第九章 土守の裏切り

第九章 土守の裏切り(一)

 咲羅は窓ガラスを震わせるヒグラシの声で目を覚ました。

 薄暗い室内に橙色のやわらかな光が差し込んでいた。夢を見ていた気がする。故郷の夢だ。今よりも目尻の皺が少ない父と山へ出かけて……その先は思い出せなかった。昼間見た夢にしては、心地いいものだった気がした。

 壁掛け時計に向かってゆっくりと視線を動かす。次の瞬間、咲羅は飛び起きた。

 十八時前だった。少し仮眠するつもりが、六時間近くも眠りこけていた。疲れが溜まっていたのだろう。地下牢でろくに休めず、座学の授業中は終始うとうとしていた。ホダじいに「帰って休みなさい」と言われ、素直に甘えた結果がこれだ。

 咲羅はベッドから降り、窓に近づいた。暮れなずむ空は、橙から徐々に紺青へと変わりつつあった。桜色のカーテンを閉め、部屋の中央へ振り返ってから、ふとあることに気がついた。

 刀がない。

 いつも、机の定位置にあるはずの春風が見当たらなかった。

 どこで……。咲羅は昨日の自分の行動を思い返した。刀助の工房からは確かに持ち出した。学園脱走を試みた時にはなかったはずだ。その間、わたしはどこにいたんだっけ。

 また、ヒグラシの声が聞こえた。

 そうか!

 ヒグラシから木を連想した咲羅は、勢いよく自室から飛び出した。

「うおっ!」

 扉の前には夕希がいた。突然の開扉に驚いたのか、後ろにのけぞり、片足だけで立っている。背後にいた舞弥が反射的に両手を出して、倒れかけた夕希を支えていた。

 舞弥は不機嫌そうに眉を寄せたまま、幼馴染の背中を押した。その力が強かったものだから、夕希は廊下の壁に激突しそうになった。

「なにすんだよ!」

 叫ぶ夕希を無視して、舞弥が咲羅に話しかけた。

「もう体調は大丈夫ですの?」

 二人のやりとりを見慣れた咲羅は、もはや動じない。

「うん。ありがとう」

「私たちこれから食堂へ向かうのですけれど」

 咲羅は二人が部屋の前にいた理由を理解した。

「あー、ごめん。先に食べてて。ちょっと忘れ物があって」

「一緒に行きましょうか」

「大丈夫!」

 反射的に返事をしてから、咲羅は、はっと口を押さえた。また独りよがりになりかけていた。昨夜、寮に帰ってこない咲羅を心配して、舞弥と夕希は長時間探し回ってくれていたと、ホダじいから聞いた。今までのように言葉足らずではダメだ。もうわたしは一人じゃないんだから。

「あの、本当に大丈夫なの」

 咲羅は言葉を探しながら続けた。

「刀をね、忘れてきたことに気がついて、でもいつも自主練してる場所にあるはずだから、行き慣れてるところだから、だから」

「大丈夫ですわ」

 舞弥がふんわりと微笑んだ。

「ちゃんと咲羅が帰ってくるって、信じていますから」

 舞弥の言葉に、咲羅は胸の中心から温かいもの広がっていくのを感じた。

 信じるって、強い言葉だ。誰かに信じてもらえていると思ったら、その期待を裏切らないように行動しなきゃいけない。その責任感が自分を強くしてくれる気がした。


 咲羅は寮の外壁に取り付けられた非常階段を使って外に出た。誰かと遭遇することを避けるためだった。どこから漏れたのか、脱走未遂のことを知った野次馬たちが教室にやってきて、朝は大変だったのだ。

 初夏を匂わせる生ぬるい風が、咲羅の頬を撫でる。朱色のインクが染み込んだ綿のような雲が西に追いやられ、背後から夜が迫っていた。

 影深く茂る木々の葉で森は鬱蒼としていたが、咲羅は《夜眼》を使い、慣れた足取りで大きなけやきの元へ向かった。ひと気はない。だからこそ昨日の自分は、この森へ逃げ込んだのだろうと咲羅は思った。よく覚えていないけれど。

 欅はいつものようにその表面をヒロハツヤゴケに明け渡していた。苔にはノキシノブが着生している。まっすぐな葉が幾重にも伸びており、幹が草むらと化していた。

 咲羅は屈んだりしながら、欅の周りを見て回った。しかし、春風はなかった。ここではなかったのだろうか。もう一周だけ見てみようと盛り上がった根を跨いだところで、穏やかな声が聞こえてきた。

『しただよ』

『うえだよ』

 風の精霊の声だった。

「下と上?」

『ねっこのした』

『いわのうえ』

 岩というヒントから、咲羅は欅を挟んで反対側に回った。根が大岩を取り込んでいる方である。根と岩の間には真っ暗な隙間があった。

「この中?」

『そう!』

「なんでこんなところに……」

 咲羅は置いた覚えがない。闇の中で蠢く生き物の気配がした。咲羅は喉を鳴らした。手を伸ばしかけて、躊躇する。山育ちの咲羅にとって虫は慣れっこだが、手や腕にまとわりつくことを想像したら、鳥肌が立った。

 でも、取らないわけにはいかない。

 決意を固めた咲羅は、一気に腕を差し込む。パキンと何かが割れる音がした。咲羅は目を丸くしたまま、春風を掴み出した。

 鞘も柄も下緒もきれいなままで、虫だけでなく、葉っぱや泥もついていなかった。

 あの感覚は、確かに《結界》の壊れる音だった。誰かが春風を守ってくれていた?

 咲羅の疑問は、頭上から聞こえた葉擦れの音で解消された。

 欅の枝には、沙智が立っていた。濃紺の空に、真紅の目だけが浮いて見えた。

「沙智」

 咲羅が呼びかけると、沙智は軽やかに着地した。

「これ、沙智が隠してくれたの?」

 沙智は何も言わなかった。代わりに精霊たちが『そうだよ!』と元気よく答えた。

「ありがとう」

 沙智の足が動いたのが見えた。咲羅は反射的に呼び止める。「あの!」声を張り上げた衝撃で、胸の前に抱いていた春風が傾く。頭で考えるより早く、瞬間的に思いついた質問を口にしていた。

「沙智の刀って、なんて名前?」

 すぐに咲羅は後悔した。呼び止めるにしても、もっと他の話題があったように思う。こんな質問ではワンラリーで会話が終わってしまう。いや、そもそも全員が武器に名前をつけているとは限らないし、ワンラリーすらないかもしれない。顔に熱が集まっていくのを感じた。

朱雨あかさめ

 予想通り、沙智は一言だけ返してきた。しかし去ることはなく、欅を背にして地面に腰を下ろす。それから、ついと咲羅を見上げた。

 座れ、と言われている気がして、咲羅はそっと横で体操座りをした。

 二人して、木立の続く森の先を見つめた。

 咲羅は大桜の下で沙智と会った時のことを思い出していた。初めて自分以外の異色を目にした衝撃は、どれほど月日が経っても忘れられなかった。あの日から、全てが変わったのだ。

 虫の羽音が暗闇に響く。

「あ」

 思わず出た声に、沙智の視線を感じた。

「いや、さっき見た夢のことを急に思い出してね。お父さんとあの大桜のところに向かってたの。まだ私は小学校に上がったか上がらないかくらいで、手を繋いでもらいながら。でも夏だったから、山の奥に進むほど、頭が痛くなるくらい蝉の声が大きくなってきて、お父さんの手を振り払って、耳を塞いで『蝉の声がうるさい!』って叫んでて」

 沙智は黙って聞いてくれていた。相変わらず表情は変わらないが、真紅の目を見る限り、無関心ではなさそうだった。

 咲羅は続けた。

「そしたら、お父さんが『咲羅くらいの年でも、やっぱり声って言うんだなあ』って笑ってて。虫の音をと認識しているのは、日本人だけなんだって。外国の人はただのだと思ってる。使っている脳の部分が違うから、外国の人に『虫の声がしますね』って言っても伝わらないんだって」

 話しながら、咲羅は懐かしさに目を細めた。研究者気質の父は、その後「何歳からだろう」とか「人種によるのか、環境によるものか」とかぶつぶつ呟きながら、咲羅の存在をしばらく失念していた。自分の世界に入り込んでしまった父を置いて、咲羅は母が待つ家に一人で戻った。母の驚いた顔と、慌てて帰ってきた父が怒られた時の情けない顔を思い出しては微笑ましくなり、早く二人の顔が見たくなった。

「今思うと……これって風人と外人げじんの違いに似てるのかも。ほんの少し意識の向ける先が違うだけで、私たちには精霊の声が聞こえて、外人には聞こえないのかな」

 息を吸う音が聞こえた。沙智の口が開く。

「風人と外人は根本的に違う」

 咲羅の胸の奥に鈍痛が走った。でも、早とちりだった。

「そう考えるやつは多いが、俺は思わない」

「ほんと?」

「あんたが言うように、わずかな違いがあるだけだ」

 咲羅は口元が緩むのを、唇に力を入れることで抑えた。両親を肯定してもらえたみたいで嬉しかった。任務で外界に出ることが多いであろう沙智の言葉には信憑性があった。

『そうだよ』

 欅の方から精霊の声がした。

『ふうじん、すき。おはなししてくれるから』

『だから、ちからをかすよ』

『でも、ふうじんとにんげんに、うえしたはないよ』

 精霊たちは『うえ』『した』『なし』と繰り返している。楽しくなってきたのか、だんだんとメロディーが付き、歌のようになってきた。いつだって彼らは陽気だ。

 沙智が立ち上がる。眉間に皺が寄っていた。騒がしい雰囲気が苦手なのかもしれなかった。

 咲羅も立ちあがろうとすると、肘のあたりを引っ張られた。一瞬、重力がなくなった気がした。

 沙智の手が肘から手首に向かって降りてくる。手のひらに、小さくて、冷たい何かが乗せられた。

 銀色に光る細長いものの正体は、犬笛だった。

「これは?」

「何かあったら吹け」

「吹いたらどうなるの?」

「すぐに行く。だから、脱走なんてするな」

 そう言って沙智は、星の瞬く空へと消えてしまった。

 一人森に取り残された咲羅は、また顔が熱くなっていくのを感じた。人の輪に入らない沙智にまで脱走のことが伝わっているなんて、もう学園中の人が脱走未遂のことを知っているのではないか。そう考えたら、恥ずかしくてたまらなかった。

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