「ストーリーテラー」

 仕事ですか? 小説家です。

 書いてるか、読んでるか、そうでなければ寝てるか。そういう生活をしてます。

 どんな話を書いてるか? 変な話です。

 現実と幻想、あるいは妄想。その境界が曖昧になるような、そういうやつです。

 ――なぜ書き始めたのか?

 じゃあまず、昔話をしてもいいですか。

 ええ、他愛のない昔話です。

 学生時代の頃のことです。

 私の通っていたのは、まあいわゆる地方の中堅大学でしてね。総合大学ということもあってとにかく学生が多かったんです。運悪く第一志望の難関校に落ちて転がり込んだ連中も、大学ならばどこでも良いような呑気な連中も、一緒くたになって玉石混淆なありさまでした。

 いや、これが実に楽しかったんですよ。

 大学という場所は、大体同じレベルのやつらが集まってくると言いますよね。俗説ですけど。

 学力的には確かにそうかもしれません。

 ただ、集まってくる連中の人間性という意味では、まったくそうじゃなかった。自分と違う人間がこんなにいるのかと新鮮な気持ちになったのを覚えています。

 まあそうやって、いろんな学生がたくさんいたわけです。だったら、サークル活動も当然多岐に渡るものになりますよね。

 今はどうかわからないですが、当時はスポーツ特待という制度がありましてね。運動部のごく一部ですけど、全国的に有名でしたよ。まあ、ごく一部ですけど。

 その他のサークル、つまりはほとんど、ですね。それらの集団は、大学生活をいかに楽しく無駄に過ごすかという目的で運営されていました。

 飲みサーと言うんですかね、一言で表すと。四月になったら新入生を集めて、あとは理由をつけて集まっては酒を呑んで、仲間内で惚れた腫れたで、試験前は色々と融通を利かせて。卒業までそうやってだらだらと過ごす、学生時代の特権みたいな集まりでした。

 ひと握りの真面目なサークルと、その他大勢の惰性集団。

 けれどもね、それだけではなかったんです。

 もうひと握り、いや規模としては、もうひとつまみ、かな。

 そういう連中がいたんですよ。

 学生の多い大学だった、ということはお話ししましたね。一学部に数千、学年単位でも同規模でしたから、全部まとめたら一万人は越えます。

 そうすると、毎年ある程度、行方知れずになる学生が出るんです。

 理由は様々です。勉強についていけない、就職先が見つからない、人間関係で失敗した、家庭の事情により、云々。

 なかには犯罪に手を染めたり巻き込まれたりするのもいましたが、それはほぼ誤差というか、まあ、ね。

 問題は、そのどれにも該当しない行方知れずの学生です。

 公私ともに生活には問題ないのに、ある日突然、姿を消す。そういう不可解な失踪をする学生が一定数いました。しかも毎年、必ず。

 最初は単なる噂話でしたよ、もちろん。

 けれども、昨日まで普通に話していた友人が消えた、と証言する学生が実際に出てきたんです。しかも話題にのぼった学生は、実際にいなくなっている。

 どうもこれは事実らしいと、誰もが認識することになりました。

 結構不気味な話ですよね。けれども、それを面白がる物好きな連中もいました。物好きというか、単に退屈だったんでしょうね。そいつらが調査を始めました。

 おかしな消えかたをした学生には、何か共通点があるはずだと主張してね。

 結論に辿り着くまでには、さほど時間はかからなかったようです。

 彼ら――失踪を遂げた学生たちは、みな同じサークルに所属していました。

 ここからが本題です。

 神隠しって、知っていますか。

 人がなんの痕跡も残さず、急に消えてしまう現象です。実際のところは誘拐や迷子だったりするそうですけど、前触れなしに失踪するという点は変わりません。伝承レベルの話には、何十年も経ってから老いた姿で現れたという例もありますけどね。

 なぜ急にこんな話をしたかって?

 さっき、物好きな連中が調べたって言ったでしょう。

 彼らの至った結論はこうです。

 虚数倶楽部は、神隠しに遭った。

 一部のオカルト好きは喜びましたよ。そんな近くにネタがあったんですから。

 でもね。

 そんなの――嘘っぱちなんですよ。



 ぼくらは嫌われているから、部室棟に部屋をもらえなかった。

 旧校舎とすら呼ばれない、戦前から建っていると噂のあばら家の、そのさらに端。真冬は隙間風で足元から凍りそうな狭い部屋。そこが集合場所だった。

「全員揃ったかな?」

 オペラ歌手みたいな良い声なのは認めるから、ここで張り上げるのは勘弁してほしい。もはや板みたいな壁がびりびり言っているのがわからないのだろうか。

「それでは、八四五二回目の会合を始めよう。全員起立、礼!」

 揃って頭を下げる。

 虚空に向かって。

「着席!」

 がたがたと椅子を鳴らして全員が座ったのを見届けて、部長――安斎祐一朗が教卓に両手を着いた。

「では本日の議題だ。飯塚さん、よろしく頼む」

 隣に座った女性学生が気だるそうに手元のファイルを開く。

「拠点番号八六三A、◆◆◆◆跡地の現地調査について。今日は参加者の決定」

 抑揚のない声を発する唇には重たそうなピアスが貫通している。飯塚さん――飯塚彩はそれだけ言って、ぱたんとファイルを閉じた。

「うん、ありがとう。まず◆◆◆◆跡地へのアクセスだが、場所は●●山の麓だ。必然的に自動車での移動となる。今回は運転手一名の参加が必須だ」

 かつかつとチョークを走らせる黒板には、ぼくらが初めてここへ来たときから斜めに大きな亀裂が走っている。

「撮影担当は今回二名としよう。それから連絡役が一名だ。合計四名で◆◆◆◆跡地の調査を行う。参加希望者はいるか?」

 さっ、と手が上がった。

「はい! 僕行きます!」

 男にしては甲高い、そして舌足らずな声がぼくは苦手だった。

「おお、今回も元気がいいな磯貝くん。担当の希望はあるかな?」

「参加できるならなんでもいいです!」

 磯貝高志は子供のように声を張り上げる。汗まみれの丸顔と低い身長のせいで、風貌は明らかに小学生だ。とても同い年とは思えない。

「よし。では撮影の担当をしてもらおう。私の相棒だ」

「はい! 頑張ります!」

 安斎部長は扱いを心得たもので、決して磯貝一人に重要な役を任せない。必ず誰かと組ませ、実際は雑用めいた用事を命じる。こいつが張り切ると立て続けにトラブルが起きるからだ。カメラの破損、車のパンク、参加者の負傷などなど、前科は数えればきりがない。

「俺、今回はパスで」

 沖田修也がはっきりとした声で言う。伸ばした前髪でほぼ目元が隠れており、風貌こそ異様だがこのなかでは一番話が通じる。

「何か用事でもあるのかね? 運転を頼もうと思っていたのだが」

「実家の用事があるので」

 またこれだ。話は通じるが、これを言い出すと沖田はてこでも動かない。授業どころか進級に関わる実習さえもこの理由で欠席する。いったい実家で何をしているのか、もちろん尋ねたことはない。知らないほうがいいこともある。

「仕方がない。他に、車の運転ができる者はいないかね?」

 部長はぐるりと室内を見渡すが、全員黙ったままだ。ぼくもまた、可能な限りさりげなく目を逸らしてやり過ごそうとする。

「宮本くん。確か、きみは自動車免許を持っていたね?」

 浅い思惑はあっさり破られた。こうなると部長はしつこい。

「車を所持していないなら、レンタカーを手配しよう。もちろん費用は私が出す。力を貸してもらえないだろうか?」

 言いかたこそ丁寧だが視線の圧が強い。ぼくのようなひ弱な人間では到底押し切れる相手ではない。

「しばらく運転してないんですけど」

「●●山までの道のりは難しいものではないよ。赴くのも深夜だ、事故を起こす可能性は限りなく低いだろう。心配はいらないよ」

 美しい顔で言い切られたら、本当にそんなような気がしてくるからおそろしい。顔のいい人間というのはそれだけで人生の難易度が下がると思う。

 実際のところ安斎部長のファンは多い。黒くてつやつやしたシャツと真っ赤なネクタイ、という奇妙な服装もあっさり着こなす風貌をしていれば当然だ。

 この変なサークルの部長などしていなければ、もっと大勢の人に囲まれているだろう。

「わかりました」

 ぼくはそう言うしかなく、シフト変更を申し出るたびに嫌味を言うバイト先の先輩の顔を思い浮かべてそっとため息をつくしかなかった。

「よし。ではあとは連絡役だ。飯塚さん、頼めるかな?」

「了解です」

 先ほどと同じ平坦な声で反応があり、これでメンバーが決まった。

「では翌週水曜日、午後十一時に集合だ。本日はここまで」

 安斎部長はにっこりと笑う。

「諸君、いよいよだ。我々もついにあの場所へ踏み込む。これまで、諸先輩方が探索に失敗し姿を消した。その負の連鎖を、我々の手で断ち切ろうではないか」

 それはなんとも美しくて、憂鬱な笑みだった。

「虚数倶楽部に、誉れあれ!」



 まあ、そういう顔をしますよね。

 ヤバいのに声をかけてしまったと後悔しつつも、相手が激昂して危害を加えてくるのは怖いから、最低限儀礼的な態度を保とうとする。

 正直で良いと思いますよ。皮肉抜きで。

 もう少し続けます。

 毎年、虚数倶楽部のメンバーが理由不明の失踪を遂げている。

 ただ、失踪といっても一人か二人といったところでした。だから余計に深刻な扱いをされず、いつまでも噂レベルだったんです。

 それが、ある年――ちょうど私が三年のときでした。

 その年にいた虚数倶楽部のメンバーがほぼ全員、消えました。

 全部で八人。

 さすがにそこまで増えると、大学も放っておけなくなったようです。本格的に捜索が始まりました。警察が出入りしているのを何度も見ましたよ。

 ただね、雑草みたいな学生が八人消えたくらいでは、おそらく大学も真面目に動かなかったはずです。

 安斎家、知ってますか。そうです、あのでかい財閥の元締め。

 安斎家は大学に多額の寄付をしていました。しかも悪いことに、当時の部長はそこの跡継ぎだったんですよ。

 お得意さまの御曹司が失踪したとなれば、まあ焦ったんでしょうね。

 結構動いたみたいですよ。結構な数の、結構な地位の人たちが。

 でも結局、彼らは見つかりませんでした。当然です。

 凡人なんかが見つけられるわけないんですよ。

 異界への興味も理解も持たない連中なんかに。

 話を続けます。

 失踪者たちの足取りは、ある心霊スポットで途絶えていました。山の麓にある廃墟です。有名な場所ではありません。ただ虚数倶楽部にとっては、特別な場所でした。代々受け継がれてきたとびきりの危険地帯、なんて呼んでいたそうです。

 彼らは深夜、車に乗り合わせてそこへ向かい、そのまま姿を消した。

 車は無人のまま乗り捨てられていました。そこから失踪者たちが廃墟へ入ったことは確かですが、足跡は途中でぱったり途絶えていたそうです。

 頼みの綱の警察犬が廃墟の真ん中で座り込んでしまってどうしようもなかった、なんて話を聞きました。

 まあそんなわけで、手がかりも掴めず捜査は打ち切り。大学と財閥は最後まで粘ったようです。組織の論理というやつですね。しかし、知っての通りどちらも今日まで元気に運営を続けています。見かけ上は。

 この廃墟が、虚数倶楽部で代々受け継がれてきたという話はしましたね。

 彼らがとびきりの危険地帯などと呼んだのは、この廃墟が、ある街に繋がっているからだそうです。

 私たちを雁字搦めにする、常識や良識や先入観や社会通念。

 そういうものが一切通用しない街。

 はみ出し者にしかなれなかった彼らのためにあるような、そんな街です。

 名前を、井戸樺いどかば町と言います。



 通り過ぎるコンビニがやけに眩しい。真っ白な光に刺された目を細めながら、ぼくはハンドルをしっかりと握り直した。

「宮本くん、疲れていないかね?」

 美声とともに伸びてきた腕が缶珈琲を差し出す。

「大丈夫です。寝てて良いですよ、部長」

「まさか! ようやくあの場所へ踏み込むのだよ、こんなに胸が踊るのに眠っていられるものか」

 バックミラーを見る。安斎部長は、拙い手つきの磯貝からさりげなくカメラを取り上げつつ余裕の笑みを浮かべる。ぼくはそっと胸を撫で下ろした。到着する前に機材が壊れたら、車のレンタル代をどぶに捨てることになる。

「部長! ぼく今日頑張ります!」

 磯貝は相当興奮しているらしく、いつもより汗をかいている。ダウンコートを着込んでも厳しいくらい寒い夜なのにTシャツ一枚で平気そうな様子だ。部長は相変わらずにこやかに対応する。

「ああ、磯貝くん。きみには期待しているよ。力になってくれたまえ」

「はい!」

 鼓膜が破れそうな声で叫ばれ、思わず顔をしかめてしまった。

 助手席に目をやると、沖田はぼくらの会話などまるで耳に入らないかのように黙って座っている。前髪の隙間からじっと窓の外を見ているらしかった。

 ――今回は、行ったほうがいいと思った。

 直前になって欠席をひるがえした理由を、沖田はたった一言そう説明した。

 ぼくにはその内心など知る由もないし、大して興味もない。ただ、そう告げた沖田に、部長が嬉しそうに頷いたことだけが印象的だった。

 再びバックミラーへ目を移す。ヘッドライトは意味もなくハイビームのままだ。先ほどから聞こえてくる重低音は、そこから発されていた。

 参加者が増えると知ったのは昨日だ。グループメッセージで突然通達された。別に人が増えるのは構わないし、車も自前で出すと言うから気にもしなかった。

 反対しておけばよかった、と正直思う。

 きつい香水の匂いがまだ鼻の奥に染みついていた。

 鵜飼真奈美、江崎美穂、遠藤孝一。

 一応は虚数倶楽部のメンバーだ。ただ、彼らの目的が単に人の注目を浴びたいだけというのはすぐにわかった。

 派手な服、磯貝とは別のベクトルで大きい声、妙に長い棒にスマートフォンを取り付けて再生数がとか収益がとか、そんな話を繰り返す。

「部長、よかったんですか」

「何がだい?」

 思わず尋ねてしまったものの、表立って口にするのも憚られて黙る。しかし、部長はぼくの言いたいことを理解したようだった。

「彼らには彼らの鬱屈がある。それが解消されるかは、これからわかることさ」

 がたん、と車が揺れた。背中が背もたれに押し付けられる。街灯の光が木々の向こうへ消え、道はいよいよ山へ入っていく。

「さあ、もう少しだ。頼んだよ、宮本くん」

 ぼくは返事の代わりに、アクセルを踏み込んだ。



 井戸樺町について、彼らも詳しくは知らなかったようです。

 なにせ言い伝えの街です。竜宮城が本当にあるのか確かめに行ったようなものです。馬鹿と言えば馬鹿でしょう。

 ただ、彼らはそれくらい切羽詰まっていたとも言えます。

 もう一度、虚数倶楽部についての話をしましょう。外側から見た虚数倶楽部の姿を。

 表向きは大学の非公認サークルです。ただ、この虚数倶楽部は大学設立時から存在していることがわかっています。公式の記録には残っていませんが、大学の歴史の端々に彼らの存在が確認できるんです。

 やっていることも昔から同じ。集まっては心霊スポットやいわくつきの場所を観に行って、帰ってくる。それだけです。

 ここまでの話だと、彼らがただの物好きな連中にしか見えないはずです。

 ただね、メンバーの性質が問題でした。

 先ほども話したとおり、私のいた大学には大量の学生がいました。

 人が集まれば、そこから弾かれる者が出てくるのは当然です。

 弾かれ者が集まり、再びそこから弾かれた者が集まる。その繰り返しです。

 すると結果として、どこにも所属できず、単独でいる以外の選択肢を持たない学生が現れます。

 それが彼ら――虚数倶楽部でした。

 彼らは群れではなく、単数が複数存在していただけです。仲間ではなかった。知り合いですらなかった。共有する利害すらなかったのです。

 もはや異端でしかありません。孤独と呼べるほどの美学もない、異端です。

 彼らには疎通を図るような意思すらありません。交わらないどころではない。そもそも、同じ異端でなければ誰からも認識すらされないのですから。

 ただ、部長は少々オプションがついていました。

 財閥の後継者という立場しかり、外見しかり。まあ、ハンサムだったんです。単純な話です。金持ちで見栄えもするとなれば放ってはおかれません。

 放っておかれないだけで、彼が異端であることに変わりはないですがね。

 ちょっと変わったお人形をかわいがるような、そういう扱いだったんです。

 少々値の張る異端。端的に言えばそうなるでしょう。

 すなわち虚数倶楽部とは、異端の個が複数存在する領域と呼べます。

 異端たち、ではありません。異端と異端と異端、です。

 こんなに多くの学生がいるのに、自分のいるべき場所がどこにも存在しない。想像できますか? その寄る辺なさが。

 だから彼らは向かったのです。異端の口から口へ伝えられてきた街へ。

 そこは、自分たちを異端と定義する概念そのものが成立しない。異端が普遍である楽園です。

 ますます良い顔になってきましたね。帰りたいですか? 構いませんよ。

 私もまだまだ書くものが、書くべきものがたくさんありますからね。

 私は、もっとたくさん書かなければいけないんです。もっともっと、この世を埋め尽くすほどに。


 そうですか。

 では、ご要望通り続けましょう。彼らの話を。



 車を降りると上着越しに冷気が突き刺さってくる。ぼくはたちまち冷え始めた手をポケットに入れ、振り返った。

 部長はカメラの動作を確かめ、磯貝は何かを呟きながら辺りをうろついている。後続の車も近くに停まっていた。遠藤のがなり声に、鵜飼と江崎の甲高い笑いが混じっておそろしくうるさい。

「最悪」

 運悪く三人と同乗するはめになった飯塚は普段以上に目つきが悪い。不機嫌を通り越して視線だけで人を殺せそうだ。

「帰りはそっち乗るから」

 有無を言わさない口調で呻いたきり、黙り込む。早くも先が思いやられた。

「おい早くしろよ! オレもう動画回してんだけど!」

 遠藤の下品な声にも部長は笑みを崩さない。カメラを構え、声を上げた。

「すまない、こちらも準備は整った。では、足元に気をつけて進もう」

 颯爽と先導しかけた部長を、遠藤が半ば押しのけて歩き出した。

「今からヤバい廃墟行きまーす! ユーレイとか映るかも!」

 ぼくが呆然と見ていると、どんと肩が揺れた。江崎だった。ごみを見るような目でぼくを見ている。

「宮村だっけ? 前から思ってけどあんたキモいよねー生きてんのかわいそう」

 鵜飼が肩を叩くが、にやついた表情を隠し切れていない。

「美穂やめなよーひどいってー」

 金属音みたいな笑い声を残し、二人は遠藤のあとをついていった。

 ああいう物言いは慣れたつもりだったのに、急にぶつけられると身体が固まる。

 キモいのも生きていることが可哀想なのもとっくに知っているのに。

「宮本」

 ぶっきらぼうな声に名前を呼ばれて、無理やり視線を上げた。

「行こう」

 飯塚は短く言う。ぼくは頷いた。部長は黙ってぼくを見ていて、磯貝は意味もなくその場でジャンプしている。

 時刻はもうすぐ午前二時になる。今夜は月も星も見えない。

 舗装されていない、曲がりくねった道が暗く口を開けている。

 ぼくらは一言も喋らず、葬列のように道を進む。ときどき部長が記録のため、状況を小さく声に出している。

「一時五十二分。気温マイナス二度。最寄りの空き地に停車し、そこから徒歩で移動を開始する。照明、および我々以外の人間が通った痕跡は一切ない」

 しばらく進むと、闇のなかに何か大きなものの輪郭が見えてくる。

「諸君、ここだ。拠点番号八六三A、◆◆◆◆跡地に到着した」

 異様に大きかった。

 直線的で無機質なシルエットは重苦しく、どこか空気すら歪ませているようだ。こちらを威嚇するのでも、拒絶するのでもない。表情の浮かばない目でこちらをじっと見ている。そんな気がした。

 騒々しい声が三人分、既に壁の向こうから聞こえている。

「行きますか、部長」

「もちろんだとも」

 部長はカメラを構え直してぼくらに振り返った。

 なぜか、嬉しそうだった。

「ここからが正念場だ。みんな、怪我にはくれぐれも気をつけるように」

「はい!」

 場違いに大きな声が磯貝の声がたちまち暗闇に吸い込まれる。

 それほどまでに、ここは暗い。

 床は抜け、壁は崩れかけている。コンクリの天井は大きくひび割れてそこから鉄筋が覗いていた。懐中電灯のわずかな光のなかでも、ここが荒廃し切っていることがわかった。

 不気味なのは、よくある心霊スポットのように人が荒らした形跡がないことだ。

 大抵そういう場所は壁に落書きがされて、恐怖を煽る余計なもの――線香とか人形とか――が置かれ、ジュースの空き缶や煙草の吸い殻が捨てられてするが、ここにはそういったものが一切ない。

 ひたすらに荒れ切っている。なのに放置されているというより、このまま保護されているような雰囲気があった。

 その異様さに気づいたのか、あんなに騒いでいた遠藤がおとなしくなっている。

 先ほどまでの覇気が嘘のように、ぼくらの近くまで戻ってきていた。

「なんかここやばいかも」

 何を今さら。

 やがて、ぼくらは開けた空間に辿り着いた。ここも同様に荒れているが、他の場所よりも広いことがわかる。

「一時五十九分。では、手順を開始する」

 部長は静かにそう言い、カメラを下ろした。



 さて、彼ら八名は無事廃墟に――拠点番号八六三A、◆◆◆◆跡地に辿り着き、そこで指定された手順を踏みました。

 もちろん、井戸樺町へ立ち入るための、です。

 細かい作業を順序立てて行う必要があったようですが、詳細を知っているのは虚数倶楽部の歴代の部長だけでした。そんなルールがあったようです。

 その詳細は、今もわかっていません。安斎部長が情報を残さなかったからです。

 廃墟の場所も、井戸樺町へ立ち入る方法も、井戸樺町の存在すらも。

 ええ、故意でしょうね。

 理由は不明です。本人に聞かなければ、何もわかりません。

 今思えば、虚数倶楽部の部長の選出方法には何か裏があるような気がしますね。人格とか、リーダーシップとか、そういうものではなくて。

 言葉にするなら――安定して狂っていられる能力、でしょうか。

 おそらくはそれを持っていたんでしょう、安斎祐一朗という人は。

 それに基づいた強いカリスマ性がある種の特徴を持った人間たちを引き寄せ、彼らを引き連れて、井戸樺町へ向かった。私はそう考えています。

 確証はありませんよ。そんな気がするだけです。

 でもね、確証のない物事に言葉を与えて現実に近似させるのが、小説家という仕事ですから。

 さて。

 実はこの先は、私にも知り得ないことです。

 井戸樺町で何が起きたのか、誰と出会ったのか。それはまったくの不明です。

 つまりこの先、私がお話しできることは、もうあまり多くありません。

 それでも、聴きますか?



 夕暮れ。

 この薄暗さは、そう呼ぶのがふさわしい。

 古びた家屋。墓標のような電柱と、曖昧な色の空を無数に横切る電線。壊れた車から目玉のようにこぼれたヘッドライト。

 濃い影がそこかしこに滞り、路地裏は静まり返る。

「諸君、到着だ」

 ぽつりと、部長が口を開く。

 誰かが深く、ため息をついた。

 ぼくだって、心から信じていたわけではない。ただの都市伝説であっても別に構わなかった。

 けれど、見てしまったからには信じずにいられない。

 本当にあった。

 かつて虚数倶楽部に所属していた学生たちを迎え入れ、そして帰さなかった町。

「ようこそ。井戸樺町へ」

 ぼくらも――ぼくも、帰らないのだろうか。

「すっげえええ!」

 沈黙を破ったのは遠藤だった。

「ガチでやばいわここ! 絶対なんかいるって!」

 ひっくり返った声でまくし立て、スマートフォン付きの棒を振り回す。先ほどまでのしおらしさが嘘のようだ。酔いそうな映像が撮れていることだろう。

「ここは人の住んでいる区域だ、遠藤くん。騒いではいけない」

 安斎部長が静かに窘めた。周囲がどんなに暴走していても一切動揺しない彼が、こんなことを言うのは珍しい。

「部長」

 ぼくが声を上げるより先に遠藤は歩き出していた。ブーツが必要以上に足音を立てる。

「待ってよ孝一!」

「あんた道知ってんの?」

 江崎と鵜飼が騒々しくついていく。三人ぶんの香水の匂いが遠ざかる。

「しつこいですけど、ほんとに連れてきて良かったんですか」

 その背中を見送りながら、改めてぼくは問いかけた。

「本当はもう少し後にしたかったのだがね。まあ、結末は同じだ。構わないよ」

 肩をすくめながら口にした言葉の意味が、最初はよくわからなかった。

 通り沿いの家の扉ががらりと開くまでは。

 現れた人物は異様なほどぼろぼろの服をまとい、手には何か見慣れないものを持っていた。

 金属らしい大きな塊を先端に取り付けた木の棒。

 黒ずんだ太い腕が遠藤の首を掴み上げたとき、ようやくそれが斧だとわかった。

 その人物は、植木の枝を掃うように無駄のない動作で、遠藤の右腕を落とした。

 首を絞められたままの遠藤は声を発さず、ただ身体をよじっている。

 斧を短く持ち直して、左腕、右足、左足と順番に落とす。

 遠藤はさながら、巨大で真っ赤な芋虫のように蠢いていた。

 斧の人物がぐるりと首をめぐらせ、こちらを見る。

 立ち尽くすぼくらをよそに安斎部長は一歩進み出て、丁寧に頭を下げた。

「お騒がせして申し訳ありません」

 遠藤の目が、助けろ、と言う。

 ぼくらは動かず、部長はそちらに目もくれず続ける。

「ご挨拶が遅れましたことも重ねてお詫び申し上げます。つまらないものですが、そちらはお詫びの印として差し上げます。どうぞお納めください」

 そして再び、深々と一礼する。慌ててぼくらも続く。

 斧の人物はかすかに頷いたように見えた。遠藤の首を掴んだまま、家のなかへ引き返していく。扉が閉まるともう何の物音もしなかった。

 あとには赤い水溜まりと、そこに落ちた両手と、両足。

 そして、座り込んだままの江崎と鵜飼。

「諸君」

 部長はいつもの朗らかな調子で、青ざめた女子二名にも聞こえるように、声を上げた。

「伝え忘れて恐縮だが、ここはれっきとした生活の空間だ。敬意を欠いた行動は慎むように。いいかな?」

 誰も返事をしなかった。淀んだ夕暮れのなか、黙っていた。

「では、進もう」

 歩き出す部長に、ぼくらはただついていく。江崎と鵜飼が立ち上がった気配はない。けれど、もう振り返る気はなかった。

 今見たものが異常な、ありえない光景だったことはわかる。

 わかるだけで、恐怖とか焦りとか、そういう感情が沸かない。ショックで頭が動かなくなっているのでもない。

 ただひとつだけ漠然と思ったのは、ここではこれが普通だということだ。

 自分の玄関先で騒がれたら、手足を切り落としたくなるのは普通のことだ。

 別に、何も不思議じゃない。

 ぼくらは静かに路地を進んでいく。くすんで薄暗い通りに並ぶ家々は暗く重い影になっている。誰もいない。物音すらしない。重く湿った気配だけがこちらを伺っていた。

「運が良ければ、先輩たちと合流できると思うのだがね」

 部長は気軽な口調で言った。

「私もここの全貌を知っているわけではないんだ。案内があると心強いな」

 ぼくらは――虚数倶楽部は嫌われているどころか、呪われている。

 毎年決まって行方不明者を出すサークルならそう言われて当然だ。集団行動のできない社会不適合者の集まりがオカルトめいた遊びに興じ、その結果失踪する。

 ぼくらは常に嘲笑の的だった。飯塚も、磯貝も、沖田も、そしてぼくも部長も。みんなはぐれ者だ。この奇妙な街を歩いているとそれを痛感する。

 どれだけ馬鹿にされようが構わなかった。笑いものにされても怒らなかった。

 ただ、放っておいてほしかった。誰の邪魔もせず静かに生きるから攻撃しないでほしかった。日陰に集まって息をしているのを暴かないでほしかった。

 何度もそう願って、叶ったことは一度もない。

 社会の隅で生きることすら迫害されるなら、いっそ現実など捨てて異界へ飛び込んだほうが楽になる。

 きっと失踪した先輩たちもそう考えたのだろう。

 それを思うと、なんとなく羨ましかった。

「おや」

 部長が急に立ち止まった。

「言ったそばから、というやつか。これは幸先が良い」

 指差す先に、一軒の崩れかけた家屋がある。そこからたった今出てきた人物は、ぼくにも見覚えがあった。

「*※先輩?」

 アパートの隣人を殺して解体して中庭に埋め、ついでにアパートに放火して、そのまま失踪。全国で指名手配されてから、退学届が郵送で届いた。そんな噂とセットになって、先輩の名前は学内に知られている。

 面倒なのは、先輩が虚数倶楽部にかつて所属していたことと、その噂がすべて事実であることだ。

 *※先輩はこちらに気づくと、大袈裟なくらい手を振って笑った。

「おーおまえら! こっち来れたのかよ、やったじゃん!」

「*※先輩、ご無沙汰しています」

 安斎部長が平然と頭を下げる。先輩の手も服も顔も真っ赤に染まっているのに、それに一切気を取られている様子がない。先輩は赤い水滴を地面に落としながらこちらへ歩いてくる。

「安斎おまえ変わんないな、まだそんなコスプレみたいな格好してんのかよ」

 げらげらと笑う口元に、何かの肉片がこびりついている。

「なあ、外の連中、まだ俺のこと追っかけてる?」

「ええ、指名手配は取り下げられていません」

「アパートは?」

「全焼しました。跡地は現在駐車場になっています」

「けけけ。つまんねえな」

 ふいと掲げた腕から、固まりかけた血がぼとりと垂れる。

「あっち、繁華街のほう。おまえらの先輩が大勢いるぜ。暇なら行けば?」

「ええ、そのつもりでした。ありがとうございます」

 ぼくらは連れ立って、その場を離れようとした。

「ああそうだ、彩」

 急に呼ばれた飯塚の、唇のピアスが震える。

「ごめんな。置いて行って」

 そのまま*※先輩は立ち去った。何も、本当に何もなかったように。

「狂ってますね」

 飯塚の声からは、さっきよりも気だるさが消えていた。

「狂ってて、楽です。こっちのほうが」

 名前のつく感情を通り越した顔で笑う。風呂上がりみたいなさっぱりした表情だった。部長は応じるように笑う。

「それはよかった。喜ばしいことだよ、飯塚さん」

 ぼくらは先へ進んだ。他に、行くべきところは思いつかなかった。

 赤黒く、薄暗い町は不気味なほど静かだった。ぼくら以外の足音は聞こえず、なのに気配だけがずっとついて回る。

「監視されてる?」

 ぼそりと呟いたぼくに、部長がすかさずフォローした。

「余所者を意識するのは人間の習性だ。だからこそ、私たちは正しい振る舞いをしなければならないということさ」

 部長が言うと妙に説得力がある。確かにその通りだという気がしてくる。

「きみたちを土産物にするつもりはないからね。頼んだよ、諸君」

 そういえば、とぼくは思い出す。

 江崎と鵜飼はどこへ行っただろう。

「おーい!」

 通りの先で誰かの声がした。

「きみたち、虚数倶楽部かな?」

 ぼくらは顔を上げ、そちらを見る。

 路地の終点、繁華街とぶつかる丁字路で誰かが手を振っている。

「これは運が良い。▽●先輩と$≒先輩だ、お元気そうだね」

 部長は顔を輝かせ、足を速めた。ぼくらもついていく。

「やっと来たね。ようこそ後輩たち」

「大変だったでしょ、怪我してない?」

 風貌は昔のままだ。ただ、瞳だけが妙に爛々と輝いている。ぼくの、確か二つ上の先輩たちだ。

「ご無沙汰してます、先輩がた」

「礼儀正しいところ変わんないね、気楽にやろうよ」

 ▽●先輩が親し気に部長の肩を叩く。

 そうだ、こういう人だった。人なつこくて、人たらしで、一言で言うとクズ。

 他人の金やら恋人やらを掠め取って、結局消えた。そう聞いている。

「よかったら、お風呂浴びて行きなよ。沸かしたばかりだから」

 湯気の匂いがすると思ったら、$≒先輩の服が少し濡れている。指差すほうを見ると天を衝く煙突が煙を吐いていた。

 そういえば、$≒先輩は風呂が好きとよく言っていた。好きが長じて風呂屋になったということだろう。進路に悩むぼくにとっては羨ましい限りだ。

「うちは今も薪で焚いてるんだ。わたしの好みだけどね、お湯がやわらかくて」

「そうだ、おまえんとこの釜貸してくれよ。さっさとあれ煮込んじまわないと」

 ▽●先輩の気軽な声に、$≒先輩は表情を曇らせる。

「やだよ、香水だの洗剤だの柔軟剤だの、色々染み込んで最悪じゃん」

「煮沸消毒だよ。煮るの得意だろ、おまえ」

「薪代出してよね」

 $≒先輩の抗議をよそに、▽●先輩は人の良さそうな笑顔を向けてくる。

「お土産ありがとな。まあ臭いはともかくだけど、あんな若くてやわらかいのは久しぶりだよ」

「気に入っていただけて光栄です」

 部長は涼しく笑う。

「ですが、下ごしらえが厄介なのはお詫びします。申し訳ない」

「あはは、ほんとに固いね安斎! 全然いいよ、慣れてるし」

「あんたは食べてるだけでしょうが、めんどくさいこと全部人に押し付けて」

 $≒先輩は抗議しつつ、通りの向こうへ足を向けた。

「それじゃあね。ほんと、お風呂入っていって。待ってるから」

「はい。ありがとうございます」

「俺も入っていい?」

「釜の掃除してからだ、馬鹿!」

 ▽●先輩も続いてその場を離れる。わあわあと言い合う声が遠ざかる。

 下ごしらえか。

 きっと、二人ぶんだろうな。面倒くさそうだ。

「入りたいな、風呂」

 ぼそりと沖田が言う。

「もう少し、探索を続けてからにしよう。挨拶回りも終わっていないからな」

 安斎部長の一声で、ぼくらは再び繁華街を歩き始める。

 ぼくはちらりと、磯貝を見た。目だけはきょろきょろと落ち着かないものの、町に入ってから磯貝は完全に沈黙を保っている。叫ばないと息ができないのかと疑ったこともあるほどなのに、ここまで黙っているとかえって不気味だ。

 井戸樺町は静かで、薄暗い。夕暮れは一歩も退かず、また進まない。

 そのなかにぽつんとひとつ、電球を提げた軒が見えた。

「あそこも、先輩の店のようだ。行ってみよう」

 そこから流れてくる匂いが鼻をくすぐった。何かが香ばしく焼けた、あるいは揚がった匂いだ。歩き詰めの身体がたまらなくなる。

「腹減りましたね」

 つい口に出してしまうと、部長は快活に笑った。

「では、ここはぼくが奢ろう。美味いもので英気を養おうじゃないか」

 濁った緑とくすんだ白が縞模様になったビニールの軒に迷わず入る。

「ごめんください」

「はーい」

 元気な返事とともに◆◎先輩が現れた。ぼくらの顔を見て目を丸くする。

「やだ、びっくりしたー! みんなで来たの? 元気だった?」

「はい、おかげさまで」

 頭に布を巻き、油染みだらけの割烹着をまとった◆◎先輩は一学年上だった。勉強もできたし友達もいたのに、急にいなくなった。

「しっかし、虚数倶楽部ってまだあるんだね! そろそろ潰されても不思議じゃないのに」

「必要でしたからね。それだけですよ」

「変わんないねえ、超然としてるとこ」

 ◆◎先輩は苦笑して、一度厨房へ引っ込んだ。

 薄汚れたケースには何か赤黒いものがいくつも置いてある。目をこらしても、曇りのひどいガラス越しではよくわからない。

「はい、サービス!」

 そう言って、◆◎先輩は人数分の串揚げを差し出した。

「ありがとうございます、いただきます」

 ぼくらは一本ずつ受け取り、齧りついた。

 かりかりに揚がった衣が割れると、なかからたっぷりの肉汁があふれてくる。噛み締めるほどに旨味の湧き出す肉だ。食べ応えがありつつ、くどくない。この絶妙な厚さも、シンプルに塩と胡椒だけの味付けも、実にちょうど良い。

「美味しいですね。毎日食べられそうですよ」

「そう? ふふふ、ありがと。実はね、さっき手に入ったやつなんだ。やっぱり、お肉は新鮮でないとね」

 確かにそうだ。熟成肉なんて嘘だとぼくは思う。まだ体温が残っているような、それくらい新鮮な肉が一番美味い。

 じっくり噛み締めても、香水の匂いはもうしない。

「先輩、店はお一人で?」

「うん。でも、そろそろ限界。雇いたいんだけど、なかなか見つからなくて」

 先輩はため息をつく。

「不器用で良いから、真面目に頑張ってくれる人。誰か知らない?」

 そのときだった。

「僕やります!」

 突然の大声に、思わず肩が跳ねた。

 磯貝は限界まで片手を上げていた。口元に衣の欠片がついたままだ。手にした串揚げには、めちゃくちゃに齧った跡がある。

「やります! 働きます!」

「先輩、磯貝くんの真面目さと勤勉さは私が保証しますよ」

 ◆◎先輩はしばらく磯貝の顔を眺めていた。どこか空っぽで、どこまでも底のない目だった。

「じゃあ磯貝くん、お店手伝ってくれる? 期待してるよ」

 そう言われた途端、磯貝の顔が赤黒く染まった。絶叫が町を揺らす。

「やります! 僕頑張ります! 頑張ります! 頑張ります! 頑張ります! 頑張ります! うれしい! うれしい! うれしいうれしいうれしい! うれしい!うれしいうれしいうれしい!うれしい!うれしい!うれしい!もう邪魔じゃないゴミじゃない出来損ないじゃない!生きてていい!うれしい!うれしいうれしいうれしい!」

 はちきれそうに笑いながら、磯貝はうろうろ歩き回った。

「では磯貝くん、ここでお別れだ。仕事に励みたまえ」

「はい! 頑張ります!」

 耳まで避けそうな口元が笑い、割れた声が応えた。

 磯貝がよたよたと厨房へ入っていくのを見送り、ぼくらは店を出る。

「彼なら心配ない。しっかり働いてくれるだろう」

 部長の声には嘲笑も疑念もない。晴れやかに事実を述べるだけの、明るい空虚だった。

 ぼくらはさらに歩く。

 淡く赤黒く、影のない町を。ぬるりとした空気のなかを。

「あの」

 飯塚がふいに、声を上げた。

「やっぱり、行っていいですか」

 部長は振り返り、静かに言った。

「再会できて、何よりだね」

「はい」

「いいよ、行きたまえ。お幸せに」

 飯塚は小さく頭を下げて、踵を返した。

 弾むように駆けていく背中を見ているうち、別の噂を思い出す。

 先ほど出会った*※先輩と、飯塚は付き合っていた。そんな話だ。

 彩。確かに、先輩はそう言った。置いて行って悪かった、とも。

 あの人のせいで、飯塚は余計に孤立したし、馬鹿にされた。

 それでも。

 飯塚の姿は、角を曲がって見えなくなった。

「さて」

 部長はひとつ息を吐いて歩き出す。ぼくらも続いた。

「心配いらない。この町は、何も否定しない。解釈も分類もしない場所だ」

 詩人のように朗々と、安斎部長は語る。

「だからこそ、ここへ来たかったんだ。みんなでね」

 みんな、という言葉に力がこもっている。呪いと祈り、どちらでもあるような響きだった。

「ハブられてばっかですもんね、俺たち。吹き溜まりっぽいっていうか」

 沖田の声には自嘲と、深い疲労が感じられた。

「本当はうまくやりたいのに、そうできないっていうか。理由なんて色々だけど。でもなんか、ここにいると別にいいやって気がしますよ。縛られなくていいってことでしょ?」

 沖田の口調は軽く、そして溜め込んでいたものを吐き出していくように苦い。

「その通りだとも。この町においてぼくらは自由だ、沖田くん」

 ふっと、沖田の無表情が崩れた。

「ちょっと疲れたんで、風呂行きます。ついでに働かせてもらえないか、訊いてみますよ」

「ああ。私も後で行こう。交渉が上手くいくよう願っているよ」

 沖田は踵を返し、歩き出した。ぐっと背を伸ばす姿が軽やかだった。

 残ったのは、部長とぼくだけだ。

「さて、宮本くん」

 部長は笑う。

「きみは、どうしたい?」

 ぼくらも――ぼくも、帰らない。

 望みらしい望みなどない。

 ただ、ひとつだけ気がかりなことがある。

 虚数倶楽部のもう一人のメンバー。今日唯一の欠席者のことだ。

 風邪をこじらせたと連絡が来たのは一昨日だった。短い文面に残念がっている様子が見て取れた。

 お大事にと社交辞令みたいな返信をしたら、泣いている猫のスタンプがひとつ返ってきた。

 文章を書くのが好きで、虚数倶楽部の活動記録を面白おかしく小説に仕立てたものを度々読ませてくれた。ぼくはそれがとても好きだった。

 今になって思う。

 きみの書く文章が好きだったと伝えればよかった。

 今日、一緒にここに来たかった。

 ここでの出来事を小説にして、それを読ませてほしかった。

「部長」

「なんだね?」

「町に入るための手順、なんで録画しなかったんですか」

「追っ手がかかるのが嫌だったからね。きみも知っているだろうが、私は面倒な立場にある。手掛かりは残したくなかった」

「だったら、最初から撮る必要はなかったはずです」

 部長は微笑んだまま、黙る。

「教えてください。本当に、ここから帰るつもりはあったんですか?」

 ぼく以外、気づいた者はいないだろう。カメラはずっと部長が持っていたから。

 録画中を示す赤いランプは、車を降りたときから消えたままだった。

「宮本くん」

 静かに口を開いた部長は、表情をひとつも変えなかった。

「戻りたいのならば、私も一緒に手段を探そう。糾弾してくれたきみへの敬意を示す方法はそれしか知らない」

「いいえ、戻る気はありません。ただ」

 ぼくは帰りたいのではない。

 残したいのだ。

「メモリーカード、もらってもいいですか」

 カメラを指して言うと、部長はぼくの意図にすぐ気づいたようだ。

「もちろんだとも。美しい友情だね」

 友情、と言われてぼくは少し黙る。そんな美しい言葉で飾るような気持ちではない。そんな気がした。

「それくらいしてあげてもいいかなって思っただけです」

 だから辛うじて、そう返す。

「そうか。ではこれはきみに――いや、最後にひとつだけ」

 部長はカメラの電源を入れ、ぐるりと辺りの景色を映した。

 夕暮れのように薄暗く、誰もいない、かすかに生臭い匂いのする町を。

 そして――

「虚数倶楽部に、誉れあれ!」

 高らかにそう宣言して、スイッチを切った。

「これでよし」

 取り出したメモリカードは、手のひらのなかでほんの少し温もりを持っていた。

「きっと無事に届くだろう。あとは、再会を楽しみに待とうじゃないか」



 一緒に行きたかったんですよ、私は。

 でも、みんな置いて行ってしまうから。

 安斎部長も、磯貝くんも、飯塚さんも、宮本くんも。

 風邪なんて引きたくなかった。本当に楽しみにしていたのに。リュックに荷物全部詰めて、部屋に置いといたんです。それを見ながらずっと想像してました。今頃みんな、あっちに行ってしまったんだろうなって。

 そう、そこに置いてあるでしょう。あれからずっとそのままにしてあります。

 井戸樺町へ行く方法はもうわかりません。だから、私は書いているんです。

 彼らのことを。彼らがいるはずの、異界のことを。

 彼らについて、異界について、知っている人を増やすのが私の目的です。

 一緒に行きたかった。連れて行ってほしかった。

 でもそれが叶わないなら、こちらとあちらを地続きにすればいい。

 そうすれば、私もまた彼らに会える。

 みんなもそう思っているに違いありません。

 だって、ほら。これを見てください。

 このメモリカードは、活動の模様を記録するために使っていたものです。

 彼らがいなくなってから、しばらくして私の元に届きました。

 中身は短い動画がひとつだけ。夕暮れみたいに薄暗い町の風景と、部長の声が入っていました。

 誰が送ってきたのかはわかりません。でも、想像はつきます。

 彼はいつも小説を読んでくれていましたから。


 現在、虚数倶楽部という名前は大学の記録から抹消されています。噂レベルで知っている人もほとんどいないでしょう。

 ですが、虚数倶楽部がこの世から消えたわけではありません。

 私がいるからです。

 といっても、必要なのは語り部ストーリーテラーではないんです。

 語ることで境界が揺らぐ。「あちら」が滲み出し、侵食し、やがて崩壊する。

 そうすれば「こちら」も「あちら」も地続きです。何にも隔てられない同一の世界になる。

 ええ、おぞましいことになるでしょうね。

 でも、私は小説家ですから。

 物語の恐怖ストーリーテラーを操るのが仕事ですよ。

 それで誰かが傷ついてもいいのか、って?

 本気で訊いてますか、それ。

 他人の創作物を読むことは、そもそも傷つく行為ですよ。当たり前でしょう。

 私の小説を――彼らの記録を読んだ誰かが心に負う擦過傷、もしくは致命傷。それがあちらを引き寄せる門になります。

 彼らは無数の傷口を通って、こちらへ帰ってくる。そして私も、あちらへ行く。

 そのためにも、私の本をたくさん読んで、たくさん傷ついてほしいですね。

 話は以上です。

 まあ、軽蔑でも嫌悪でも、好きにしていただいて結構です。

 聴きたいと言ったわりに随分な態度ですけど、今回は大目に見ましょう。


 ただ、これだけは覚えておいてください。

 私は、またみんなに会いたいだけです。今度こそ、連れて行ってほしいだけ。

 私も人間ですからね。置いていかれたら、さびしいんですよ。

 さびしくなかったら、小説なんて書くわけないでしょう?

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