3 音ノ木坂学院・生徒会室

 一階の生徒会室には、いつの間にか南校舎の長い影が差しこんでいた。

 つい先ほどまで多くの生徒が慌ただしく出入りを繰り返していたが、今は嘘のように静まり返っている。代わりに長机の上には申請書類の山が各項目ごとに分けて置かれていた。

「電気、つけましょうか」

 生徒会副会長の園田海未の声に、穂乃果はようやく我に返った。

「ごめん海未ちゃん。ボーッとしちゃった」

「今日はいつになく上の空ですね。朝からずっとその調子ですよ」

 そう言いながら海未は席を立つと、扉横の蛍光灯のスイッチを押す。

「今、花陽が各部を回って未提出書類がないか確認をしています」

「うぇー、まだ増えるのかぁ」

「文句を言っているだけでは書類は減りませんよ」

「うるさいなぁ、わかってるよ」

穂乃果はウーンと大きく腕を伸ばした。

「優先順位の高いステージからやっつけるかな」


 音ノ木坂学院は例年、「体育の日」のある連休の土日に文化祭を開催する。

 夏休み明けは各クラスや部が文化祭に向けた準備で慌ただしくなるのだが、文化祭全体の運営と管理を担う生徒会の忙しさはその比ではない。

 例えば講堂のステージ一つを取っても、申請書類に書かれた演目内容が音ノ木坂学院の規範に沿っているかを汲まなくチェックし、さらに希望する団体が多ければ即座に抽選の準備をしつつ、おおまかなタイムテーブルの策定を同時進行で進めなければならない。

 もちろん申請書類は講堂だけにとどまらず、校内の全ての空間、すなわち各教室や部室はもちろん、体育館、グラウンド、廊下、階段、踊り場に至るまで、利用を希望する団体は書類の提出が義務付けられている。

 これに加え、校内のありとあらゆる備品の借用申請や、食品の販売許可申請、火器利用申請、音響機器利用申請、掲示物及び配布物の許可申請など枚挙にいとまがなく、それらの書類が提出期限の迫るこの時期に雪崩のように生徒会室に押し寄せるのだ。


「はーぁ、去年の三年生はすごいよ」

 尖らせた口にペンを挟みながら穂乃果が呟いた。

「絵里と、希ですか?」

「あの時期、μ'sの活動もしっかりやりながら同時にコレもこなしてたんでしょう」

 口に挟んでいたペンを今度は手に持ち替え、書類の山に向けて忙しなく動かしてみせる。

「確かに今思えばあの二人は、この生徒会の忙しさの微塵も見せることなく私たちに普通に接していましたね」

「それどころかさ。私の我儘もしっかりぜーんぶ受け止めてくれたし、何だかんだμ'sを支えていたのはあの二人だったんだよ、すごいよ」

 海未が思わず吹き出した。

「文化祭前の穂乃果はとっても暴走してました」


 昨年の文化祭でアイドル研究部は屋上ライブを開催した。

 短い準備期間にもかかわらず、穂乃香はどうしても新曲がやりたかった。

 当然反対意見も多かったが、当時三年生だった綾瀬絵里が穂乃果の意見を尊重し、同時に部全体をきめ細かくサポートした。

 彼女は生徒会長でもあった。

 文化祭準備期間という一年で最も生徒会が忙殺されるこの時期に、アイドル研究部と生徒会という二足の草鞋を見事に履きこなした。

 そして、その絵里を生徒会業務の面でも精神面でも常に支え続けたのが、当時生徒会副会長でアイドル研究部三年生だった東條希である。

 昨年のアイドル研究部は、暴走列車である二年性の穂乃果と、それを巧みにコントロールする三年生の絵里と希、という絶妙なバランス関係の上に成り立っていた。


「すみません!お待たせしました」

 生徒会室の扉が勢いよく開き、息を切らした花陽が書類の束を抱えて入ってきた。

 髪は乱れ、アンダーリムの眼鏡が半分ずり落ちている。

「花陽。お疲れ様です。書類、随分回収できましたね」

 海未が労いの言葉をかけた。

「花陽ちゃん、ありがとう。ステージの書類だけ先にもらえるかな」

 はい!、と花陽は書類の束から手早く数枚を抜き出して穂乃果に渡す。

「どれどれー。やっぱり今年もステージは大人気だねぇ」

「先に提出されたステージ申請書だけでも、ざっと見て二十枚以上ありましたからね」

 例年、ステージの枠は二十四枠と決まっている。それ以上の応募がある場合は抽選になる。

 穂乃果は書類の端を軽く揃えたあと、「いちまーい、にまーい」と声に出して数え始めた。

 その数える声が四枚目をめくるあたりでふいに止まった。

「穂乃果?」

 海未が怪訝な顔で穂乃果を見つめた。

「花陽ちゃん、これ」

 穂乃果は一枚の書類を花陽に向けて見せた。

 花陽は苦笑いをしている。

「どうしたんです?」

 海未は二人の顔を見比べながら、たまらず穂乃果から書類を奪い取った。

「アイドル研究部……」

 書類には乱雑な字だが、確かに「アイドル研究部」と書かれてる。

「真姫ちゃんが——」

 花陽がそう言うと、穂乃果は下を向いて誰にも聞こえないぐらいの小さな声で…よかったぁ、と呟いた。

「でも、まだ何をするかも全く決まってないし——」

「さぁ、残りの書類も今日中にやっつけよう!」

 不安そうな花陽をよそに、穂乃果は髪ゴムを咥えて前髪を後ろに纏め始める。

「穂乃果、急に元気になりましたね」

 海未はクスクスと笑いながら「アイドル研究部」と書かれたステージ申請書類を穂乃果に返した。

「花陽ちゃん」

 穂乃果は真っ直ぐに花陽を見つめながら「花陽ちゃん達の時代が動き出すね」と言った。

 全く勝手なものですね、と花陽は心の中で返した。

 花陽の鞄の中でスマートフォンが二回、ブルブルと震えた。

 真姫からのメールだと思った。

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