2 秋葉原・ファーストステップ

 東京駅八重洲口から外堀通りを北に二キロ程行くと神田淡路町がある。ここは江戸時代には武家屋敷が連なる、謂わば江戸の高級住宅街だった。

 その中の一つ、若狭小浜藩藩主酒井忠義の上屋敷跡に建てられたのが音ノ木坂高等女学館、後の私立音ノ木坂学院高等学校である。

 音ノ木坂の名の通り、校門前には外堀通り方面へ緩やかな坂が延びていて、明治の頃から今に至るまで遅刻ギリギリの女学生を苦しめている。

 その坂を下り、外堀通りを北にエメラルドグリーンの鉄橋へと歩みを進めると、そこが昌平橋。

 中央線と総武線の二つの鉄橋に挟まれたその不思議な空間をくぐり抜ければ、そこから先は秋葉原だ。


 部室を後にした真姫は、秋葉原にあるフィットネスジムを目指していた。

 昌平橋を背に雑居ビルの立ち並ぶ通りを進むと、縦に並んだ色とりどりの看板群の一番下に「トリアドール」という洒落た明朝文字が見える。ここは真姫が一年生の頃から、秋葉原へ行くたびに必ず立ち寄るお気に入りの雑貨屋だ。

 薄暗いビル階段の奥にバーガンディ色のドアが半分だけ覗いている。

 真姫の足が無意識に階段に吸い込まれそうになるが、我に返りまた歩みを通りに戻す。

 とにかく凛と話をしなくちゃ、今はそれが最優先——と自分に言い聞かせ、時折スマートフォンで現在位置を確認しながら、真姫は歩く速度を早めた。


 雑居ビルの通りは出口付近で急に視界が広くなる。大通りに出たのだ。

 それまでの鄙びた雰囲気からは打って変わり、真新しいオフィスビルや巨大な商業施設が街路樹の奥に建ち並んでいる。

 ビル一面にあしらわれた大きな窓ガラスに傾きかけた西日が反射し、まるで過ぎようとする夏の記憶を焼き付けるかのように通りを照らしていた。

 真姫は目を細めながら、ビルの窓に貼られた「ファーストステップ」という蛍光色のカッティングシートの文字列を確認した。

「あれだわ」

 ビルに近づくにつれ窓際に並ぶエアロバイクやランニングマシーンが見えてきた。花陽から聞いていた通りだ。

 エレベーター脇の案内表示には二階に「受付」とある。

「呆れた。二階から五階まで全部ジムなのね」

 真姫はエレベーターに乗り込むと、スマートフォンを持つ右手の人差し指をピンとボタンへ伸ばす。扉は音もなく閉まった。

 周りの喧騒が止み、エレベーターの中が静まり返る。真姫は不意に不安を覚えた。

 ——私、凛のバイト先なんかに乗り込んでどうするんだろう。そもそも場所は本当にここで合っているの? 今からでもちゃんと確認したほうが、いやいやもう遅いわよ。それより実際会って何を話せばいいの。凛はバイト中なのに、これっていい迷惑じゃない……

 軽率だった!と不安が後悔に変わる寸前でエレベーターが二階に着いた。

 いや、違う。エレベーターの扉が開くと同時に不安は確証のある後悔に変わり、受付に立つ「こんにちわぁ!」という男性店員のハイトーンな声が真姫の耳に突き刺さる頃には、完全に後戻りのできない窮地に立たされていた。

「え、えとっあと、あの」

 あまりにも心の準備時間が足りない。

「会員証をお預かりいたします。ご予約はされておりますでしょうか」

「えぇとい、いえ、あの」

 エレベーターに乗る前に少しでも考える時間を設けるべきだった。思考より行動が優先される自分の性格が完全に裏目に出た。

「あ、初めてでいらっしゃいますね。ご入会をご希望される方はまずこちらの書類を記入していただいて、こういった会員証を作成していただきます」

 そんな真姫の心のうちなどお構いなしに店員の接客トークが始まった。


 そもそも真姫は同世代の男性が苦手である。

 幼少の頃から今に至るまで通う学校は全て女の園。放課後のピアノレッスンや家庭教師も講師は皆女性だったために、男性に対する耐性がほとんど無いまま十七歳になってしまった。

 例えば、コンビニの店員が若い男性というだけで真姫はレジ前で無口になる。受け答えは最小限に留め、もちろん箸などは絶対に貰わない。

「スプーン、お箸はお付け——」

「いらない」

 それは傍目では突っ慳貪で高飛車なお嬢様に見えるかもしれない。しかしこの時の真姫の内心は、早くこの場を立ち去るための最短ルートを死に物狂いで模索しているのである。


 男性店員の接客トークは会員規約の「免責事項」に達したところだった。慣れた手つきで必要箇所にペンで線を引いていく。

「すみませんけど」

 真姫の呻くような声が発せられて、ようやく男性店員の口とペンが止まった。

 違和感を絵に描いたような静寂があたりを包み込む。

 真姫はすぅっと息を吸ってから「星空……星空さんをお願いします」と言った。

 彼は一般的にはイケメンに部類するであろう。短く刈り込まれた髪はいかにもスポーツジムのインストラクターという風体である。切れ長の目に細い鼻、薄い唇。

 しかし今はその口をだらしなく半開きにして台無しこの上ない状態である。

「……あ、もしかして凜ちゃんのお友達? すみません、勘違いしてました」

 真姫は少しほっとしたが、男性店員の「凜ちゃん」という呼び方に多少引っかかるものを感じた。

「いいんです」

 すぐに言えなかった私も悪いんです、と残りは口には出さずに心の中でつぶやく。

 男性店員はエントランスのガラス張りのドアを勢いよく開けて「っ凜んーー!」と、相変わらずのハイトーンで叫んだ。

「ぉーともだちが来てるよーー」

 はーい!という耳馴染んだ声がロビーにいる真姫にはっきり聞こえた。

「ちょっと待っててね」

 そう言い残して男性店員がドアの奥へと消えていく。真姫にようやく安堵が訪れたのは言うまでもない。


 スニーカーシューズがフローリングを蹴る軽やかな足音が近づいて来た。

 ガラスドアの影から星空凜のいたずらっぽい顔がヒョコッと飛び出した。

「誰かと思えばぁ、真姫ちゃんだ」

 エメラルドのハーフパンツからスラリと伸びる脚。白いTシャツにレモンイエローのバスケウェアを重ねて、ヘアーバンドからは薄茶色の短い髪をのぞかせている。

 なんだかμ'sの屋上練習みたい、と真姫は思った。

「凜、ごめんね」

「さてはぁ、凜に会いたくにゃ、なったなぁ?」

「ごめん」

 二度も謝るからか、凜は不思議そうに真姫を見つめた。

「ちょっとアイ研で問題が起きちゃって。今って少し話せる?」

「なぁんだ。凜に会いたくなったんじゃないのか」

「会いたくない訳じゃない」

「じゃぁ、会いたかった?」

「会いたいか会いたくないかと聞かれれば、どちらかと言えば会いたかったわよ!」

 あっはははは、と凜の高笑いが響いた。

「真姫ちゃんはやっぱり真姫ちゃんだ。今日、バイト六時までなの。その後だったらゆっくり話せるけど、待てる?」

「問題ないわ」

「じゃあ……そこのバーガー屋に六時。多分ちょっと過ぎると思うけど、先入ってて」

 真姫はわかった、と頷いた。

 もう少しだけ他愛のない話をしたい、という気持ちがよぎった。しかし凛はすでにガラスドアの取っ手に手をかけていた。

 その背中に「頑張ってね」と手を振ると、凛は腕を曲げて力瘤を作ってみせた。

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