夜に蜂蜜。
あまくに みか
夜に蜂蜜。
目が覚めたら、一糸纏わぬ姿だった。首を横に向けると、目が合った。
「誰ェ?」
隣にいた男が叫んだ。それ、私の台詞だけれど。
「そっちこそ、誰?」
「え……」
男が絶句して、私を見つめる。
失礼だな、私だって驚いているんだ。つまりこの状況、ワンナイトしちゃったってことでしょ。
「俺たち、酔ってます?」
「うん」
「お酒を飲んで……こうなった」
「たぶん」
「俺の覚えている最後の記憶は、ごみ捨て場です。あなたは?」
「全く記憶なし」
私は二日酔いの頭を抱える。
ごみ捨て場から始まるワンナイトってどんな展開だよ、とロマンスのなさに吐き気を覚える。
「じゃあ、このことは俺たちの記憶から抹消しませんか?」
「確かに!」
天啓のような提案に、私は手を叩いた。
「何もしていない。出会ってもいない。何もなかった」
「はい。それでいきましょう」
「それな」
お互いに合意してから、ホテルを出ようと立ち上がった。
先を歩く男を改めて眺める。男はいわゆる色素薄い系男子だった。清潔感があって好印象。ごみ捨て場で出会わなければ、ワンチャン好きになっていたかも。
なんて、まだ酔ってるのかも。
男と別れ、私は電車に乗った。まだ朝の六時だった。ガラガラの電車。
早く家に帰って、冷蔵庫の中にある冷たい飲み物を飲みたい。それから死んだように寝るのだ。
電車を降り、改札を出ようとして、私はギョッとして立ち止まった。
「なんでいるんですか?」
隣の改札に男がいた。だから、それ、私の台詞だから。
「そっちこそ」
私は早歩きで改札を抜ける。
最悪。なんで同じ駅なの?
振り返ると男が後をついてきている。
「ついてくんな! 本当はストーカーなんじゃないの?」
「なんてこと言うんですか。そっちこそ、ストーカーなんじゃないですか!」
男が私を追い抜いていく。
この男に対して「ワンチャンありかも」なんて思ってしまった自分をぶん殴りたい。
それにしても、おかしい。私は足を止めた。男の行く先に違和感を覚えた。
男は体の向きを右に変える。そして、あるマンションの入り口に吸い込まれていった。
そこはまさに、私が住んでいるマンションだった。
「
「うるさい」
私はベランダから下の階をのぞき込む。
「ホットケーキ食べませんか?」
あの日、一夜を過ごした男は、あろうことか真下の階の住人だった。
「食べない」
そう言い捨てると、私はベランダに置いてある椅子に腰をおろした。
「いっぱい焼けたから持っていきますね」
「いい。来なくて」
そう言ったものの、私は無意識にベランダから出て、キッチンでお湯を沸かし始めていた。
奏多は料理をする男だった。時々、作ったものを一緒に食べないかと誘いにやってくる。
コーヒーか、紅茶か。奏多はどっちだろう。
思案にふけっていると風が頬をなでていった。視線をあげる。ベランダの窓が開けっぱなしになっていることに気がつく。
風に揺れるカーテンが、おいでおいでと私を誘っている。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「一緒に食べましょ?」
にこにこ顔の奏多が立っていた。お皿にのせたホットケーキを持っている。
ため息を吐いて、私は奏多のために扉を大きく開けてやった。
「コーヒーでいい?」
一体どういうつもりなのだろう。あの日のことは忘れる約束ではなかったか。
私も、一体どういうつもりなのだろう。冷蔵庫には冷たい飲み物しか入れない予定だったのに。今は──。
「蜂蜜かけてもいいですか?」
「ん?」
聞き返した時、また風が吹いた。留めてあったカーテンが広がって、バタバタとはためく。
おいで、おいで。
窓を閉めようとベランダへ向かった私の手を、奏多がつかんだ。驚いて振り返ると、奏多は真っ赤な顔をしてうつむいていた。
「四階から飛び降りても死ねませんよ」
「なんで」
そんなこと言うの。
そう言ってやりたかったのに、声がでなかった。
「思い出してきました。あの日、俺はごみ捨て場で泥酔している真紀さんに会いました。真紀さんずっと、ツラいって泣いていました」
冷蔵庫がブブっと振動して、私を呼んだ。
しんどい。逃げたい。けど、甘えちゃだめ。だめ。
飲みたい。お酒を。冷蔵庫にある。
だって、飲んだら、許される、休むこと。
「ベランダにいる真紀さんを見ると、不安で」
「だから、ごはんを持って来てくれたの?」
空っぽの胃がシクシク傷んだ。泣いているみたい。生きたいと言っているみたい。
「真紀さん、自分を大切にしてください」
私は目の奥が熱くなるのをごまかそうとしてうつむいた。
奏多が私の手を引いて、椅子に座らせてくれる。
「食べましょう、真紀さん」
奏多がホットケーキに蜂蜜をかける。蜂蜜が金の糸みたいにおりてきて、ホットケーキを包みこんでいく。まるで、天から降りてくる糸のように綺麗だった。
きっと神様が、私の過ちを正すために奏多との出会いを仕組んだに違いない。悔しいけれど、きっとそうだ。
私は涙でぬれた手をあわせる。
食べることは、生きること。誰かが言っていた。
「ありがとう、いただきます」
夜に蜂蜜。 あまくに みか @amamika
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