「ヴンダーカンマーの投射」
日常がひるがえるときに前触れなんかない。
窓から射す陽がいつもより眩しいと気づいたときには、
その客は開館してすぐ、エントランスホールに低く射し込む夕方の光とともにやってきた。
面倒な客が来たと思う。
「こんにちは」
笑顔は朗らか、面倒くささは明らかだ。
ごく淡いブルーのシャツは袖をまくり、短いストラップとボタンで留めてある。健康的な色の腕だった。砂色のゆったりとしたパンツから踝が覗き、足元の黒いスリッポンがくつろいだ印象を醸し出す。
今は十二月。いくら気候変動の時代と言っても、真冬であることは間違いない。
季節にそぐわない格好は、それだけで佇まいを異様なものに見せる。
「いらっしゃいませ。ヴンダーカンマーへ、ようこそ」
そして、普通という領域から離れるほど、ここの得意分野に近づいていく。
提げたトランクは妙に厚みがある。鞄より、むしろ把手のある箱と呼ぶほうがふさわしいように思えた。真に面倒くさいのは、おそらくこの中身に違いない。
「館長はいらっしゃいますか? 少し相談したいことがあって」
そう言われたときの台詞は決まっている。
「生憎、外出しております。よろしければ私――
「そうですか。では、杜都さんにお願いしましょう」
これで引き下がるなら楽なのに、と胸のなかで唱えた願いはあっさり潰える。どこか満足げな声で来客は笑った。
「申し遅れました。僕は、
依頼人の笑みが持ち込んだ案件の難易度に比例するなら、今回こそは過労死を免れないかもしれないと思うほど、真此氏のえくぼは深い。
差し出された手も、どうしようもなく温かい。
人たらしという言葉があるなら、人たらされ、という表現があってもおかしくないはずだ。
多分私はそれに該当すると思う。
ヒトに限りなく近く、そして決定的にヒトではない。
ヒトに創られ、ヒトに翻弄され、そしてきっと、ヒトを愛さずにいられない。
もの言うモノ――
展示室の隅、作業台として用いている大机にトランクを置くと、わずかに床の軋む音がした。たちまち机と床が悲鳴を上げる。
――うわっちょっとなにこれ?!
――痛い痛い痛い! 足折れる!
……これまで散々重たいものなんか乗せてきたでしょうが
声には出さず応える。彼らの抗議は、真此氏には決して聴こえない。
――違うよ、ほんとにおかしいんだよ、それ!
――その鞄変だ! 入るはずないものが入ってる!
入るはずないもの、という言葉が妙に引っかかった。
「中を見せていただいても?」
真此氏を促すと、頷いてあっさり留め金を外す。軽い音を立てて蓋が開いた。
何もないのではない、と理解するまで少しだけ時間を要した。
中身は空白ではない。真っ暗で深い空間がまるごと詰まっている。
意識を向ければ、耳の底を撫でるような音と何か生臭いような匂いがそこから流れ出てくる。
どこか、としか言いようがない。実在する場所の景色をそのまま切り出して、トランクに詰めて持ってきた。それ以外に表現する言葉が思いつかない。
その真っ暗な空間に、何かがすっと横切る。それが私の目元を掠めた。
眩しかった。
暗闇を切り裂くように、光の筋が二度、三度と薙いでいく。
「さあ着いたよ、出ておいで」
真此氏はトランクのなかへ、空間のなかへと声をかけた。そして迷うことなくそのなかへ手を突っ込み、何かを引っ張り出す。
複雑に刻まれた表面は、ガラスの重量を減らすためだということは知っている。
しかしそれは、ヒトの手で持ち出せる程度という話ではない。片手でビー玉を持ち出すのとはまったく意味が違う。
第一、明らかに鞄より大きいあのレンズが、ヒトの手で持ち上がるわけがない。
レンズを机に置くと、鞄に満ちていた暗闇が布のように引き出され、レンズに吸い込まれて跡形もなく消える。同時に、床と机の抗議も収まった。
――見ている夢ごと鞄に入れてたってわけか
――呆れた。そりゃ重たいよ
腰に提げたポーチから巻き尺を取り出す。真此氏の手を借りながら端から端を測った。高さは三メートル弱ある。波紋に似た表面を覗けば水のように青く深く、多少くすんでいるが、拭き上げれば澄んだ輝きを取り戻すはずだ。
正真正銘の第一等。欠けひとつない、見事なフレネルレンズだった。
「僕はこれを、あなたがたに寄贈したいんです」
真此氏は、嘘のない目でそう語った。
「かつて行き交う船を導き、凪と時化の海を見守り、千の雨と万の風に耐えた、今は亡き燈台の瞳。これを、あなたがたに受け取ってほしい」
真此氏は、最近取り壊された燈台の名前を挙げた。
明るくなり過ぎたこの星では、航海は既に冒険の地位から転落している。
最先端の電子航法、何重にも設けられたフェイルセイフが、自然に頼るという方法を追いやってから久しい。無数の超小型電算機が織り成す網に包まれて進む船は、もはや前時代の光波標識など必要としない。
そんな現実における最後の燈台は、とある半島の岬のあるじだった。
自分は旅の蒐集家で、方々を回っては気に入ったものを買い集めている。今回このレンズを目当てに燈台の取り壊し現場に赴いたのだと真此氏は言う。
「ひどいありさまでしたよ。愛情も敬意もない乱暴な解体でした。使われていた建材は根こそぎ持ち去られて、基礎も抜かれて、今はすっかり更地です」
徹底的な作業の果てに、たったひとつ残ったのがこのレンズだった。
これもまた、放っておけば溶かして他の用途に使われるところだったらしい。それを引き取りここまで運んできた。手離すのはもちろん惜しい。しかし自分が持っているより、ヴンダーカンマーにあったほうがこのレンズには良いと思った。
報酬はいらない。このレンズを収蔵してくれれば、それで構わない。
真此氏はそのように語った。
話が上手いと思った。美味い話だとも思った。
すなわち、そう簡単に信じてはいけない話だ。
「恐縮ですが、今すぐお返事することはできません。管理者の許可が必要です」
「ええ、結構ですよ」
あっさりと真此氏は引き下がる。ただし、一言付け加えるのを忘れなかった。
「おそらく、先生方は気に入ってくださると思います」
今時珍しい第一等フレネル、しかもつい先日まで稼働していたのだから状態はほぼ完全だ。このクラスの品であれば、今後入手するのは困難を極めるだろう。怪しいと思うならいくらでも調べてもらって構わない。
怪しいのはそうつらつらと喋るあなたのほうなんだが、とは言わなかった。
トランクごとレンズを預かった際、メモを一枚渡された。走り書きした数字が並んでいる。このご時世で電話を使うとは本当に奇特な人物だ。一応、ここにも電話機はあるが展示物となって久しい。通電して動作を確かめる必要があった。
――久しぶりの仕事ね。嬉しいわ
丁寧に埃を拭うと、電話機は声を弾ませる。これも残業の一環だ。
「申し訳ないね、ゆっくりしているところに」
――こう見えても退屈してたのよ。まかせてちょうだい
「それは頼もしい。じゃあ、頼んだよ」
数字をひとつずつ飲み込んだ電話機はしばらく黙る。代わりに、スピーカーの向こうから呼び出し音が聴こえる。忙しく鳴るベルは妙に焦りを?き立てる。
――ねえ杜都、そういえば
電話機がふと話しかけてきた。
――誰に電話してるの?
「胡散くさい依頼人だよ」
呼び出し音が途絶えた。
『やあ、こんにちは。杜都さん』
ややくぐもっているが、間違いなく真此氏の声だった。
『さっそくご連絡いただけて嬉しいですよ。それで、どうでしたか?』
「お世話になっております。申し訳ないのですが、管理者とはまだ連絡が取れていません。ひとつ、確認し忘れていたことがありまして」
『はい。なんでしょうか』
受話器を握り直した。これ以上の前置きはいらない。
「なぜ、あのレンズをヴンダーカンマーに渡そうと思われたのですか」
『それはもちろん、大事にしていただけると判断したからです』
「嘘ですね」
一拍の間も置かず言い切ると、一瞬の沈黙を挟んで快活な笑い声が返った。
『さすが鋭いですね、杜都さん。気づいてくれましたか。よかった』
少しばかり柔らかくなった口調で、真此氏は話を続ける。
『あなたがもし別の場所にいたなら、もちろんそこに持ち込みましたよ。まあ、現実的に僕が足を運べるところにいらっしゃって助かりましたが』
「理由をお聞かせいただけますか」
『もちろんです。でも単純な話ですよ。僕は、あなたに会ってほしかったのです。あのレンズに』
「私に?」
『どういうことかは、いずれわかります。楽しみにしていてください』
「真此さん」
『連絡を絶ったりはしませんよ。あのレンズを受け入れていただけるかどうか、ちゃんと結果が出るまではね。では、失礼』
真此氏はそう言い残して電話を切った。
その場に立ち尽くす私に、電話機が声をかけてくる。
――楽しかったみたいね?
「期待したほどじゃなかった」
受話器を戻す。まだ仕事が残っていた。
バックヤードの端、隔離部屋と通称される部屋にトランクは置いてある。
訳ありのモノがやってくることは珍しくない。それが周囲を汚染しないための一時的な保管室だ。調度品はなく、がらんとしている。
部屋の中央、床へ直に置かれたトランクの前にあぐらをかいて座った。首から下げた鍵で錠前を外し、蓋を持ち上げると、やはりそこには暗闇が満ちている。光の筋が何度もそのなかを薙いでいく。
しばらく眺めるうち、暗闇のなかにちかちかと何かが瞬いているのに気づく。そして、あの生臭い匂いがしてくる。
魚類標本を扱ったときにこれと似た匂いを感じたことがあった。
レンズの見る夢は、どうやらただの空想の世界ではないらしい。
「思い出してるのか」
独り言に返事はない。光の筋が規則正しく闇を走り続ける。
これが夢なら、レンズは今、眠っているはずだ。
「おはよう」
声をかけると、しばらくしてから返事があった。
――ああ、呼んだかい。済まない、すっかり眠っていた
「こっちこそ起こしてごめん。少し話をしたいんだけど、いいかな」
――もちろんだとも。ただ、顔も見せないのは失礼だからね。引っ張り出してもらえるかな
「わかった」
真此氏の手順を思い出す。手袋をはめた両手を差し入れた。
冷たい感触が肌を洗う。かき回すように腕を動かすと指先に硬いものが触れた。もう一方の手を添え、しっかりと支えて、抱きかかえるように引き上げる。
つくづく不思議だ。数メートルもあるガラスの塊が、まるでマグカップほどの重さしか持っていないなんて。
あらかじめ敷いておいた布のうえに静かに下ろす。わずかに鳴った床はガラス本来の重さを受け止めた証拠だった。
――ありがとう。いちいち手間がかかってすまない
何度見ても見事なフレネルレンズだ。かつて燈台の一部として岬に立ち、夜を行く船たちを導いていた誇り高いモノ。
散々世話になったのに、解体するときはあっという間だったと聞いた。
慰めにはならない。それでもひときわ擦り傷の多い箇所を撫でると、レンズは静かに言った。
――きみが悲しむ必要はない。だが、その気持ちはありがたいな
「多少は報われてほしいと思うよ。長く頑張ってきたなら、なおさらね」
――では、ぼくを破壊するなら、あまり時間をかけない方法を希望するよ
予想外の返答に手が止まる。どう言い返すか思いつくまで少し時間がかかった。
「そんな、物騒なことを言うもんじゃない」
――きみが私や真此に不信感を抱いていることは理解しているつもりだ。私の処遇が決まるまで、時間を要しているのはそのためだろう
「否定はしない。だけど、だからといって極端なやりかたは選ばないよ」
――そうか。公平だな、きみは
「自己紹介でそう言ったりはしないけどね」
――ぼくは、もう捨てられようが割られようが構わない。最後に誰かと言葉を交わせたのは願ってもない幸運だったよ
「勝手に過去形で話すな。ちょっと待ってて、すぐ戻る」
私の部屋へ向かい、手にするのはハンマーではなく茶葉が詰まった缶だ。
――杜都、なんか良いことあった?
青い花柄のクラシックな茶器がそんなことを言う。
「あった。でも多分、これからもっと良いことが起こる」
――そりゃ楽しみだ。付き合うよ、長丁場だろう?
「まあね」
重たくなったポットとカップを持って隔離部屋へ引き返す。
どうせ先生たちはまだ戻らない。時間はたっぷりある。
捨てられようが、割られようが、だって?
「そんなさびしいこと言われたら、もう手離せないじゃん。卑怯者め」
今日は嫌と言うほど、話を聴いてやろうと思った。
――私の生涯は、まさに冒険だった
岬から動けない身はさぞ退屈だと思われるだろうが、そんなことは決してない。船も、海も、朝も夜も、同じものはひとつとしてないのだ。
同じ一日が二度と来ないように、すべての瞬間は私にとって新鮮だった。
半島に吹く風も、戯れ揺れる小さな花も、刻一刻と色を変えていく。
私はそれをすべて見ていた。私の瞳は、あらゆる瞬間を照らすためにあった。一秒ごとに世界は姿を変える。同じ波、同じ景色は二度と現れない。汽笛でさえ、昨日と今日では響きが違うのだよ。
強く賢い探求者。きみもまたヒトよりも長く長く生きるだろう。
多くの物事を見聞きし、それに心を震わせるだろう。きみの昨日は、今日とは異なる。きみの明日は、今日とは別物だ。
忘れてはいけないよ、きみの日々もまた、大いなる冒険なのだ。
気づいていないのかい。きみの瞳は、私とよく似ているのだよ。
水平線の果てまで光を放ち、地平線の向こうを目指す特別な目だ。
私は岬に立ち続けたが、きみはどこへでも自由に行ける。
きみは自由なのだよ。
ヒトでもモノでもあるように指向されたのは、その境界を越えていくためだ。
きみは、自分の心を縛ってしまっていないかい。
このまま留まり続けるのだと、自分の未来を規定していないかい。
何度でも言おう。きみは自由だ。
不安かもしれないが、その感情すらきみの原動力になるだろう。
あとはきみの望み次第だ。
レンズはそのように話を締めくくった。
きみが、どんなものを見てきたのか教えてほしい。
促したのはこちらだが、こんなに話好きとは思わなかった。
穏やかな口調で滔々と語る様子は、本当に楽しそうだった。
もしヒトの身体を持っていたら、身振り手振りを交え、満面の笑みを浮かべていたのだろうと思わせる。
――すまない、ぼくばかり喋ってしまって
黙ったままの私に気づいたのか、声が少しばかり沈む。
「いや、今日は話を聴く日だから。問題ないよ」
ティーポットは既に空だった。それでも私が話を遮らなかったのは、ひとえにレンズの語りに引き込まれていたからだ。
しばらく、部屋に沈黙が落ちる。
私はふと、思い浮かべる。
かつて燈台が立っていた半島の岬を。
朝が来る。夜が来る。波が立ち、また凪いでいく。魚が跳ね、船が横切る。
そこにはどんな風が吹くのだろう。どんな光と、音と、匂いがあるのだろう。
海という場所を、知識としては知っている。この星の大部分を覆う、巨大な水。
塩辛く、生き物が多く生息し、とても青くて深い。
しかしそれはあくまで知識でしかない。私は、本当の海を知らない。
展示室の窓に遮られない、澄み切った空を知らない。
半島の岬に咲く花の色を知らない。
花を揺らす涼しい風の心地良さを知らない。
まっすぐにぶつかってくる世界を、まだ全身で浴びていない。
私のなかには知識が多くある。
けれど私は――私は、まだ何も知らない。
子供みたいに、何も。
私のことを自由だとレンズは言った。
だったら私は、私のすべてで、世界を感じてみたい。
「あのさ。ひとつ、頼まれてくれないかな」
――なんだい?
「私はね、家出がしたいんだ」
返事はなかった。ただ、腹の底から笑う気配がした。
【先生方へ】
【勝手ながら休暇を頂戴いたします。明日の日付が変わるまでには戻ります】
【臨時休館のお知らせは入口に掲示しておきました】
【お詫びにはなりませんが、今年のクリスマスプレゼントは必要ありません】
旧式のタイプライターは妙に機嫌が良い。文末に符牒の記号を四つ叩くとき、音がいつもより軽やかだった。
――こんなに愉快な手紙を書いたのは久しぶりだ。いつもこうなら良いのにね
羊皮紙が飲み込まれ、消える。
「たまにはわがままを言わないとな。お互いに」
私はすぐに席を立った。
来館者は既にいない。灯りを落として回り、バックヤードに飛び込んで少ない荷物をまとめた。自室を施錠して再び展示室に出ると、あとは一番面倒な仕事が残っている。
これだけ慌ただしくしていれば、彼らが気づかないわけがない。
骨格標本。剥製、鉱物、乾燥標本。額入りの絵画、抽象立体の彫像。
筋金入りのクセモノたち。
ヴンダーカンマーの収蔵物が揃って待ち受ける。
――あのレンズに聞いたわ
口火を切ったのは、いつも落ち着き払った天青石のジオード。
――俺たちに黙ってなんかするわけないよな、杜都?
良いやつなのに、口調がどうしても脅しに聞こえるイタチの剥製が問いかける。
「もちろん」
――で、今回は何を思いついたわけ?
帆船模型は気だるげでも、興味津々なのは隠せない。
「家出をしようと思う」
一瞬、展示室が静まり返った。
――ふ
吐息のような、沈黙の終わり。
そこから、さざ波のように空気が揺れ始める。
そして。
――ぎゃはははははははは!
――ついに来たよ! 杜都の反抗期が!
――俺知ってる! 青春ってやつだこれ!
――家出くらいもっと早く済ませとけっての!
――なんかしみじみしちゃう。子供持つってこんな感じ?
――あんた
あまりにも馬鹿騒ぎだった。寡黙なキャビネットすら、今はくすくすと笑っているのがわかる。
というか、こぞって私を子供扱いするけれど、みんな何歳なんだ。
――あたしはね、永遠の十七歳よ! その頃に剥製になったから!
「事実だろうけど、変なふうにヒトの文化取り込むのやめてくれる?」
呆れた連中だ。でも、たったひとつだけわかる。はっきりと。
みんなは、今日を祝福してくれている。
真冬のなんでもない一日、そそのかされた自動人形が家出をする日を。
モノたちの笑いさざめく声に、もうひとつの響きが載る。
私たちはかつて野にあったもの。
かつて、広い世界に存在していたもの。
その鮮やかさを知りたいと言うのなら、断る理由などひとつもない。
力を貸そう、杜都。私たちの大切な友人。
誰もが眠る真夜中に、きみを待つ夜明けまで、行っておいで。
その足で、走っておいで。
目の端に、ちかりと光が瞬く。
間違いない。あのレンズだ。
まだ隔離室にいるくせに――私に、ウインクしてきた。
「あくまで家出だよ。だから、すぐ帰ってくる」
――どれくらい?
「今夜ひと晩。陽が昇るまでには、多分」
――お土産は?
「話なら、たくさん」
――気合いは?
「充分!」
また、わっと展示室が揺れた。
入口へ続く扉が、次々開いていく。
私にだけ聞こえる喝采が、駆け出す私の背中を押す。
――さあ急げ、夜は短い
――気をつけて行っておいで
――あとはまかせて
――どうか、佳い旅を
ヴンダーカンマーの見慣れた景色は今夜、私の花道に変わる。
最後に振り返って、叫んだ。
「みんな、行ってきます!」
――行ってらっしゃい!
杜都は走る。
暗い街を、眠る森を、静まる川を越えて闇に閉じた峠を駆け抜ける。
自分の身体がこんなに軽いのは初めてだった。ちっとも疲れを感じない。一歩地面を踏むごとに羽が生えるようだ。ああ、みんなの言った通り、私は自由だ。すばらしい反抗期が来た。どこへでも行ける。望んだままに走っていける。
「私は、自由だ!」
叫ぶ声は荒野の夜空に舞い上がり、月は祝福の光を走る杜都の頭上に注いだ。丸い月は遠い天に立つ燈台のレンズのように照らし、夜通し走る杜都を導いた。
夜明けが近い。杜都はますます足を速めた。空気の匂いが変わる。
湿った、大いなるものの匂い。
これが、潮の匂いだろうか?
海と夜明けへ、杜都はまもなく辿り着こうとしている。
岬を覆う若い草を踏む。丸く囲われた柵が燈台の跡地を示している。
ついに辿り着いた。地図の端、半島の岬。
息を切らし、座り込む。
触れる草と土の、そのやわらかさ。夜露をまとった冷たさ。
杜都が初めて感じる、世界だった。
やがて水平線に小さな切れ目が生じ、そこからわずかに光がこぼれ出す。
金色にきらめく光線が杜都の頬に薔薇色の輝きを灯す。
昨日とは違う、たったひとつの、今日のための太陽が昇る。
もう二度と来ることのない今日のために、夜が明ける。新しい朝が来る。
――なんて奇跡だろう。
私の目の前で、今日が始まる。
新鮮でみずみずしい一日が、こんなにも光を放ちながら幕を開ける。
奇跡と呼ぶ以外に私は言葉を知らない。
今、頬を伝っていく涙以外に、腹の底から上げる声以外に、私はこの気持ちを表すすべを知らない。
本当に、なんて奇跡だろう。
私は自由だ。
どうして創られたのかなんてわからない。
なぜ生きているのかなんて知らない。
だけど、愛さずにいられない。
こんなに明るく輝く波音を。
こんなに高く歌う朝の光を。
こんなに目映い潮風を。
だって、私は生きている。
生きているなら、愛さずにいられない。
胸いっぱいに息を吸って、声の限りに叫ばずにいられない。
この世界すべてに届くくらい、伝えなければ気が済まない。
私は生きている。
私は、今ここで、生きている。
「私は、ここにいる!」
雲ひとつない、光の坩堝のような空に、私の声が吸い込まれていく。
あらゆる空に響いて、いつか宇宙へ昇って、星になればいい。
私がいつか滅びたあとも、その星は真っ青に光るだろう。
展示室の扉を開くと同時に、深々と頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
先生たちは並んで待っていた。
貨玖先生の視線が、私の頭から爪先までをさっと走った。帰り道はやや無理のある近道をした。ヒトなら死んでる程度に。そのため服は少しばかり擦り切れて、血が滲む程度の怪我もしている。手足が吹き飛んだりはしていない。
頬についた泥を拭うと、貨玖先生は深くため息をついた。
「始末書を提出してください。期限は二日後です」
それだけ言って、充血した目を擦りながら静かに出ていった。
比呉先生は泣きそうな顔で私の頭を撫でてから、何も言わず抱きしめてくれた。
「おかえり」
小さくそう言ってくれたから、私は先生を抱きしめ返す。
「ただいま帰りました」
そして、展示室は私だけになる。
いや、私一人ではない。ここにはたくさんのモノたちがいる。
みんなこちらに意識を向けている。
丸一日、私を探そうとする先生たちを足止めしてくれた、たくさんの私の友達。
疲れた喉から、声を張り上げた。
「みんな、ありがとう。ただいま!」
――おかえりなさい!
真此という人物と、その目的について。
かの人物は、この世界に属する存在ではない。それだけは確かだ。
持ち込んできたフレネルレンズ、ひいてはそれを搭載していた燈台は、確かにこの世界の人工物だった。しかし、真此がどのような手段でレンズを入手したか、現在に至るまでまったく不明だ。
当のレンズに問い質せば詳細が判明するだろうが、その手法を実現できるのはヴンダーカンマーではただ一名だけだ。その人物――ヒトでありモノ――が大層頑固であることは既知の事実であるし、仮に要求を飲ませても、肝心のレンズが真実を語るかは定かではない。
フレネルレンズはあれから、展示室の隅でおとなしくしている。
とてつもない重量を持ち、また容易に破損するため、床に引いた白線の内側に収まって過ごしている。時折杜都が話しかけ、楽しそうに過ごしているのを目にすることがある。
杜都自身は例の家出について自分なりの納得をしており、もはや真此の正体についても掘り下げる気はなさそうだった。
少なくともレンズの出どころははっきりしている。他でもない私が見に行ったのだから、と言い添えると、貨玖の冷たい視線に晒されてたちまち縮こまった。
貨玖は当初、真此を
貨玖はもともと不在がちであったが、このところは輪をかけて外を飛び回っている。詳細を語ることはないが真此についての調査をしているのは明らかだった。ヴンダーカンマーの最上位の管理者が指示すれば、現代の社会構造において国家規模で捜索が行われるのは間違いない。当然その手は海外にも伸びているだろう。にも関わらず、貨玖の渋面が一向に晴れないのは、真此の行方をまったく掴めていない何よりの証拠だ。
比呉自身は、杜都を責める意思はない。もちろん心配ではあった。とはいえ、自由に外の世界を走ってみたいという願望は理解できるものだ。比呉には子供がいる。成長に従って、彼は自身と親しか存在しない世界に充足しなくなってきている。目にするものになんでも興味を示す様子は、比呉に子供の自我の芽生えを感じさせた。
杜都も、知性のある振る舞いはできるものの心のどこかではまだ子供なのだと比呉は思っている。廃棄されていたのを拾われて以来、ずっとこの博物館にいる杜都には、もう少し成長の機会が必要なのではないか。
比呉がそう感じていた矢先、杜都自身がその解決の糸口を掴んだことになる。
かなりの荒療治ではあったが。
しかし、それはあくまで結果論だ。
貨玖から共有された資料には、真此の捜索が再び空振りに終わったと書かれている。まあそうだろう、と比呉は思う。おそらく、もう真此はこの世界にいない。根拠はなくとも比呉には確信があった。真此は、目的を果たしたか断念したかは知らないが、自らの意思で去った。大きなレンズだけを残して。
比呉はバックヤードを出る。展示室の隅に、杜都の姿があった。
杜都は天井近くを見上げる。そこに立つのは、腕を無数に生やす観音像だ。
損傷は軽度、軽い修復で元の姿を取り戻し、ひと際高い位置から展示室を睥睨している。
「どうですか、最近」
何気なく声をかけると、ここぞとばかりにため息をつく。
――観光客がうるさくって敵わねえよ。写真撮るときだって平気でフラッシュ焚くんだぜあいつらしかも展示物があるってのにでけえ荷物しょって歩き回るし、おまけに香水くせえ
仏の割りにずいぶん口が悪い。思わず苦笑いする。
「まあ、彼らは金貨の詰まった袋ですから。粗末には扱えないんですよ」
――ほおん。確かヒトってのはよ、札束で顔ぶっ叩かれたら靴を舐めなくちゃいけないんだったか? とんだ右頬左頬だぜ
「あなたがその喩え使うのはさすがにヤバいですって。知りませんよ怒られても、ここにはその手のモノもいるんですから」
――上等じゃねえか。腕や顔のひとつやふたつなぞ喜んでくれてやるってんだ。重たくてしょうがねえよ
衆生のあらゆる苦しみを見逃さずあまねく救いの手を伸べる、という理想が、今では世間の汚さを全方位から見るという縛りになっている。
皮肉な話だ。殴りたい相手が多過ぎて手が足りないだろう。
「で、他に困ったことはありませんか?」
――暖房の熱気が全部上がってきてあちい。もうちょい加減してくれ
杜都はその内容をメモに書き取り、頷いた。
「了解です。改善していきますね」
――おう。頼んだぞ
観音像は返事し、ついでとばかりに続けた。
――んで、どうだった、家出は
「楽しかったですよ。次はいつになるか楽しみです」
冗談めかして答える杜都に観音像はがははと笑って応えた。
――備えろよクソガキ。チャンスは常に不意打ちで来る。掴まなかったやつは負け犬だ。どんなに言い訳してもな
観音像は続ける。
――生まれが特殊だろうが平凡だろうが、それだけは真理だ。おまえはだいぶおかしな顛末でここに来たようだがな。だからってそれは、甘えて良い理由にはならねえんだ
「わかってます」
杜都は答える。
「これくらいでイージーモードになるはずありません」
――ならいい
「もしも、ですよ。もし私が、本当にここを捨てて出て行ったらどうしますか」
半ば戯れに尋ねたのに、返答は驚くほど真摯なものだった。
――決まってる。もろ手を上げて見送るよ、俺たちは
予想外の応えに杜都は言葉を失う。観音像の口調はまた粗っぽいものに戻った。
――ま、ここには手のないやつも多いけどな。からっからの葉っぱ切れに手ェ上げろっつったって無理がある。貸してやりてえくらいだよ
杜都はおそるおそる問い返した
「止めないんですか」
――止めるわけねえだろ
返答はまったく間を置かなかった。
――おまえがここを捨てるとなったら、それなりのでかい理由があるときだろ。それが愉快か不愉快かは知らねえけどな。
「それは、まあ、そうでしょうね」
――だからよ、なんであれ俺たちには、おまえを止める権利なんかねえんだ。俺たちにできるのはせいぜい、おまえの幸せを願うくらいだよ
なんとやさしいせいぜいがあったものか。程度の差はあってもモノは必ず形に引っ張られる。言葉は悪いが、確かに仏を象って作られた像が気休めの嘘をつくことはない。
――おまえはおまえのやりたいことをやんな。ここだろうがどこだろうがな。たくさんあるだろ、やりたいこと
「ええ。消化するのに二百年はかかりそうですよ」
――そりゃ結構だ、死ぬまで走れ。その途中でおまえがここを――俺たちを、捨てるってんならそれでいい。俺たちは喜んでおまえの過去になるよ。おれたちモノはいつだって過去にしか存在できないんだ。今まさに生きて考えて、生意気言っちゃ家出するようなやつは
観音はほんの一瞬、言葉を切る。
――杜都、おまえは、俺たちの希望なんだよ
観音は仏が滅んでからのち、仏法における末世と呼ばれる時代に現れて衆生を救うと言う。その頃まで、像のもととなった存在が再び降りてくるまで、走れるだろうか。杜都は自問する。
――ああ喋り疲れた。ちょっと肩でも揉んでくれよ
おどける観音像に杜都は言い返す。
「木彫りなら凝ってるどころじゃないでしょ。指が全部だめになりますよ」
――おまえは頑丈だから問題ないだろが
おどける観音像の声には励ましの深い響きがあった。
ここを本当に出て行くのか、いつ出て行くのか。それはまだまったくの未知だ。
ただもしそのときが来たら、と杜都は思った。みんなに恥じないように堂々と出て行こう。恨み言はすべて旅のおともとして連れていく。一緒にいられなくてごめんと思う気持ちは、きっと何をしても晴れることはないから。
「せいぜい元気でいますよ、せいぜいね」
含みを込めて杜都が笑う。
――そうそう、せいぜいだ。あとはほどほどだ。そして、ばりばりだ
「矛盾してるじゃないですか」
――矛盾なんて生きてる証拠だよ
「さすが仏さま、わかってらっしゃる」
――うるせえよ
快活な笑い声が展示室にこだました。
貨玖は、久しぶりに哲人の庭に来ていた。考え事をするときはここに限る。
結局、真此がどこから来てどこへ消えたのかは判明しなかった。誇張でなく、世界の裏側まで捜索の手を広げたが、件の人物は痕跡ひとつ残さず消えていた。最後の足取りは国内線ゲートで捉えられたが、そこから飛び立ったあらゆる便に真此の搭乗履歴はなかった。
貨玖の手元には、空港内に無数に張り巡らされた防犯カメラのネットワークに残った真此の姿をプリントアウトしたものがある。
真此は、レンズに向けてチェシャ猫のようににかっと笑い、右手の人差し指と中指をぴんと立てていた。
最後にふざけた記録を残し、真此は消息を絶った。
童話の猫が闇に溶けるように。
貨玖は捜索が潮時に至ったと考えていた。このまま海の底をすべて浚うことも不可能ではないが、おそらく無駄足だろう。
既に真此はこの世界にいない。そう結論付けざるをえなかった。
風は止み、池の水面は静止している。薄い雲の向こうから淡い陽射しが降って、庭に淡い影をいくつも落とす。敗北を噛み締めるにはうってつけの景色だった。
背後でノックの音がした。どうぞ、と低く応えた声が届いたかは定かではない。しかし、扉は迷いなく開いた。分厚いドアが蝶番を軋ませながら微かに開く。
その隙間から、ひょいと杜都が顔を出した。
「貨玖先生、失礼します。お客さまがいらしてます」
貨玖は無言で立ち上がり、杜都を振り返った。
いつもの、朗らかな姿だ。じっと視線を送る貨玖を不思議そうに見つめ返している。
「日を改めてもらいますか」
そう尋ねる声に首を振る。
「行きます」
杜都は頷き、大きく扉を開けた。廊下を進む貨玖の斜め後方について歩く。
「杜都さん」
「はい」
「あのレンズの収蔵ラベルはもう作りましたか」
「ええ、先週に。一度お見せしたほうがいいですか」
「いえ、結構です」
貨玖はあくまで静かに話す。
「杜都さんに脆弱性があるとしたら、人間への親和性が高過ぎることですね」
「それはただの性質です。ヒトの形を模して創られたなら当然でしょう」
杜都はすかさず言い返す。しかし貨玖の意図するところはしっかりと伝わっていたようだ。
「真此氏が何かしらの悪意によってあなたに接触したとは考えていません。あのフレネルレンズもそうです。一切の異常、工作は見つからなかった。しかし」
貨玖は語りつつ、廊下の角を曲がる。杜都もついていく。
「我々は侵略を許しません。それは絶対の原則です。わかりますね」
「はい」
杜都は素直に返事をしたあと、問いかけた。
「侵略が許されないなら、脱出はどうですか」
貨玖は足を止め、振り返る。
黒いパーカーのうえに白衣。動きやすいパンツスタイル。足元はスニーカー。
まっすぐに立つ杜都はいつもと同じ格好だ。しかしその佇まいは、異質なものとして貨玖の目に映った。それはおそらく杜都の深く青い目に浮かんだ挑戦的な光のせいであっただろう。脱出が何を指すのかは、言うまでもなかった。
「五十年早いです」
貨玖は言い切った。
「それまで長生きされるおつもりですか」
杜都が問い返す。
「不可能ではありません。技術は確立しています。カルチェラタンには既にそのような連中がいるという噂ですから」
「嫌な借りを作らないでくださいね。どうせ外道なやり方ですから」
杜都に釘を刺されるのは予想外だった。しかし貨玖は沈黙を守る。
代わりに、すいと右手を持ち上げて、杜都の頭に置いた。
ヒトのそれと見分けのつかない柔らかな短い髪を、くしゃくしゃとかき混ぜるように撫でる。無表情のまま奇妙な行動に出た貨玖に杜都は戸惑うが、抵抗せず立っていた。
「私の寿命は、既に現実的な数値として予測可能な範囲にあります。私が健在でいられる確率が上がることは決してありません」
思いがけず温かだった貨玖の手が、そっと離れた。
「備えるならば、急ぎなさい」
杜都は噛み締めるように沈黙し、やがて深く、一礼した。
貨玖は再び背を向け廊下を進む。杜都はまた、静かについていく。
お互い、いつか来るだろうその瞬間をどう迎えるか考えなければいけなかった。二人にとっては大きな不安だ。貨玖にとってもっとも大きな希望であり、杜都にとってはより大きな挑戦であった。一方は見送り、一方は出て行く。その瞬間を最高にするために、今からやるべきことは山積している。
私は列車の窓から、かくしゃくとした老紳士と姿勢の良い人形が廊下を歩いているのを見ていた。二人とも歩くのが速い。何か心に決めている証拠だ。
客車の座席に深く腰かけ、かたわらに置いた大きなトランクを撫でる。
今回も楽しい旅だった。
「頑張りなさいね」
聞こえるはずもないのに、ついそう呟いてしまう。
私はまだ湯気の立つカップから紅茶を啜り、八つ切りにした林檎を齧る。次はいつ来ることになるだろう。その頃までみんなが元気でいてくれるといいのだが。上機嫌のまま窓のブラインドを下ろし、帽子を引き下げた。次の停車場まで道は長い。少し眠っておこうと、私は目を閉じた。
汽笛は高く鳴り、車輪は次第に地上を離れる。
空気の震える気配にふと杜都は視線を見上げた。しかしそこにはいつもと同じ展示室の天蓋があるだけだ。
杜都はやや首を捻りながら、なおも歩を進める。
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