第一章 藍色の目を持つ少女(三)
さきほどの茶色いもやは、何だったのだろう。
そして、目の前の男の、この色は?
夜を呼びよせる空の色とも違う。秋に天地を埋め尽くす紅葉の色とも違う。どこか懐かしい、深く昏い紅色が、雪の反射による光を得て、苛烈に燃えている。
近寄りがたい畏れを抱きながらも、咲羅はその真紅の目に向かって腕を伸ばした。しかし、男の顔にたどり着く前に、大きな手に掴まれる。
軽い痛みで我に返った咲羅は、慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい!」
初対面の人の顔を触ろうとするなんて。あまりにも非常識な行為に自分で驚く。恥ずかしさのあまり、体が熱を持ちはじめた。
少しして顔を上げたが、男の無表情から感情を読み取ることはできなかった。ただ、その真紅の目を見つめているうちに、この印象的な色こそが彼の本来の姿なのだと、咲羅は直感した。
「あの、さっきの茶色いものはなんですか。それにあなたの目――」
言葉尻は、男に腕を引っ張られた勢いで消えた。
男は大桜を背にして立て膝をした。腕を掴まれていた咲羅もまた、自然と男の横に座り込むかたちになった。そこでようやく手を離されたが、男はなんとも気難しそうな顔で前方を向いたまま言葉を発することはなかった。
気まずさに喉を鳴らした咲羅は話題を変えることにした。今まで心を占めていた恐怖心は、すっかり好奇心に変わっている。
「えっと、改めて、冴田咲羅です。あなたは?」
先ほどの言葉には無反応だった男が、ようやく咲羅の方を向いた。
「十五だ」
「え?」
「俺の年齢」
「え⁉︎」
一回目は疑問の「え」、二回目は驚愕の「え」だった。
「お、同い年⁉︎ 本当に⁉︎ だって、そんなに大きいのに!」
「そういうあんたは小さい」
男の返答に、咲羅はぐうの音も出ない。男の背丈は百八十を超えているように見える。それに対して、咲羅は百五十弱。これほど身長差があれば、誰も二人を同い年だとは思わないだろう。
「と、年は置いといて、名前は?」
「……
「しゃち? どういう漢字を書くの? あ、わたしはね――」
手頃な木の枝がないか探していると、頭上から細い枝が降ってきた。男が来てから黙っていた精霊たちのしわざだろう。大桜に向かって口パクで「ありがとう」と伝えた。
雪をかき分け、土の上に「咲羅」と書いた。
「こう書くの」
地面に描かれた文字を見つめるうちに、咲羅は両親から聞かされた話を思い出した。
両親が見つけた時、咲羅は木の籠に入れられていたという。その籠の中には一枚の紙切れがあって、そこに「咲羅」と記されていた。実の両親は、名前を付けるくらいの愛情はあったのだろうか。なぜ、咲羅をこの大桜の下に置いていったのだろう。
木の枝を沙智に取られたことで、咲羅は意識を現在に戻す。沙智は黙ったまま、咲羅の名前の下に「沙智」と書いた。
「へえ、素敵だね!」
沙智の表情は動かない。ただ、目に怒りの色はないし、眉も吊り上がっていない。この寡黙さが彼の気質なのだろうと咲羅は思った。
沈黙が続く。精霊たちの軽やかな声が恋しい。そういえば――。咲羅は彼らの言葉を思い出した。「仲間」がいると言っていた。咲羅は前を向く沙智の顔を盗み見る。異色を持つ者同士、という意味だろうか。
咲羅は膝を抱えた。
「霧立くんの色って、どうなってるの?」
「沙智でいい」
「……沙智くんは」
「沙智」
沙智は眉を寄せ、短く言い切った。男子の下の名前を呼び捨てにしたことがない咲羅は戸惑ったが、結局彼の言う通りにした。
「沙智、は、さっき黒髪と黒目だったじゃない。あれってどうやってたの? ウィッグとか取ったわけじゃなさそうだし。今が沙智の本当の色なんだよね?」
沙智は答える代わりに、咲羅を見た。
「わたし、ずっと黒いウィッグとコンタクト着けてるの。沙智みたいに、黒じゃない色を持った人には初めて会った。本当に、ずっと着けてるの。買い物の時も、学校の時も、修学旅行の時だって……。わたしにもそれ、できる?」
なぜここまで話しているのか、自分でも分からなかった。自分と同じ異色を持った沙智に、ひどく安心したのかもしれない。
沙智が息を吸ったのがわかった。咲羅は回答を期待して顔を上げる。しかし、聞こえてきたのは、沙智ではなく精霊たちの声だった。
『さくら! むらが、きけん!』
『まものが、きてる!』
咲羅は咄嗟に立ち上がった。が、沙智の方が早かった。
「精霊の声が聞こえてるの⁉︎」
目が合った。沙智は何も答えないまま、緑色のもやを発すると、積雪を蹴った。
次の瞬間、咲羅の目を疑うような光景が広がる。沙智の体が、まるで重力など存在しないかのように、宙に浮かび上がったのだ。風に乗るでもなく、跳躍でもない。ただ、すっと空へ溶け込んだ。
「まって!」
追いかけようとした咲羅だったが、沙智はあっという間に木々の向こうへ消えていく。
鳥の群れが、村の方から山へと逃げてくるのが見えた。
「危険ってどういうこと⁉︎」
大桜に縋りついた瞬間、村がある盆地側から強風が吹く。谷風だ。麓から山頂に向かって風が吹きあがることはめずらしくない。しかしそれは、日差しによって地面が温められてからだ。こんなに朝早く吹くことはめったにない。
いつにないことに咲羅は身構えた。他にも何か起こるのではないか。不安に怯える咲羅の耳に、巨大な風船が弾けたような破裂音が突き刺さった。痛みを覚え、両手で耳を押さえた。耳鳴りがした。
また、強風が麓から吹きあがる。重機で木材が折られるような音が山に轟く。瓦のような硬いものが割れる音。人々の悲鳴。ダム放流時のような耳に突き刺さるサイレン。すべて風に乗ってやってくる。黒煙や白煙が、村の方から上がりだした。
背筋がぞわぞわとした。冷や汗が吹き出し、額から頬に伝う。
咲羅は走りだした。
松林の中を全速力で駆け抜ける。手で払いのけた枝葉が、顔や首筋を掠める。
鼓動が速まり、胸も腹も痛む。不安が体内で渦巻く。
家の引き戸を荒々しく開ける。靴を蹴るように脱いだ。
「お父さん、お母さん!」
家の中に両親の姿はなかった。ダイニングテーブルには、咲羅の分の朝食がラップをして置かれていた。もう職場へ行ってしまったのだ。
咲羅は一瞬立ち止まり、乱れた呼吸を整えると、再び走り出した。
麓に近づくにつれ、人々の悲鳴と焦げた匂いが強まった。
山を抜け、村を見渡せる場所へ出て――。
絶句した。
村の中心部が、火の海にのまれ黒煙をあげている。多くの建物があかく、あかく染まっている。普通の火事にしては、あまりにも火の回りが早いように思えた。
壊れゆく現実に、普段の穏やかな村の光景が重なる。
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