第16話

 過去からの亡霊がもたらしたふたつの情報は、エヴァにとってそう驚くものでもなかった。Dであれば人ひとりの実在証明を削除することは可能だし、軍部に内密の指示を出してある武器を意図的に特定の民間人の手に届くように操作することもできる。

 あの当時からエヴァは、Dが爆破未遂と銃殺未遂という自分に向けられたふたつのテロを、あえて大々的に政権プロパガンダに使ったのだろうとは察していた。それは、とてもDらしいやり方だった。


 倫理観を欠いたつめたさや非情な利己的さは、Dそのものだから驚きはしない。

 それなのに、どうしてエヴァがこうも亡霊の言葉に打ちのめされているのか。


 Dが愛した『ニーナ』は本当にいたのかと、亡霊は真剣に訊ねた。その問いかけでエヴァは、ニーナが亡くなってから四十二年間、自分が誤解していたことに気がついたのだ。

 Dはニーナの裏切りに怒ったのではない。

 あの人の性格はよくわかっていたはずなのに、どうして思い至らなかったのだろう。

 あの人は感情が凍てている。

 Dは怒らなかったのだ。ただの一度も。


 義眼の右眼の奥に眩暈を覚えながら、エヴァはタブレットに「すべては逆だ」と打ち込んだ。


――Dはまず、ニーナと出会った。そして彼女を自分ひとりのものにするために彼女を殺そうと考えた。ふたつのテロ計画やそれを使ったD政権のためのプロパガンダ工作は、ニーナを合法的に殺したいという欲求から生まれた副産物にすぎない。


 Dはただひとりニーナを得るために、無辜の二十一人を道連れにしたのだ。いや、ニーナの母も含めれば二十二人か。

 ニーナの母親の自殺、恋人の報復。

 ニーナの母親は本当に自殺したのだろうか。Dへの嘆願書は書いただろう。だが、彼女の死因は? たしか青酸化合物をあおったのではなかったか。


 それは、飲んだのか、飲まされたのか。


――踊らされたのは反体制派グループと、そして公安部だ。Dは公安部が発見するよりも先に、ニーナの母親の死を知っていたはずだ。


 そこには確実に、Dの思惑が動いているだろう。


 エヴァは目を閉じ、苦しさをこらえて息を吐いた。四十二年前に身を焼いた嫉妬が、温度を変えてふたたび老いた身体を炙りつけてくるのを感じる。底冷えのような熱が足の先からエヴァを焼き、呪詛に似た炎が喉元を焼く。


 ニーナは陽だまりのような少女だった。可憐に咲くピンポンマム。人を癒し、暗い記憶に強張った心を解いてしまう。

 知り合った瞬間にDは彼女に惹かれ、そして同時にDは彼女と自分が花と塩のように、けして混じり合わない遠い存在であることも見て取った。


 彼女の崇拝はDの求める愛ではない。彼女には将来を誓った恋人がいて、女であるDを恋人のように愛するなどとは考えたこともない。

 それに、彼女が愛したのはマダム・プレジデントとしてのDだ。強くて優しく、気高いこの国の覇者。だが、覇者になるために有形無形の戦いに勝ち抜き、屍を屠ってでも敵を征圧してきたということを、純粋な彼女は思い至らない。

 そういう他愛ない彼女だから、Dはらしくもなく恋をして、彼女のそういう純情がDを凍らせた。

 眼帯の下に隠した自分の本性を知れば、彼女は怯えてしまうだろう。

 だからDは、ふたつのテロを彼らに計画させたのだ。合法的にニーナを処刑し、身分登録を抹消することで、彼女を手に入れるために。

 Dは感情を信じていなかった。だけどこの世で一枚しかなく、そして法的に保証された効力を持つ身分登録書の原本には、Dも実感として理解できる『価値』がある。


 まずはニーナがいた。そして彼女から、一九七三年の一連の事件は考えつかれたのだ。


 作家が言った、自らの策略のためにDがニーナを使ったというのは違う。だって、ニーナはDがはじめて自分の命よりも重みを感じた存在だったから。この国よりも大切だったニーナを、あのDがあえて嫌いな連中に近づけるとは思えない。


 事件を起こした反体制派グループはおそらくDがニーナを知るまではDにとって少々目障りなだけで、そう問題にならない存在だったのだろう。真の脅威であればそれ以前に消されている。まさか自分たちが打倒を誓う巨悪に操られていたなんて、もう骨も朽ちたような今でも彼らは知らずにいるかもしれない。

 きっと、知らないままのほうが幸せだ。


 手練れの工作員でも紛れこませたのだろうが、邪魔な反体制派グループをうまく誘導してテロをDの計画どおりに計画させ、未遂状況までお膳立てしてからなにも知らない公安部に摘発させる。ニーナの母を殺させ、自殺として処理させる。恋人の仇を憎むヤンにさりげなく武器を流して、どうせ当てられないだろうから自分に向けて実弾を引かせる。

 ニーナの容疑が完全な冤罪だったことは隠避され、ヤンがグループとはまったく無関係なニーナの恋人だったことも伏せられた。ヤンは爆弾テログループの残党として周知され、あっけなく処刑された。こうしてDは凶悪な反体制派の存在を印象づけることで、国内感情の統一を図ることに成功した。


 まともな人間ならこんなことは考えつかない。Dでなければ、こんな計画は達成できない。


 ニーナを殺して彼女の存在を自分の手に握るという目的のために、Dは大規模なテロ未遂事件を起こさせ、ニーナとは無関係な人々をも巻き添えに殺したのだ。


 あなたは――

 あの人はいつでも、心の中によく研いだつめたい刃をひそめているような人だった。優しさや情愛など欠片もない。彼女はさも明るく振る舞いながら、ぞっとするほど冷血な策略を脳裏に巡らせている。


――彼女は、後悔などしなかった。ニーナのことは、すべて彼女の思うとおりになった。


 むしろ祝杯でもあげたい気分だったかもしれない。理解できないと愛をせせら笑うDは、愛するニーナの代わりに彼女が生きていた証明書と、そして彼女の腕を手に入れた。


 私のときと、まるで反対ではないか。


 軍事戦略のついでに家族を殺され、声と片目を失った。以来三十六年を、D周辺の代替え可能な部品のひとつとして生き続けた。


 飼い殺しにするぐらいなら、どうして独立戦争のあの夜に私を殺してくれなかった。


 慟哭のように胸からせり上がってくる叫びを、エヴァは喉の痛みとともに飲み下した。煮え立つ油を飲み干すような苦行だった。まだ喉元にはマグマのような塊が残り、しつこくエヴァを焼いている。


 Dの死後に消えたニーナの身分登録書の原本は、おそらくDの棺の中だったのだろう。


 拷問の末に殺されたニーナの遺体には腕がなかった。ほっそりした上腕から手首と、意外なほどに大きく節の張った手指。真珠のように白かったあの腕はどこにいったのか。

 Dはあの腕も、執務室のどこかに隠していたのではないか。そしてニーナの腕はDと棺に入り、放火された霊廟からDとともに消え去った。

 Dの葬儀を取り仕切ったのはルゼだった。Dがひとこと、私が死んだら棺にこれを入れてくれと言えば、彼は露ほどの躊躇いもなく指示に従っただろう。たとえその箱の中になにがあろうとも。


 エヴァが震える指で打つ文字を、作家は食い入るように見つめていた。その若い瞳には、爛々たる興奮が浮かんでいる。


――Dが消したということは、その人はいたのだ。


 ニーナはDに殺された。ニーナはDにとって、かけがえのない存在だったから。

 人によってはその感情を、愛と名付けるのかもしれない。だけどDはこれが愛だとはわかっても、その愛しい人をどうやって愛せばいいのかがわからなかった。

 だから、自分だけのものにした。そのためにDはニーナを殺したのだ。

 そのDも死んだ。

 一九七三年のテロ未遂事件の当事者はすべて抹殺され、当時のこの国の政府内部をリアルタイムで知る人間はもういない。

 ルゼも死んだ。逃げようと思えば逃げられた。亡命のチャンスもあったのに、彼は主に殉じて絞首台に上がった。


 私だけが、ただ生きている。かつての栄光はすっかり朽ち果て、夢の亡骸を晒すこの国で。


 あなたは、ほとんどすべてを壊してしまったのね。一度は誰にも素晴らしい夢を見せ、そして無惨に叩き潰した。壊すために、叩いた。


 胸を強く圧迫されるような息苦しさに、エヴァは力なく俯いた。痛む瞳にまぶたを伏せる。

 疼痛は次第にずきずきとした痛みに変わっていった。燃えるように右の眼窩が疼き、擦り切れるように痛む。

 こらえきれず背を丸めたエヴァに、慌てて作家が背中をさすった。

 彼が席を立っていたことも気がつかなかった。心配そうにかかる声まで遠く聞こえる。

 顔を上げても、作家の姿は泡のようにぼやけていた。

 目が、熱い。

 強く瞬きをしたエヴァの頬に、あるDの後悔が流れない涙を連れて零れ落ちた。

 膝に転がった義眼に慌てて手を伸ばす。とっさに受け止めようとした作家よりも、八十六歳のエヴァの痩せた手がひといき早くそれを拾った。


――私はあなたの右目になる。だからあなたは、私の左目になってください。


 あの人が低く囁いていた。せせら笑うようなDの声を、震える手で握り締める。


 私はあなたに殺されたかった。それ以上にあなたを殺したかった。


 手のなかで青い瞳が輝いている。身体の一部としているうちに、黒く染まった青い瞳。

 見つめ返してくるその瞳にエヴァは、消えぬ殺意を抱き続けながら、どうしても殺せなかったDの面影を見ようとした。

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