「涙月亭日記」(冒頭)

 満月が目溢しする路地裏がある。

 それに礼も言わず、足音をひそめて行く者がある。

 寝静まる街を抜け、ガス燈のやわらかな光を避け、誰にも知られずに。

 平穏な夜更けをかすかに揺らしながら。

 その足は、まっすぐに街の外れへと向かう。


 涙月亭るいげつていは静寂のなかにあった。

 屋敷の灯りは落とされ、ただ月光だけが書斎の窓に射し込む。

 漂うのは古い本の香り、インクの匂い、そして積み重なった時間の芳香。

 そこは書斎であった。

 かすかに椅子が軋む。

 沈澱したような、静謐な気配。背の高い人影が腰かけていた。

 ページをめくる長い指も、削げた頬も、奇妙なほどに白く体温を感じられない。月明かりを受けた肌は、まとったシャツとほとんど同じ色に見える。

 色素の薄い切れ長の瞳が流れるように綴られた文字を追う。

 ふと、その目が瞬きをする。ゆっくりと首をめぐらせ、戸口のほうを見る。

 静かに戸を叩く音。

 彼は目を細めた。

 音もなく部屋を出ると、廊下を抜け、玄関に立つ。

 磨り硝子越しの夜の闇に、確かに気配があった。

 ――ごめんください。

 声に聞き覚えはない。

 ――誰だ

 彼が誰何すると、相手は深く息を吸ったようだった。


 ――永夜ひさしよのあるじ、朽木の旦那さま。

 ――月の浜より、お暇を潰しに参りました。


 彼は、すぐに返事をしなかった。

 その口上には覚えがあったが、しかし細部が異なっている。

 あれは、暇潰し、などと大きく出る男ではなかった。

 彼は確かめるように口を開く。

 ――司書か

 ――はい。

 応えは短く、簡潔だった。

 しかし、やはり彼の馴染みの者とは、声も気配も違う。

 彼はしばし逡巡し、やがて小さく息を吐いた。

 細く戸を開ける。

 影。

 夜に紛れる真っ黒な服。目深にかぶった頭巾フードをそっと外し、一礼する。

 ――お初にお目にかかります。

 まっすぐに目を合わせてくるその人物は、やはり見知った顔ではない。

 ――月浜定点観測所、当代の司書でございます。

 知る者は多くないはずのその名を、あっさりと口にしてみせる。

 ――代替わりしたとは聞いていないが

 ――幾分急なことでしたので。

 彼が指摘してもあっさり返してくる。不敵な気配は、確かにあの男と似ていた。

 ――なら、おまえが司書だと証明してみせろ

 そう言い放つと、すかさず手に提げた荷物を掲げた。

 ――では、こちらを。

 覆いの布をするりと解くと、光があふれる。

 くすんだ真鍮の外装。磨かれた硝子の火屋。そのなかで光を揺らめかせるのは灯芯ではない。ほのかに輝く、小さな三日月だった。

 ――いかがでしょうか?

 問いかけられ、彼は不承不承に頷く。これは誤魔化しようのない証拠だ。戸を大きく開け放つと脇へ避けた。

 ――入れ

 ――ありがとうございます。失礼いたします。

 司書は再び一礼し、玄関へ踏み入った。

 その背後で、ゆっくりと扉が閉まる。

 街に再び静けさが戻った。

 彼は、司書を奥の間に通した。

 長きにわたり増改築を繰り返し、複雑に入り組むこの涙月亭は、不慣れな者を簡単に逃がしはしない。

 この奇妙な客人が万が一、司書を名乗る狼藉者であったならば、彼は躊躇わず処断するつもりでいた。

 司書は彼の思惑を知ってか知らずか落ち着いた様子だった。冷たい畳に座し、三つ指をつく。

 ――改めまして、ご挨拶申し上げます。先代よりつとめを預かりました。以後、どうぞお見知り置きください。

 月光の帯が細く差し込み、その先端が司書の胸を斜めに走る。

 司書の服は、黒ではなく深い青の照り返しを見せた。

 ちょうど今夜と同じ、満月の夜空を切り出したような、濃く深い青。

 あの男も同じ色をまとっていた。

 特別に出かけるときはこの色をまとう。いわば制服だ。

 男はそんなことを言っていた。

 貝を削り出した釦は、虹を帯びた月のようにも見える。

 ――それで?

 彼は無造作に胡坐をかき、尋ねた。

 ――暇潰しと言うなら、それなりのものは持ってきたんだろうな

 司書は無言のまま、かたわらの洋燈を引き寄せる。その淡い光を頼りに、もうひとつの荷物――同じく濃い青の布包みを解く。中身を恭しく両手で捧げ持ち、彼へ差し出した。

 月光色の紙の束。そこに、びっしりと文字が書かれている。

 ――それはご自身で、お確かめいただければと思います。

 膝上へ置いた紙束を、司書の手がゆっくりと撫でる。

 ――私も滅びを約束された身です。尽きない命とはいかなるものか、想像するしかありません。

 紙束が――月浜定点観測所に収蔵された記録、その原本の一部が、ひとりでにめくれて司書の前髪を揺らした。

 ――その想像さえも頼りないものでございます。旦那さまが一笑に付しても、誰も責めはしないでしょう。ですが、だからこそ。

 三日月のランプが淡く光る。

 ――だからこそ私は願っております。この物語が、少しでも慰めになることを。

 彼は応えない。ただ、静かに目を細めた。

 ――では、お耳を拝借いたします。

 屋敷の深く沈んだ空気を吸い、司書は朗々と読み始めた。


 それはいつかどこかであった物語。

 徒人の生きた証、名もなき命、届かなかった祈り。

 あらゆる歓喜とすべての絶望。

 そんなささやかで儚い物語を、司書は読む。

 ただ独り、永い夜を歩む者のために。



【この続きは書籍版にてお楽しみください】

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月浜定点観測所記録集 第七巻 此瀬 朔真 @konosesakuma

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