第一章 藍色の目を持つ少女
第一章 藍色の目を持つ少女(一)
重たい布団を両足で蹴り上げ、ベッドの上で半回転。小振りな足を毛足の長いカーペットに下ろす。廊下へ飛び出ると、思わず身震いをするような冷気が咲羅を襲った。
「
静まり返った家に、来客の声が響く。
咲羅は手ぐしで髪をときながら、玄関へ走った。
「はーい」
わずかにかすれた声で応えながら、下駄箱に手をつき、つっかけに足を滑り込ませる。印鑑を取ろうとして、はたと動きを止めた。
下駄箱の上の壁には、楕円形の鏡が取り付けられている。その中に、未だ小学生に間違われることもある自分の顔があった。栗色の髪は肩で跳ね、藍色の目は眠たげに垂れている。
しまった……。
咲羅は息を詰まらせた。
「冴田さーん?」
磨りガラスの向こう側には、ダンボールらしきものを抱えている来客の影が見えていた。あちらからも、こちらが見えているだろう。居留守はもう使えない。
「あ、あの」
震える声が漏れた。
「荷物、そこに置いておいてもらえますか?」
「え?」
「そこに、置いておいてください。後で取るので」
「でも、冷蔵品なんですが」
「すぐ取りますから!」
咲羅が必死に叫ぶと、来客はしぶしぶ了承した。
車の走り去る音を聞いてから、咲羅はそっと玄関の戸を引いた。警戒する野良猫のように、目を細かく左右に動かす。周囲には誰もいない。それでも咲羅は、なるべく身を隠すようにして、段ボールを家の中に引っ張った。
中身は、咲羅の育ての母である
実幸に連絡しようと自室へ戻ると、ちょうどスマホが鳴った。みると、実幸からメッセージが届いていた。「お弁当を忘れたから持ってきてくれ」という。
キッチンの流し台には、手提げバッグが残されていた。中には、両親二人分のお弁当箱が重なって入っている。
了解のスタンプを実幸に送ってから、咲羅は洗面所へ向かった。
顔を洗い、歯を磨き、コンタクトをつける。二、三度瞬きをしてから鏡を見ると、両親と同じ、ありふれた黒い目に変わっていた。黒色のウィッグも被れば、どこにでもいる女の子だ。偽物の黒は、咲羅の鎧だった。小学五年生でつけはじめたその日から、両親以外の前で外したことは一度もない。
武装をした咲羅は、堂々とした足取りで家を出た。
五分ほどアスファルトの斜面を下ると、土地が開けた。積雪に反射した光に、咲羅は目を細める。掠れた視界の中で、五田村の見慣れた景色が広がっていた。
五田村は人口三百人ほどの小さな村だ。東の松ヶ岳から流れる星川が村を南北に分けている。北部一帯のほとんどは田畑で、星川沿いにいくらかの家屋が並んでいるが、山手には咲羅の生家がぽつんとあるだけだ。一方の南部は村の中心地で、村役場や小学校、村唯一の商店、郵便局などが集まり、両親が働く診療所もそこにあった。
車一台がようやく通れる幅の道路を南下する。昼時のためか、村人は外にいない。誰ともすれ違わぬまま星川を渡り、咲羅は診療所の前にたどり着いた。緑色の三角屋根と黄ばんだ白壁が特徴的な昭和の建物だった。
二重の自動扉をくぐると、消毒液の香りが鼻をついた。受付カウンターの向こうにはタエが座っていた。奇数日に受付を担当しているおばあちゃんだ。
「こんにちは」
「あら、咲羅ちゃん。どうしたの?」
「これ」
弁当箱が入った手提げ袋を掲げた。
「ああ」
タエはゆっくりと頷く。実幸がお弁当を忘れるのは、今日が初めてではない。
「あと一人よ」
タエの視線を追って、咲羅は診察室の扉に目を向けた。今日は患者が多かったらしい。
咲羅は待合室のソファに腰を下ろした。ビニール張りの座面が冷たい。腰や膝の悪い患者さんたちは「ちょうど良い硬さなのよ」と言うけれど、もう少し柔らかくてもいいと思う。
ぼんやりとテレビを見ていると、診察室の扉がスライドした。出てきたのは、少し腰の曲がったおばあさん。村唯一の商店を営むトキだ。トキは丁寧に扉を閉めると、八十を過ぎた年齢を感じさせないしっかりとした足取りで歩き、咲羅の斜め前のソファに腰を下ろした。
目が合い、咲羅は軽く頭を下げる。しかし、トキは無反応だった。こういう人がたまにいる。咲羅の異質さを嫌う人が。
「前田さん、お待たせしましたー」
奥から出てきたのは薬剤師の堀田だった。薬を受け取ったトキは、お礼を告げながら去っていく。自動ドアが完全に閉まってから、堀田が口を開いた。
「咲羅ちゃん、久しぶりだね」
「お久しぶりです」
「受験はどうだった? うまくいった?」
「結果は明後日にならないと分からないけど、一応手応えはあります」
「お、よかったじゃん。安心ですね」
最後の言葉は、診察室から出てきた両親に向けたものだった。
看護服に身を包んだ実幸が、腕を組んで言った。
「どうかしら。この子ったら、受験が終わってからずっとグータラしてるのよ」
実幸の苦言に咲羅は唇を尖らせる。
「だって、ここ数ヶ月、勉強漬けだったんだもん」
「高校生になったら一気に勉強が難しくなるのよ。看護師になるって言ったのはあなたでしょう? ちゃんと準備しておかないと」
実幸の正論に、咲羅は口を噤んだ。胸の中で渦巻く感情が喉まで突き上げたが、全部飲み込んだ。
視線を逸らした咲羅を庇ったのは、育ての父である
「まあまあ、実幸さん。たった数日のことじゃないか」
「でも、このまま怠け癖がついたら」
「そうはならないよ。咲羅だもの。ね?」
周助が丸メガネの奥で目を細めた。
父の優しい言葉に一瞬表情を緩めた咲羅だったが、素直に答えることはできなかった。
「お弁当」
視線を床に落としたまま、手提げ袋を差し出すと、出口に向かって体を反転させる。
「咲羅の分は――」
「冷蔵庫でしょ。分かってる!」
実幸の声にわざと自分の声を被せ、咲羅は逃げるように診療所を後にした。
外に出ると、肌に触れる小雨の冷たさに、思わず身震いした。雨は嫌いではないが、今は青空が見たかったのに。咲羅は下唇を噛み、走り出した。
絶対に看護師になりたいわけじゃない。ただ、大人になってからも両親のそばにいたいだけ。縁を切りたくないだけ。大切にしたいのに、意地っ張りな態度になってしまう自分が嫌だった。
家に戻り、咲羅は冷蔵庫を開ける。冷気が肌に触れた瞬間、海産物について伝え忘れたことに気がついた。
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