天下無双の舞
井澤文明
第1話
あの夢を見たのは、これで10回目だった。
私は布団の中にいた。静かな夜。枕元のデジタル時計の液晶は午後11時50分を示していた。カーテンの隙間から月光が差し込み、ぼんやりとした光が部屋を照らしている。しかし、どこかが違う。家にないはずの針時計の進む音が、どこからか微かに聞こえる。
私は布団をめくり、ゆっくりと立ち上がった。窓の外を覗くと、見慣れたはずの風景に妙な違和感を覚える。遠くに、ありもしないはずの時計台がそびえ立っていた。針がゆっくりと動いている。私はなぜか知っていた。それが動き出したら終わりなのだと。
「お目覚めですか?」
振り返ると、そこには雛人形があった。だが、並べられた人形たちは明らかに違っていた。人形たちの顔は、よく目にするような端正な顔立ちではなく、街中ですれ違うような、どこにでもいるような『普通の人間』の顔をしていた。
雛祭りの夜、決して片付けることのできなかった人形。憧れを抱いた家で姿を消した住人。森に潜む影を追った者。そして、時計台の夢を見た人々。
いつだったか、現実で私が書いた、奇妙な失踪事件の都市伝説をまとめた記事たち。
私はすべてを理解した。
「ここは、今まで消えた者たちの場所なんだ。」
彼らは微笑んでいた。その顔は穏やかで、しかし同時に恐ろしいほどの静けさを湛えている。
「お迎えの時間です」
その言葉と同時に、私の耳に音楽が流れ込んできた。静かな三味線の音、かすかに響く鈴の音。人形たちはゆっくりと動き始める。布団の上で、私の足元で、部屋の隅で、異形の者たちが踊っていた。これは儀式なのだ。彼らは舞を見せるかのように、優雅で、しかし決して逃れられないダンスを踊っていた。
「天下無双の宴へようこそ」
その言葉とともに、部屋の壁が消えた。私は大広間に立っていた。天井は見えないほど高く、無数の提灯が宙に浮かび、怪しく揺れている。床一面には無数の影がうごめき、彼らは一糸乱れぬ舞を披露していた。彼らの足さばきは完璧で、動きには一切の迷いがない。それはまるで、長い年月をかけて鍛え抜かれた者たちの舞だった。
「これが、天下無双の舞……?」
私は呆然と見つめた。その踊りに引き込まれそうになる。だが、彼らの目を見た瞬間、背筋が凍った。どの顔も、まるで感情がないかのように無表情だった。いや、違う。そこにあるのは圧倒的な狂気だった。
「さあ、あなたも」
誰かの手が私を引いた。私の足が勝手に動き出す。体が軽くなる。布団のぬくもりも、懐かしい家の香りも、すべて遠ざかっていく。私は彼らと同じリズムで踊り始めた。体の奥深くから湧き上がる奇妙な歓喜。これが、天下無双の舞……。
ふと、私は気づいた。鏡がない。いや、それだけではない。今、この場にいる私の姿がどこにも映っていないのだ。
「あなたもこちら側へ」
その言葉が響いた瞬間、私は時計台の前に立っていた。目の前には、止まったままだったはずの時計が静かに動き始める。もう、戻ることはできない。
「さあ、踊りましょう」
誰かの声がした。私はそれに従うように、ゆっくりと足を踏み出した。時計の針が12時を指すと同時に、私はすべてを手放した。
夢の外へ。
天下無双の舞 井澤文明 @neko_ramen
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