第一章 藍色の目を持つ少女(二)

 翌日の朝方、山肌を這うように霧が立ち込めていた。

 家を出た咲羅は松林の斜面を登っていく。目を閉じても進めそうなほど、慣れ親しんだ道だ。足元では枯れ葉と残雪が混じり合い、一歩踏み出すたびに、じくじくと水分を出した。

 両親から「拾われた子」だと聞かされたのは三歳の時だった。あの日、実幸は優しく咲羅の頭を撫でながら話してくれた。でも、物心がついたころから、なんとなく自分でも気づいていたと思う。だって、色が違ったから。他の子と、両親と、全部違う色だったから。

 咲羅を見つけたのは、山の中にそびえ立つ大桜の根元だったという。家から歩いて数分の距離だが、山の斜面に隠れた秘密の場所。小学生になり、一人で留守番することが増えた咲羅は、毎日この大桜のもとに通うようになった。

 人目につかない山の中。咲羅はありのままの姿で、になんでも話した。

 斜面を登り切ると、少しだけ平坦な道が続き、今度はなだらかな下り坂が現れる。大桜はこの坂を下った窪地にあった。

 積雪の中に聳える大桜。何本もの幹があわさってできた根本は黒々として粗く、ところどころ苔に覆われている。添え木はなく、地面を這うように横に伸びた枝もあった。

 枝先の蕾はほぐれ、その先端が淡い緑色に染まっている。春のきざしに咲羅は微笑み、大桜に駆け寄った。

 太い幹に抱きつく。樹皮は固いが、温かい。肌を刺すような冷たい空気がやわらぐような気がして、ほっと息を吐いた。

 そこへ、子どものような高い声が聞こえてきた。

『おはよう、さくら』

『さくら、おはよう』

「おはよう、みんな」

 咲羅があいさつを返すと、ケラケラと楽しそうな笑い声が響き、やわらかい風が吹き抜ける。声の正体は、大桜に宿る精霊たちだった。

『きょうは、なにする』

『きょうは、どうする』

「今日ものんびりしたいな」

『さくら、あそぼう』

『いっしょに、あそぼう』

 精霊たちは簡単な言葉しか喋らないけれど、人間の言葉を理解することはできる。咲羅が人知れず大桜へ通い続ける理由は、彼らだった。《黒》に混じって暮らす咲羅にとって、自分の本心を打ち明けられるのは、この大桜のそばにいる時だけだった。

 幹から離れた咲羅は、大桜の根本にある、枯れた松の葉を重ねて作った敷物の上に腰を下ろした。ふわりとやわらかい。朝露で湿ってはいるが、積雪の上に座るよりは濡れずに済む。背を大桜の幹に預け、咲羅は昨日の出来事を語った。

『みゆき、きびしい』

『さくら、がんばったのに』

 精霊たちは実体を持たないが、その声音からは、眉を下げ、唇を尖らせるような様子が想像できる。マスコットによくある、かわいらしい顔が頭に浮かび、思わず笑みがこぼれた。

「ふふっ、ありがとう」

『でも、だいじょうぶだよ』

『しゅうすけ、みゆき、はなれても』

『さくら、なかまがいるから』

「仲間?」

 聞き返すのとほぼ同時に、背後で雪を踏む音が聞こえた。咲羅は飛び跳ねるように立ち上がって、体を反転させる。積雪に突いた手のひらが冷たい。

 太い幹の向こうから最初に見えたのは、誰かが吐いた白い息。次に、黒い足袋と雪駄。黒い馬乗袴と濃紺の着物。腰に日本刀を差した、まるで時代劇から抜け出してきたかのような男――。

 知らない人だった。

 咲羅より少し年上だろうか。同じ年頃の村人は全員顔見知りだけれど、こんなに背の高い人はいない。こんなに着物をうまく着こなす人もいない。こんなに端正な顔つきをしている人も、誰一人としていなかった。

 男は、じっとこちらを見つめていた。目をわずかに見開いたまま固まっている。

 なんだろう、と思ったが、すぐに思い当たった。今、咲羅は《黒》を身につけていない。油断した。冬の間に、ここへ人が来ることなんてないから。

 男から視線を外し、コートのフードを被る。あのような表情をしていた以上、すでに見られている。意味のないことかもしれないが、咲羅はこうする以外思いつかなかった。

 落ち着いてきていたはずの心音が大きくなるのを感じた。

 また、雪を踏み締める音が聞こえてくる。

 男が近づいてきている。

 どうしよう。

 咲羅はフードを握った両手に力を込めた。

 村以外の、例えば中学校がある隣町に行けば、咲羅と同じくらい明るい茶色に髪を染めている人はいたし、テレビを見れば、咲羅と同じように黒以外の目を持った人が映っていた。閉鎖的な村の外では少数派ではあるけれど、そこまで恐れる必要はないと思っていた。

 しかし、目の前の男は驚いていた。咲羅を見て、咲羅の色を見て。それが、幼いころから向けられてきた視線を思い起こさせた。驚いた後、自分たちと違うものに警戒して、眉根を寄せる。それがもしあったらと思うと怖くて早々に視線を落としたから、男の表情はわからなかった。

 男の足が視界に入った。

 そろりと顔を上げると、朝日を浴びて光る、男の黒々とした目と視線が絡んだ。驚いて、顔を伏せる。冷たい汗が背中を伝う。この人はいつからここにいたのだろう。精霊との会話も聞かれてしまっただろうか。

「あんた、名前は?」

 低く落ち着いた声だった。

「え?」

「名前」

 男の左手が刀にかかる。恐怖に身を震わせながら、咲羅は必死に言葉を紡いだ。

「さ、冴田咲羅です」

 短く息を吸う音が聞こえた。武士の呼吸? 咄嗟に咲羅は頭を抱えた。逃げられれば一番いいのだけれど、足がすくんで動かなかった。固く目を瞑る。

 その瞬間、強烈な光がまぶたを突き抜けた。

 なに?

 そっと薄目になると、茶色いもやのようなものが周囲に漂っている。よく見ると、もやは男の体から発されていた。

 そのもやは、しばらくすると山の空気に溶けてしまった。不思議な出来事に遭遇し、咲羅は恐怖心が薄れていくのを感じていた。もう手足も震えていない。

 ゆっくりと顔をあげてみる。それから、藍の目をこれでもかと大きく見開いた。

 目の前には、焦茶の髪と真紅の目を持つ男が立っていた。

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