5 秋葉原・ハンバーガー屋 ❶
夕暮れの秋葉原は、他の街にはない独特の雰囲気を漂わせる。それはきっと電飾で色取られた看板のせいかな、と真姫は思った。
今日は何度か同じ通りを歩いている。同じはずなのに、数時間前に見た街の色彩はもう跡形もない。
ここから先は次のステージ。お前も新しい装いで出直しておいで。街がそう語りかけているような気がして、胸の奥に小さな不安が芽生えた。
しかしそれは、過去をリセットするような、何もかもなかったことにしてくれるような、そんな清々しさでもあった。
約束のハンバーガー屋の前で、真姫はもう一度スマートフォンを見た。
五時五十八分。
「楽器屋に寄っている時間はないか。マダムのお店にずいぶん長居しちゃった」
通りを挟んで向かい側には、楽器や音響機材を専門に取り扱う八階建の大きなショッピングビルが建っている。真姫はピアノの楽譜を探していた。
先にお店に入っていて、と凛は言っていたが、そのまま店の外で待つことにした。変わりゆく街の色をもう暫く眺めていたかった。
そのとき、楽器屋の入り口に見慣れた制服が見えた。音ノ木坂学院の制服である。
「あの娘、知ってる」
真姫はガードレールから少しだけ身を乗り出した。
確か隣のクラスの、井田、井田……、下の名前はわからなかった。
凛よりもさらに短い黒髪のショートカット。小柄な体に不釣り合いなリュックタイプの大きなギターケースをいつも背負っている。そんな生徒は彼女ぐらいのものだ。
音ノ木坂学院には軽音部がなかった。もしかしたら校外でバンドでも組んでいるのかもしれない、と真姫は思った。
その時、ふいに後ろから誰かに抱きつかれた。咄嗟にヒィっと声が出る。
「真姫ちゃん、お待たせ」
凛が真姫の髪をクシャクシャと弄った。
「もう!公衆の面前でやめてよね、恥ずかしい」
「先に入っていてもよかったのに。ボーッと遠くなんか眺めて、何を見てたの?」
凛はトレーニングウェアから音ノ木坂学院の制服姿に戻っていた。
「別に。なんでもないわ」
ギター女子の下の名前を聞こうとしたがやめた。多分凛は知らないだろうと思った。
人混みの中にギターケースの先端がひょこひょこと消えていくのが見えた。
「食べるの?」
「愚問よ」
音ノ木坂学院の生徒にとってハンバーガーと言えば、校舎に近いお茶の水駅前にあるチェーン店を指す。価格が比較的リーズナブルで、真姫や凛もμ'sのメンバーとよく利用していた。
しかし、秋葉原にいる時は赤毛の少女がトレードマークのこの店の方が地の利がよい。
ここのコンセプトはズバリ高級路線だ。見境なくオーダーするとあっという間に財布が軽くなる。したがって、店に入るタイミングで相手に「本日はとことん食べるのか、コーヒー一杯でやり過ごすのか」を確認する風習があった。
「月見フィレアメリカンチーズ。ダブルでオニオントッピング」
「い、いくわね」
「今週はバイト代が入ったにゃ、ね。あとポテトのLをディップセットで。真姫ちゃん、一緒に食べよ」
店員は女性だ。これなら安心してオーダーできる、と真姫は思った。
「私はスパイシーチキンにトマトを。ドリンクはアイスティー」
会計間際にチキンナゲットもそっと追加した。
店内は電球色の照明で薄暗い。
学校近くのハンバーガー屋のカジュアルで明るいコンセプトに反して、こちらはシックで落ち着いた雰囲気がある。
席に座る仕草も自然と上品になる。しかしぎこちなさが出てしまい、妙に恥ずかしい。
「バイト、お疲れ様」
真姫は腕を伸ばしてアイスティーの入ったカップを凛の方へ向けた。
「あ!えへへ、乾杯」
プラスチックが触れ合う乾いた音がした。
「それで、どうなの?バイト、ちゃんとやれているの?」
「やれているとはなん……、失礼だに」
凜がムンと頬を膨らます。
「いやいや、私にはバイトなんて絶対に無理だから。逆に尊敬してるのよ」
「そんな大層なことはないよ。でも最近色々と任されるようになったから結構楽しいんだぁ」
真姫の頭に受付の男性店員の顔が浮かんだ。
「今、少しだけインストラクターの助手みたいなこともしてるんだよ」
「へぇ、凄いじゃない。何を教えるの?」
「ダンスだよ。体の動かし方のモデルとか」
「ダンスってエアロビ?」
「エアロビもあるけど、最近はあんまり人気がなくて、ハウスダンスやストリート系が多いよ」
「ハウスダンス?エアロビと違うの?」
「うーんよくわかんない。けど、 テンポがエアロビより遅いのかにぁ」
「テンポ?どのぐらいなの?」
「どのぐらいって、うーん」
凛は目をきょろきょろさせる。
「ワン・ツー・スリー・フォー!って感じにゃ」
「120ね。語尾の『にゃ』、辞めてるんじゃなかったの?」
「あ……。バレてた?」
「わかるわよ。私じゃなくたってわかるわよ」
「バイトで『にゃ』は流石にまずいと思って」
照れ笑いを浮かべながら凛はディップの蓋を開け始めた。真姫も慌ててナゲットの箱を開く。
「でも、体を動かすバイトなんて凛にはもってこいじゃない。これ食べてね」
ナゲットの入った箱をテーブルの真ん中に寄せる。
「そうにぁ!バイトしながらプロのダンス指導も受けられるし最高にゃ……だ」
真姫はバーガーの包み紙を開きながら、見なさい、語尾設定なんてものは後々こんなにも面倒なことになるんだから、たとえ脅迫されても私は絶対にやらない、と己に言い聞かせた。
半分ほど包みを開くと、艶のあるバンズが姿を現す。
真姫はハンバーガーの味は好きなのだが、食べるさまがどうしてもはしたなく感じ毎回躊躇してしまう。
今回は比較的ソースの少ないスパイシーチキンを選んではいるものの、勢いでトマトをトッピングしていた。したがって、どう繕っても大口を開けることは避けられない。
ふと凛を見ると、すでに月見バーガーを三分の一ほど食べ進んでいる。
頬張る度に口の周りにソースが付着するが、それをペロリと巧みに舐めながら、また一口とリズミカルにバーガーを食す。
なんだか細かいことを気にしていたのが馬鹿馬鹿しくなるほどの気持ちの良い食べっぷりに真姫は安堵し、勢いよくバーガーにかぶりついた。
「あははは。真姫ちゃん汚いなぁ。ほっぺにトマトのジュルジュルがべったりにゃ」
そう言いながら凛は真姫の顔へと手を伸ばし、指先で真姫の頬についたトマトを拭い取ると、すかさずその指を自分の口に持っていきペロっと舐めてしまった。
「はぁぁあ? そういうあんただって……、さっきから頬っぺに月見の玉子くっつけてるじゃないのよぉ!」
顔を真っ赤にして真姫も負けじと手を伸ばす。
凛の頬にこびりついた半熟の卵の黄身を強引に指で拭い取ったその瞬間、真姫の指先が生暖かく柔らかい感触に包まれた。
いつの間にか真姫の指に凛の口がスッポンのように張り付いている。
「月見の玉子はダメにゃ。限定だから全部凛のものにゃ」
「ふ、ふざけんじゃないわよ。私にも一口舐めさせなさいよぉ!」
なんとなく自分がおかしなことを言っている気もしたが、恥ずかしさと妙な腹立たしさで真姫は我を失っていた。
「一口食べたい?」
凛が悪戯っぽく笑う。
「食べたいに決まってるわ」
「本当に?」
「本当よ」
「本当の本当?」
「しつこいわね!本当の本当!」
凛の手のひらの上で転がされる真姫である。
「じゃぁ、食べたいか食べたくないかと聞かれれば、どぉ?」
凛が嬉しそうに真姫を指差す。
「りぃん……あんたねぇ!」
こういうときの凛はとことんねちっこくしつこい。それでいて、愛らしく屈託のない笑顔で見つめてくるから尚更たちが悪いのだ。
「あぁもう!どちらかと言えば食べたいです!そう言えば満足なんでしょ?」
んっふふふぅ、と凜は満面の笑顔で月見バーガーを真姫へ差し出した。
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