型シンクは、クラスメイトの洗練されたシンクとは違って、古くて分厚くて見た目もダサい。でも、ぼくにとっては祖父がぼくに残してくれた唯一の贈り物だった。
今年の春、母さんは輝城テクノロジーの子会社に転職でき、ぼくらは再び祖父の残した懐かしい古家に戻ってきた。
十四歳になったぼくは、転校さえすれば新しい学校ではいじめがなくなるかもしれないと少しだけ期待した。だが、それもつかの間。周りに溶け込めなかったぼくには、すぐに〝ダサメガネ〟というあだ名がつけられ、いじめが再燃した。
もちろん母さんはすぐにそのことに感づいた。
「ねえハルト、今なら少しは余裕もあるし、あなたに新しいシンクを買ってあげることだってできるけど……」
だが、ぼくは断った。
ぼくのシンクは祖父の遺品であること、それに多少見た目が悪くても、優しく有能なAIソラが搭載されたこのメガネを手放したくなかったからだ。それに、その頃にはもう、ぼくはソラが普通のAIでない事にも薄々気づいていた。
「おはよ〜」
「オッス!」
クラスメイトが次々に教室に入ってくる。日高が僕の顔を見ていらだたしげにチッと舌打ちをしたが、ぼくはもう何にも感じなかった。
◆◆
『ハルト、少し気になることがあります』
六時限目の授業が終わったタイミングで、ソラが声をかけてきた。
「なんだい?」
『今朝から午後にかけ、学校のネットワークに不自然なアクセスが検知されました。アクセス元は……輝城テクノロジーです』
「え?」
「現時点では不正侵入は確認されていません。ただ、公開された行事情報や写真にアクセスし、特定の生徒を探している気配があります。特に、ハルトの情報に多数のアクセスが……』
背筋にぞっと怖気が走った。輝城テクノロジーとの関わりと言えば、母の勤務先で、そして……
「輝城亜佳莉……まさか、昨日の保健室でのやりとりが?」
気もそぞろに掃除を終え、鞄を持って教室を出る。ぼくは帰宅部だが、仮にそうじゃないとしても、今日はまっすぐ帰りたかった。
だが、その望みは叶わなかった。
校門を出て歩き始めたところで、ソラの声が耳元に響いた。
『ハルト、後方から
振り向くと、黒塗りの電動セダンが羽音のようなモーター音を響かせながら近づいてきた。ぼくのそばで停まると後部座席の窓が静かに下りる。そこには、昨日の保健室の少女、輝城亜佳莉の姿があった。
「ねえ、ちょっと」
彼女の声の調子には昨日のような怒りはなく、むしろ何か切羽詰まったような調子が感じられた。
『ハルト、輝城亜佳莉の心拍数が異常値を示しています。かなり緊張しているようです』
ソラの警告に、ぼくは彼女だけにわかるよう小さく頷く。
「ねえ、あんた!」
「ぼく?」
「そう、ダサメガネ君」
いぶかしげな顔をするぼくに、彼女は一瞬口ごもり、それから続けた。
「ちょっと話があるの。乗って」
命令口調なのに、その表情はまるで懇願のようだった。ためらうぼくを見て、彼女は口調を少しやわらげる。
「時間は取らせないから。お茶くらいならおごるわ」
断ったとしても……いや、まるで泣き出しそうな表情に負けた。
連れて行かれたのは、海沿いのオシャレなカフェだった。
窓越しに見えるテラスの向こうに、海の青さが眩しい。
たぶん高級店なのだろう。ぼくはもちろん初めてだ。
「君もアイスコーヒー?」
彼女は当たり前のように尋ねてきた。
「えっと……」
言葉に詰まるぼくを見て、彼女は眉をひそめた。
「じゃあ、グリーンティーでいいわね」
「グリーン?」
「緑茶よ。日本人なら緑茶くらいは飲めるでしょ?」
少し呆れたように言う彼女に、ぼくは黙って頷いた。
店員が飲み物を運んできて、二人きりになった途端、彼女はすっと真顔になった。
「昨日、私の顔を見たでしょ」
いきなりの質問に、ぼくはうっかり正直に答えてしまう。
「ああ、もしかして泣いてたの?」
彼女の表情が一瞬強張った。それから、まるで尋問するように矢継ぎ早に質問してきた。
「保健室の外から私の声が聞こえたって言ったわよね?」
「え、うん」
「どうしてそんなことができたの?」
「……あ、ええと」
「保健室は防音・防磁だし、シンクも無効になる、はずなのに、一体どういうわけ?」
「それは……」
ソラのことは誰にも話していない。母さんにさえ、その特殊な能力については詳しく話していない。しかし、輝城亜佳莉は容赦ない。
「答えないと、あんたが保健室でのぞき行為をしたって言いふらすわよ」
今度は脅迫だ。ぼくは顔をしかめた。
「そんなことしてない!」
「知らないわ。あんたより私の方が信用されるのは目に見えてるし」
彼女の瞳はまっすぐぼくを見つめていた。冷静で計算高い。昨日、保健室で目を真っ赤に腫らしていた少女とはとても思えない。
「あなたのこと、調べたわ」
「え!?」
「うちの会社のシステム部なら、青海市内の住民情報くらい簡単に——あ」
彼女は慌てて口を押さえた。明らかに口が滑った、という表情だった。
まさか、さっきソラが言っていた、不審なアクセスって……
「オホン」
だが、彼女はわざとらしく咳払いしてそれをごまかした。
「えー、あなた、つい最近青海市に戻ってきたのですってね。以前は市内のおじいさまのお家でお暮らしに?」
再び豹変。まるで獲物を追い詰めるネコ科の猛獣のような目つきに、ぼくはぶるっと身を震わせた。
「あなたのシンク、一体どこで手に入れたの? おじいさまのお家で?」
ぼくはため息をつくと、渋々メガネを外して彼女に差し出した。
「これは祖父の遺品なんだよ」
「おじいさま? お名前は?」
「橋本慶三郎」
その瞬間、彼女の表情が再び変化した。
「まさか、橋本博士の?」
彼女のつぶやきに、今度はぼくの方が顔色を変えた。
「え? 祖父を知っているの?」
「あ、えっと……このシンク、ちょっと変わっているわよね」
彼女はぼくの手の中のシンクを見下ろすと、あからさまに話題を変えてきた。
相手の狙いがどうにもわからない。ぼくは思わず小さくため息をつく。
「中に特殊なAIが搭載されていて、その名前はソラ。みんなが使ってる最新型のシンクとは仕組みが全然違う」
「ソラ!?」
亜佳莉はメガネをじっと見つめ、そっと手を伸ばした。
「……触ってもいいかしら?」
「いいよ」
彼女はメガネを手に取り、メーカーロゴを探し始めた。
「これって、あれ? 輝城の製品じゃない! でも作りは緻密ね……」
輝城テクノロジーは
その時、ソラが珍しく声を発した。
『初めまして、輝城亜佳莉さん。わたしはソラと申します』
「ひっ!」
亜佳莉は驚いてメガネをガラステーブルに取り落とした。
カツンと音を立てたそれをぼくは慌てて拾い上げる。だが、このメガネは驚くほど頑丈だ。いつも通り、傷ひとつついていない。
「え!? いま、私の名前を呼んだ? あん……君が教えたの?」
「いや、でも、ソラはそういうAIなんだ」
「クラウド上の推論エンジンに常時接続してるの? それとも自律的に推測して? それって……」
彼女の瞳が好奇心で輝いた。
「うーん、君のAI、かなり
彼女は身を乗り出して再びぼくの手からメガネを奪い取ると、目の高さに持ち上げ、光に透かすようにいろんな方向からしげしげと観察し始めた。
「教えて。どうして保健室の中の私の声が聞こえたの?」
ぼくはためらった。これ以上は話すべきではないという気持ちがあった。ソラの本当の能力は誰にも話したことがない秘密だ。しかし彼女は執拗だった。
「話さないと、本当にあることないこと言いふらすわよ」
『ハルト』
輝城亜佳莉に翻弄されるぼくを見かねてか、ソラが口を挟んできた。
『彼女の一連の質問は偶然ではありません。事前情報を元に探りを入れている可能性があります』
「うん、わかってる」
とはいえ、ある程度話さないととても納得してもらえそうにない。
ぼくは小さくため息をつき、どこまで話すか考える。
「ソラは……特殊な音声認識システムを持っている。人の聞き取れないかすかな音でも拾えるし、動作制限
「信じられない!」
彼女は目を見開いた。
「それって異常よ。最新のシンクにもそんな機能はないわ!」
「旧型だからね」
それ以上の質問をさえぎるようにぞんざいに返すと、亜佳莉は急に真顔になった。
「そんなに警戒しないで……いえ、確かに、君にばかり情報を要求するのはフェアじゃないわね」
小さく咳払いして左手で胸を押さえた彼女は、まるで宣誓するように顔を上げた。
「私も正直に話すわ。保健室で君が聞いた声は確かに私」
疑わしげに眉を持ち上げたぼくの表情を見て、彼女の表情がかすかに曇る。
「私、あの時確かに〝助けて〟ってつぶやいた」
そう告白する彼女の目は、さっきまでのの好奇心とはまた違う何かを宿して、ぼくをじっと見つめていた。
「君が、誰にも漏らさないって誓うなら、私の秘密を教えてあげる。代わりにあなたのシンクのこと、もっと——」
「ちょ、ちょっと待って!」
ぼくはためらった。それに、条件がおかしい。
学校一の美少女優等生、輝城の社長令嬢の抱える秘密なんて、どう考えても面倒ごとの匂いしかしない。だが、彼女はすっかり
『ハルト』
耳元でソラがささやいた。
『アカリの声を声紋分析しました。ウソをついてハルトを騙そうという可能性は低いと思われます。それに……』
ソラは珍しくためらう。
『ハルトは一人でいろいろ抱え込みすぎています。信頼できる誰かと秘密を共有する行為は、時に心の重荷を軽くしますよ』
ぼくはわずかに目を見開いた。ソラはぼくのことを心配していたのか。
「ねえ、取引をしましょう」
ぼくの葛藤を見て、亜佳莉はさらに身を乗り出した。
「君、何か私にして欲しいことはない? これでも私、それなりの会社の社長の娘よ。少しくらいの無茶は……あ、でも、イヤらしいことをするのはなし!」
「何言ってんだあんた」
ぼくは呆れながらも内心で計算を巡らせる。確かに、ぼくはソラ以外にいくつも秘密や悩みを抱えている。大企業、輝城テクノロジーの社長令嬢の協力があれば、解決に近づけるかも知れない。
「……わかったよ。保健室でのことは誰にも話さない。ソラのこともきちんと話す」
ぼくは長い沈黙の末頷いた。
「その代わり、協力して欲しい。ぼく、科学館の廃墟に入りたいんだ。あそこ、輝城テクノロジーの所有地だろ?」
亜佳莉は大きく目を見開いた。
「……確かに、私ならそのくらいは」
「OK。その取引、乗るよ」
それに、彼女とお互いの秘密を共有することで、行き詰まった学校生活から抜け出すきっかけになるかも知れない……と、少しだけ思ってしまったのだ。
「ぼくのことはハルトって呼んでほしい。名前は——」
「もう知ってるわ、
亜佳莉は途端にいたずらっぽい表情になった。なるほど、とっくにリサーチ済みってことなんだろう。
「じゃあ、私のこともアカリって呼んで。ところでハルト、君は……」
「え?」
「いえ、何でもないわ。ところで、私の秘密なんだけど」
アカリは少し周囲を見回してから小声で続けた。
「これからカラオケに行かない? 防音だから安心できるし……せっかくだからデートしましょ」
「えぇ?」
困惑するぼくを見て、彼女はいたずらが成功した子供のような笑顔を見せた。
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