月浜定点観測所記録集 第七巻

此瀬 朔真

「晩冬学舎小景」

 冬の終わりに映ったひとくさりの幻灯です――


 夕刻の実験室を青映せいえいは気に入っている。冬の終わり、底冷えする日なら尚更だ。

 たとえば、今日のような。

 ストーブに置いた薬缶が湯気を上げる。再びやってきた寒気は長く街に居座り、空を暗く覆って今年最後の雪を降らせる支度をしている。

 休暇が始まってまだ間もない。しかし、ほとんどの学生は春の初めまで自宅に籠城を決め込むか、暖気の懐まで飛び出していって遊んでいる頃だ。

 だからこそ、実験室を独り占めするチャンスが訪れる。

 実験において最大の注意点は、手順を遵守することだ。

 確立されたプロトコルから逸脱しないこと。

 指示書の通りに、机に並べた試薬を点検する。ひとつひとつを電子天秤またはピペット等で量り取る。必要であれば乳鉢に入れて細かく磨り潰す。まずはこの試薬。次はこのサンプル。そうしたらこの液体を注ぐ。

 ――手順を遵守すること

 校則ルールを探すほうが難しいと揶揄される青映がこのような作業を得意とすると知ったら大抵の学生は驚くだろう。あいつに規則ルールを守る意思があるなんて信じられない、などとのたまうに決まっている。

 だからこそだ。

 自分の本質は逸脱だと青映は自覚している。

 しかし、今現在自分が属している学校や社会や世間――ときに世界と呼ばれる領域――から完全に出ていく意思はなかった。

 本当の逸脱が恐ろしいからではない。解放の瞬間はもちろん楽しいだろうが、その快感がすぐに色褪せることは目に見えているからだ。

 その思考こそが青映の逸脱者たる最大の証拠なのだが、本人は未だそこに思い至らない。

 逸脱を魂のベクトルに持ちながら、常識が支配する領域に踏み留まるためには、自分をこまめに調律する必要がある。

 その手段が、青映にとってはこの実験室での作業なのだった。

 バーナーの螺子を調整する。かつて実習で教わった通りに。

 炎は、星が若返るように澄んだ色に変わった。

 もちろんそんな話を他人にするつもりはない。仮に誰かに打ち明けるとしても、ごく親しい間柄の誰かだ。

 たとえば――

 フラスコの底から泡がひとつ、立ちのぼる。

 ノックが思考を遮った。

 ――どうぞ

 静かに扉が開き、背の高い人影が現れる。

 ――青映

 返答しようとした青映は、温度計の赤い液体が規定の数値に至ったのを視界の端で捉えた。

 青映が片手で制すると、来客は静かに頷く。そっと扉を閉め、その前で待った。

 次の試薬を加え、ガラス棒でそっとかき混ぜる。液体は一瞬、淡い夕暮れ色のゆらめきを見せ、それを撹拌の渦に溶け込ませながら、ゆっくりと透明に戻っていった。

 ――お待たせ、灯玄とうげん。悪いね、温度にうるさい試薬やつがいてさ

 ――出直そうか?

 ――いや、もう暇になったよ。あとは十分ごとに見張れば良い

 手元の精密時計クロノグラフを掲げながら青映は応える。

 ――それは忙しいと言うんじゃないのか

 ――目を離す暇があるだけマシだよ。次に必要なのは話す相手ってね

 灯玄は少し表情を緩めた。青映の向かいの丸椅子を引き寄せ、腰を下ろす。

 ――ラボの学生は?

 ――里帰りしてなければ、家で寝てる

 ――そりゃ良いな。静かなのは何よりだ

 灯玄は青映の同学年だ。青映とは正反対の真面目さと実直さを兼ね備え、筋金入りの優等生を入学当初から貫いている。

 そして、青映の親友でもあった。

 なぜ馬が合うのかを二人は考えたことがなかった。相手が自分の親友であるという確信以外、証拠や考察など必要がない。それが共通した認識だった。

 こうして互いのラボを行き交う仲であることに、採点される理由などいらない。

 ――灯玄は? 里帰りしないのか

 ――帰っても誰もいないからな

 ――いつも通りか

 ――そういうこと

 灯玄の両親はどちらも医師で、家にいることのほうが少ない。双子の兄である星玄せいげんは長く海外で暮らしている。便りは頻繁だが、滅多なことでは帰ってこない。

 ――そうだ、星玄から小包が来た。これはおまえのぶん

 灯玄は舶来の新聞で包まれた荷物を差し出す。青映はさっそく中身を検めた。

 まずは定番品がひと包み。砂漠の湖デザート・ブルーという銘柄の、文字通りに砂と水の匂いのする特製の煙草だ。それから――

 ――なんだこれ

 ――向こうで流行ってる菓子だと。未だにおまえを甘党だと思ってるらしいな

 くるりと捻ったハトロン紙をほどくと、淡い黄色の正四角錐が転がり出した。ふた粒が一緒に包んであり、合わせると劈開した蛍石によく似ている。

 表面にまぶした精製糖グラニユーが、バーナーの火を受けて光る。

 ――甘党なのは変わってないよ。今は辛党でもあるってだけで

 青映はひと粒を口に放り込み、肩を竦める灯玄に残りを差し出した。爽やかな酸味と、かすかな苦味が舌のうえに溶け出していく。

 ――柑橘だね。今は夏だっけ、あちらは

 ――といっても、もう晩夏だけどな。ちょうどこの時期に収穫する品種があるらしい

 ――いつか行ってみたいもんだね

 ――普段の生活を改めれば、校費留学なんて簡単に行けるだろ。少なくとも試験ペーパーの成績は文句無しなんだから

 ――それはどうかな

 時計が鳴った。青映は手についた砂糖を払い、フラスコの中身を軽く混ぜる。透明な渦が沸騰のざわめきに消えるのを見届けて、再び椅子に落ち着いた。

 ――そう言う灯玄こそ、卒業したら海の向こうへ行くんだろ。医師になるならもっといろんな経験をしないとな

 ――それはどうかな

 灯玄は青映の口真似をして答え、足を組んだ。

 ――今は医学とまったく関係ないことをしているし。実際、星玄は向こうで技術者エンジニア

 ――親御さんが聴いたら泣くぜ、それ

 ――親の期待に応えるために生きてるんじゃないだろ、お互いに

 灯玄の言葉に、青映は一瞬黙り込む。

 ――それを言われると痛いな

 灯玄はまた、黙って肩を竦める。



 短い沈黙を、再びのノックの音が破った。

 ――どうぞ

 ――失礼します

 澄んだ声とともに、小柄な学生が現れた。

 ――やっぱりいましたね、青映さん

 ――翠解すいかいじゃないか、久しぶり

 灯玄は何気なく、翠解と呼ばれた学生の襟元を見る。襟章バツジの色からすると自分たちの一期下らしい。

 ――ラボにいるって言われて、まさかと思ったんですけど

 ――はいはい、どうせ暇人だよ。それで、どうした?

 ――これを事務部の人から預かってきました。絶対に期日までに出すように、って言ってましたよ

 絶対に、に力を込めながら翠解は薄い書類挟みを差し出す。青映はグローブを外した手で受け取り、さっと中身に目を通した。

 ――確かに、これは遅れたら大目玉だな。ありがとう

 書類を脇に置いて、青映は続ける。

 ――しかし翠解も真面目だな。とっくに里帰りしたかと思ったよ

 ――明日帰ります。今日は、図書館に用事があって

 ――そうか。じゃあ、次に会うのは新学期だな

 翠解は頷いて、ふと灯玄のほうを見る。

 ――灯玄さん、ですよね?

 ――そうだが

 ――先生たちから伺ってます。この数十年で、一番優秀だって

 灯玄は皮肉げに顔を歪める。

 ――それが本当なら、ここの教員は記憶喪失だよ。どいつもこいつもね

 翠解は楽しげに笑い、一礼した。

 ――お邪魔しました、先輩がた

 ――うん、またな

 ――おつかれ

 後輩の小さな足音が遠ざかる。灯玄はまだ、扉のほうを見ていた。

 ――気になる? いいやつだよ

 ――それはわかる。でも違うよ

 白衣のポケットに手を突っ込み、灯玄はため息をついた。

 ――どこに行っても優等生と言われるのは、正直面倒だと思ってな

 ――だって事実だろ

 青映はこともなげに言う。

 ――ぼんくらと不良しかいない学校なんて今どき流行らないよ。耳目を集める優等生がいないとね

 ――人を広告みたいに

 ――みたいにじゃないさ。いまやおまえは我が校の宣伝担当でもあるんだから、ちゃんと自覚持てよな

 灯玄の眉間の皺が深くなる。

 ――それを言うなら、おまえだって名物だろうが。この学則殺し

 ――そのみっともない代名詞、そろそろ廃れてほしいんだけどなあ

 苦笑いする青映は再びガラス棒を取った。

 薬缶が再び湯気を上げる。灯玄は立ち上がって、ストーブに近づいた。

 ――そこらに布巾があるだろ

 手順書を眺めながら青映は言い、灯玄は鍋掴みのように布巾を持ち手に巻いた。

 少しくすんだ真鍮色の薬缶だ。わずかなへこみや細かい擦り傷が、長くここで使われてきたことを思わせる。

 たとえば、冬季休暇にも関わらずラボに入り浸る、優秀なのか不良なのかよくわからない学生なんかを、静かに見てきたのだろう。

 灯玄は慣れた様子で流しに近づき、用意しておいたマグカップにそれぞれ湯を注いだ。

 一方は水溶性の珈琲、もう一方は同じく即席のココアだ。互いの香りが混じり合い、立ちのぼって、灯玄の鼻を楽しませた。

 灯玄の好みは昔から変わらない、やや濃いめ、砂糖のみ。

 しかし今日、カフェテーブル――とは名ばかりの物置き台――からは見慣れた砂糖包スティツクシユガーが消えている。

 ――砂糖はどうした

 ――そこの白いやつにどっさり入ってる

 目に入った白磁の壺を開くと、白と茶色の立方体が詰まっている。懐古趣味レトロがこんな身近にいたと知って灯玄はため息をついた。

 ――おまえは本当に面倒なことが好きだな

 少し迷ってから、茶色のひと粒を取り、カップに落とす。

 ――知ってるかい灯玄

 ――なんだよ

 ――角砂糖がなかなか溶けないのはね、主成分が浪漫だからだ。すぐ溶けたら困るものだろう?

 ――ゴーグルの奥の目を輝かせる青映は、詩でも朗読しているようだった。

 灯玄の深いため息が芳しい湯気を散らす。

 ――なあ青映。そんなこと言ってたら、論文なんてぐにゃぐにゃだろう

 ――ふふん。論文なんざ、ぱりぱりさ

 フラスコをひと混ぜし、得意げに笑ってカップを取る。



 再び、ノックの音。

 ――どうぞ

 扉が開き、ひょこりと人影が顔を出した。

 ――ごめんください、灯玄はいませんか?

 名前を呼ばれた当人はカップを置き、片手を上げる。

 ――珍しいな、藍瀬あいせ

 青映はゴーグルを少しずらして、藍瀬と呼ばれた人物を眺めた。

 黒い頭巾フード付きの上衣に白衣を羽織り、大きなヘッドフォンと厚いレンズの眼鏡、首に引っかけたストラップにはメモ帳とペンをぶら下げている。

 まるでどこかの冒険家のようだった。

 ――ここにいるって教えてもらってね

 そう応えると青映に向き直り、軽く一礼した。

 ――同期の藍瀬。多分、初めて会うと思うが

 灯玄の声に青映は頷き、ゴーグルを取る。

 ――青映です。ようこそ我が実験室ラボ

 藍瀬は小さく頷いて、言葉を探すように少し黙った。

 ――あなたのこと知ってます。その、有名だから

 ――もっと名誉ある方法で有名になりたかったけどね

 おどける青映に、藍瀬は小さく笑う。どこか安堵の色があった。そっと眼鏡を外し、微笑む。

 ――よろしく、青映さん

 ――青映で構わないよ。よろしく、藍瀬

 カップをもうひとつ取り出す。注文は濃いめ、ミルク入り。あたたかな一杯を傾けながら、三人はしばし雑談に興じた。

 藍瀬もまもなく実家に戻るらしい。それまで、自分のラボの管理を引き受けていると言う。

 ――休みになったからと言って生活リズムを崩すと、なんというか

 口篭もった藍瀬に、青映が助け舟を出す。

 ――苦しい?

 ――そう、苦しい。だから、なるべくいつも通りにしたいと思って

 ――教授ボスが言ってたぞ、藍瀬がいるからいつもラボが綺麗で助かるとさ

 ――みんな、器具も本もきちんと仕舞ってくれないんだもん。気持ち悪くって

 ――青映、おまえ藍瀬を雇ったらどうだ?

 ――片付けてもらったそばから散らかすだけだ、喧嘩して終わりだよ

 あたたかな実験室に、笑い声が響く。

 藍瀬は空になったカップを洗い、二人にきちんと向き直った。

 ――ではね、灯玄、青映。あまり無理しないで

 ――また来なよ、待ってる

 ――気をつけて帰れよ

 足音が十分に遠ざかってから、青映は再びゴーグルをはめた。

 ――良い友人を持っているじゃないか

 ――ありがたいことにな。だけど藍瀬がまともに人と話すのは珍しいよ

 へえ? そうなのか

 ――人と接することにまったく向いていない。あのが音楽用じゃないの、気づいただろ

 ――まあね。苦労していそうだとは思った

 ――ああやって他所の実験室を訪ねるのも、あいつなりの訓練なんだ。人馴れするためのな。たまに泣きべそかいて戻ってくる

 ――でも、やめないんだ

 ――そう

 ――灯玄が藍瀬を気に入ってるの、なんかわかる気がするよ

 飾り気のない呟きに、灯玄は小さく笑う。

 ――気に入るって意味じゃおまえもだよ。藍瀬があんなに気楽に話すところ、久しぶりに見た

 ――光栄なことだ。また話したいね、面白い人だよ

 ――あいつがそれを聴いたら喜ぶだろうな

 フラスコがぷかりと泡を上げ、それをなでるようにガラス棒が一周する。


  ◆


 ――ところで、橙連とうれんとの件はどうなった?

 ――そうだよ、そのことを話そうと思ってたんだ。聴いてくれよ、橙連のやつ本当にひどいんだぜ。うちの図鑑を持って帰ったきり知らんぷりしてるんだ

 ――なんだって?

 ――信じられないだろ? 研究室うちのラベルが貼ってあるにも関わらず、だ

 ――あいつが盗みなんかするとは思えないな。何か事情があるんじゃないのか

 ――事情があるなら相談してくれればいいのに、こっちだって鬼じゃないんだ。金を貸すほどの余裕はないけれど、話ならいくらでも聴くよ

 ――昼飯代で賭け事ポーカーするおまえと一緒にしてやるな

 言い合う二人を、ノックの音が遮る。おずおずと顔を出したのは――

 ――おや、噂をすれば

 ――あの、青映、いるかい?

 ――ああいるともさ、ごきげんよう橙連氏。さあて本日はいかなる御用かな?

 両手を腰に当て、大仰な口調で問いかける青映に橙連は弱り切った顔を見せる。

 ――ええと、うん、その、本当に悪かった

 そう言って、分厚い封筒を差し出した。青映が中身を取り出す。

 ――おっと

 ――この図鑑か?

 ――ああ。間違いなくこれだ

 青映は表紙を撫でつつ、横目で橙連を見やる。

 ――延滞料金を半月ぶんほど払ってもらいたいところだね

 ――青映

 ――済まない。この通り

 なだめる灯玄を制し、橙連は深々と頭を下げる。青映もふうっと息を吐く。

 ――冗談だって、頭を上げなよ橙連。本は戻ってきた。だったら、必要なのは金じゃなく対話だ

 灯玄の押しやった椅子に腰かけ、橙連は事情を説明した。

 ――実は、従兄弟がこの図鑑を気に入って、家に持って帰ってしまったんだよ。ちっとも返してくれなくてほとほと困ってた。危うく学校に持って行くところをなんとか回収してきたんだ

 青映は目を丸くする。

 ――気に入った? こんな玄人向けの図鑑を?

 ――玄人向けなのか

 ――普通の書店じゃ出回らないよ。わざわざ取り寄せたんだ

 灯玄は図鑑に手を伸ばし、ページをいくらかめくる。並んだ絵図の繊細な線と色は灯玄も好みだと感じたが、なにせどれも見たことがない。

 ――なんと言ってたかな、水晶と蛍石レンズの屈折比較の図が好きだって

 ――なあ橙連、きみの従兄弟氏はこの研究室うちに来るべきだ。蒼賢教授うちのボスに頼んで推薦状を書いてもらおうか

 ――まだ初等科二年ななさいだぜ、あいつ

 ――ますます将来有望だな

 ――良い後輩ができそうで嬉しいよ。図鑑一冊で安いもんだ

 ――ただの飽きっぽい子供だよ、あの年齢は

 ――移り気な時期だからこそ、いろんな経験をしておくべきだ。見学だったらいつでも承るよ

 ――伝えておくよ。今回は本当に悪かった、青映

 ――ご足労どうも

 ――灯玄も、またうちに遊びに来いよ。前に食べたがってたガトーショコラ、また手に入りそうだ

 ――楽しみにしてる。またな、橙連

 ガラス棒が混ぜる液面の、渦が静かに消える。


  ◆


 忙しい足音が廊下を近づいてくる。青映の肩がびくりと跳ねた。

 ――しまった、ありゃ紫京しきよう先輩だ。悪い灯玄、うまく誤魔化してくれ

 珍しく狼狽しながら、ガラス棒を灯玄の手に押し付けた。

 ――足音でわかるくらい苦手なのかよ

 ――そのへんは敏感なんだ、昔から

 ――おまえは本当に

 灯玄のため息の余韻が消える頃、がらりと実験室の扉が開く。

 線の細い、神経質そうな人物が戸口に立っていた。銀縁の眼鏡が鋭く光る。

 ――青映を知らないか?

 ――先ほど、教授に呼ばれて出ていきました。自分は留守番を頼まれた者です。これを見張っていてくれと

 問いかけられた灯玄は、青い炎を上げるバーナーを示しながら静かに答える。

 紫京はかすかに眉間に皺を寄せる。

 ――そうか。失礼した

 短く言い残して出て行く。早足で去る足音をしばらく聴いて、灯玄は呟いた。

 ――行ったぞ

 ――助かった。いやはや

 青映が机のしたから這い出す。裾の埃をはたいて滅入ったように言う。

 ――さっぱり理由はわからないけれど、あの人に気に入られていてね。何かにつけてはああして訪ねてくるんだ

 ――好意の理由なんて大抵わからないものだろ

 灯玄はすげなく言う。

 ――ふふ、違いない。はいこれ

 青映のポケットから、甘いバタースカッチがひと粒出てくる。

 ――お礼だよ

 ――おまえは本当にこれが好きだな

 灯玄は呆れながら包装紙をくるりと剥き、口に放り込む。

 ――実験とは頭脳戦さ。糖分はいくらあっても困らないんだよ

 自分の口にはフルーツドロップをひとつ放り込んで、青映は朗らかに笑う。

 ――今日はもうひとつ実験が控えているんだ。燃料補給は速やかに行わないと

 灯玄は壁の時計を見上げた。もうあと一時間ほどはかかるだろう。

 ――どこかで待っていようか。邪魔だろう

 ――邪魔ってことはないけれど、ここにはあまり面白いものもないしな。変な客ならまた来るかもしれないね

 ――今日だけでもう半年ぶんは人に会った気がする

 ――どんな生活してるんだよ、きみは

 笑いながら青映はゴーグルをはめ直し、再び試薬の壜を手に取った。

 ――表に温室がある。ここよりもよほど温かいよ。鉱物主義ミネラリズムの助手がまだいるはずだから、色々教えてもらうと良い

 ――鉱物主義? 今どき珍しいな

 ――最近うちに来たんだ。優秀な人でね、話も面白い

 ――そうか。なら行ってみよう。入口は玄関の脇か?

 ――うん。暖房が効いているから、扉はきちんと閉めてくれよ

 ――わかった。じゃあ、あとで



 灯玄は実験室を出る。廊下を玄関まで引き返し、温室の扉を開いた。

 ――ごめんください

 声をかけると、奥から返事があった。

 ――すみません。今、手が離せなくて。こちらまで来ていただけますか

 温室には土の匂いが満ちている。植えられた植物は、いずれも灯玄の見覚えのないものばかりだった。

 雲母マイカの劈開に似た花弁を持つ薔薇。

 表面に玉髄アゲートの縞模様が走る西瓜。

 晶洞ジオードのなかに群生する白詰草。

 弾けた莢はやわらかく緑色なのに、種には明らかに鉱物質の輝きを持つマメ科らしき植物。

 それらを横目に、灯玄は温室の奥へ向かう。

 赤く染めた髪を無造作に結い、白衣をまとった人物が地面に屈んでスコップを握っていた。何かの苗を植えているらしい。細い根に土を被せてしっかりと押し固める。軍手についた土を払って立ち上がった。

 ――お待たせしました

 灯玄より少し背が低く、利発な目をした人物だった。年齢はさほど変わらないように見えた。この人物が、青映の言っていた助手らしい。

 ――三年の灯玄です。青映から温室の話を聴いて、見学に来ました。お忙しいところすみません

 ――こんにちは、灯玄さん。ぼくは朱岳しゆがくといいます。ようこそ温室ハウス

 朱岳は軍手を外し、一礼する。

 ちょうど作業が終わったところです。少しご案内しましょう、見慣れないものばかりでしょうから

 朱岳の話は確かに面白かった。

 現在は道楽としての地位を確立しつつある鉱物主義を復興させるべく、大学を出たあとは海外へ出て、籍を置いた大学院で採集と観察に明け暮れたらしい。

 ――これは、ぼくが博士論文を取った植物です

 朱岳が示したのは奇妙な植物だった。一見すると、大輪の薔薇だ。しかしその花弁は一片残らず青く、葉と茎は染めたように黒い。

 天井の瓦斯燈の光を照り返すさまに、やはりそれが鉱物だと思い知らされる。

 ――南方の、極端に酸素が薄い高山地域でしか育たない花です。少しでも持ち出せば、組織が崩れて砂になってしまうんです。このひと株は、採集に成功した最初の一例になりました

 ――では、論文もその内容で?

 ――はい。過酷な環境でしか育たない植物ですから、そもそもの生態も不明なままだったのです。一ヶ月ほどキャンプを張って、観察を続けていました

 危うく何度か死にかけました、と快活に笑う朱岳の目の、片方が硝子球に――精巧な造りの義眼に置き換わっていることに灯玄は気づいた。

 ――当時、高山地域を管理している一族の長に言われました。この山は、何も差し出さずにただ与えてくれるような場所ではない、とね。いわばぼくの目は、花と引き換えに山の神に差し上げたのです

 灯玄は現代の人間の大多数がそうであるのと同様に、特定の信仰を持たない。

 だからこそ朱岳の言葉に対して、素直に敬虔な気持ちを抱いた。自らの不幸を物語に回収させてなお、自己憐憫を抱かない姿勢に敬意を覚えた。

 同時に、片目を失っても探求をやめない心持ちがあるのかと自らに問いたくもなった。

 ――灯玄さんは、なんの研究をしていらっしゃるのですか

 ――星の言葉を聴いています。大きなパラボラを使って

 灯玄の言葉に、朱岳は嬉しそうに笑って頷いた。

 ――それは良いですね。星は宙に咲く花、石は地に宿る星です。ああ、そうだ

 少し待つように言いおいて、朱岳は小走りに温室の裏へ向かう。すぐに戻ってきた朱岳の手は、何か小さなものが大切そうに包まれていた。

 ――あなたと同じように、音を聴く草がいます。これは星ではなく、風が専門ですが

 差し出したのは、指先ほどの可憐な白い花だった。椀のような花弁はちょうど灯玄が面倒を見ているアンテナによく似ている。

 ――茎の切り口を樹脂で固めてあります。水につけてやれば、一週間ほどもつでしょう

 朱岳はその花をピンにくくりつけ、灯玄の襟元に留めた。

 ――あなたの学問が佳きものでありますように。また遊びに来てくださいね



 灯玄がラボに戻ると、青映は実験器具を解体しているところだった。

 ――おかえり。どうだった?

 灯玄は無言で襟を指す。青映は小さな白い花を目にすると、訳知り顔で頷いた。

 ――灯玄もなかなか人誑しだよな

 ――おまえに言われたくないよ

 青映は笑いながらも手を止めない。

 ――これから次の実験か?

 ――いいや、もう終わったよ。簡単な作業だったし

 灯玄は椅子に腰掛け、青映の手元を眺めていた。

 ――なあ青映

 ――うん?

 ――おまえ、学問は好きか?

 ――もちろん

 青映の応えに、まったく迷いはない。

 ――何がなんでも続けたいか?

 ――そりゃあね

 ――親御さんが反対してもか?

 青映の手が止まった。

 名前の通りの、わずかに青みがかった瞳が灯玄を見た。

 ――そうありたいと思ってるよ

 絞り出すような声だった。

 学部を卒業したら、会社を継ぐこと。

 それが入学時の条件だった。格式と伝統に満ちた強大な財閥の後継者として、青映は育てられてきた。

 裏を返せばそれ以外の価値を、つまりは青映という一個の人間が持つ光を無視されたままだったということだ。

 本当に明るくなった、と灯玄は思う。

 入学当初、優等生と呼ばれたのは青映のほうだった。自分に出会い友と出会い、学問に浸るなかで、翼の畳み皺を伸ばすように青映は問題児になっていった。

 明るく奔放で、ひたむきな、灯玄の親友になった。

 ――でもね、灯玄

 青映は目を大きく開いたまま、宣言するように言った。

 ――俺は強くなろうともしないよ。弱くなろうともしない。ただ俺のままで、世界に立ち向かっていこうと思う

 器用なようで、まるで不器用なやつ。

 それが今に至るまでの、青映に対する灯玄の印象だ。

 ――そうか

 そんな青映と、灯玄はいつまでも親友でいたいと願っている。

 灯玄は立ち上がり、空のシリンダーを取り上げた。

 ――これ、洗うのか

 ――え? ああ、うん

 ――おれがやっておく。二人で片付ければすぐ終わるだろ

 ――そう言ってあっという間に流しへ向かう。

 青映はその背中を少しのあいだ眺めて、ふと名前を呼んだ。

 ――なあ、灯玄

 ――なんだ

 振り返った灯玄は宇宙のように深く黒い目をしている。そこに星よりも確かな光があった。

 ――なんでもない

 灯玄は鼻を鳴らし水道の栓を捻った。

 水の音の向こうに、冬の日が暮れてゆく。





参考文献


宮沢賢治「春と修羅 第三集」より「一〇〇三  実験室小景」

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/47028_46742.html


宮沢賢治〔蒼冷と純黒〕

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/48200_32496.html

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