第15話

 作家はほっと息をついた。エヴァの回想から、自説を補完する情報を得たのかもしれない。


「ニーナ・ギオルギの身分登録が存在しないことはご存じですか」


 聞き取れない言語で話されたように、言葉の意味が頭に入ってこなかった。


「ニーナの身分登録……出生年月日や親族関係、居住地を証明する一切の公的記録は、存在しないんです。つまり彼女の実在に、公的な証明ができなくなっている」


――だけど、ニーナはいた。彼女の十九歳の誕生日はDも私も祝った。


「はい、彼女の記録はどうやら、最初から存在しなかったわけではないんです。マダムDが身分登録抹消指令を出している。それも、彼女の逮捕日に。なぜ彼女はニーナの実在証明を消し去ったのでしょうか」


 それはDが、彼女の存在を消してしまいたいと思うくらいニーナの裏切りに絶望したということなのではないか。

 エヴァはそう思い、頭の隅にひっかかりを覚えた。いかにDが本来のDからかけ離れるほど怒り狂っていたとしても、その指令は短絡に過ぎないか。そして、なんの意味もない。


「ニーナがこの世に実在したという証明は、現時点でありません。ニーナ・ギオルギとされている写真やショートフィルムはあるけれど、テロ未遂事件から長い時間が経ったいま、それが本当に『ニーナ』だという証拠はない。つまりこの国の貧しい農村に生まれ育ったニーナと、Dが面倒をみたニーナが同一だと言い切れないんです。彼女の母親と恋人は彼女の後を追うように死にました。ニーナの母親の戸籍に、娘の名前はない。ニーナの身分登録が抹消されたときに、母親の身分登録からもニーナの名前は消されたから。通っていた小中高、および美容学校の名簿からも、ニーナが在学した記録は消されている。ただ怒りにかられただけで、ここまで念入りにひとりの人間が存在した証拠を消してしまうでしょうか」


 いまや作家は日本語で話していた。胸の奥であたためていた説を語るのに、借り物のこの国の言葉では追いつかなかったらしい。

 タブレットが翻訳する彼の論述を読みながら、エヴァは気が遠くなるのを感じていた。この若者はいったい、私にどんな過去を見せようとしているのだろう。


「ニーナの恋人、ヤンが暗殺実行の凶器にしようとした武器ですが、この銃器は当時の最新型の自動拳銃でした。その銃の出所については彼の取り調べにあたった警察調書に後から書き換えた形跡があります。最初の記載では、国内の中規模マフィアの名前が記されていたようなのですが……」


 エヴァはヤンが使用した銃器について、これまで気にしたことがなかった。ふたつの戦争の時代に思春期を過ごし、そして軍籍にあるDと暮らしてきたエヴァにとって、武器は身近なものだったのだ。

 だけどたしかに独立戦争後、一般市民の銃器類の所持は行政への申請と許可が必要になって、しかもその許可基準は厳しかった。あの頃は拳銃に限らず火器全般が、簡単に手に入れられるものではなくなっていたのだ。軍需産業が盛んだったD政権下で共和国軍は最新式の国産武器を十分に持っていたが、それが民間人に流れることは政府と軍が厳しく取り締まっていた。


「テロを計画した反体制派は武器の入手に苦労し、まるでロクな装備がありませんでした。爆発物というものは、コツさえつかめば素人にも容易に作れます。だから彼らは爆弾でテロを起こそうとした。反体制派は銃器に関しては安い型落ちの旧式品ばかりで、それもそう数は持っていませんでした」


 当該の反体制派グループは、あくまで自分たちの手だけで革命を成し遂げることにこだわっていたのだと亡霊は言った。

 どこかの国から武器を輸入してクーデターを成した場合、その国が保護者的に内政を干渉してくる可能性が捨てきれない。むしろ指導者の立場をとって嘴を挟み、この国の利益を横取りしてくるかもしれない。植民地からの独立後、Dが大統領になるまでの八年間の傀儡政権の記憶は、彼らに完全な自力革命という理想を燃やさせた。

 ただ、現実的には当時の国内の武器統制が厳しくて、武器を入手できないのが正直な原因だっただろう。国産の武器は軍部の徹底した管理下にあり、個人間の輸出入、および密輸は厳格に取り締まられていた。彼らは国産の武器を得ることも、外国から秘密裡に武器を手に入れることもできなかったのだ。


「それなのに、ヤンは極めて性能のいいサプレッサーをつけた自動拳銃を事件で使用している。あまり裕福ではないじゃがいも農家で育ち、田舎の工場で働く十九歳の青年が、です。猟銃ならまだありえたかもしれないけれど、彼が使っていた拳銃は当時の最新型、第一級品でした」


 彼はそれをどこで、どうやって手に入れたか。


 調書上、表向きは国内のマフィア組織の末端から購入したことになっている。だけどそのマフィアも今では、政府内部と秘密裏の繋がりがあったことが明らかになっている。

 ヤンの使用した拳銃は型番から、はじめは軍部に供給されたものだとわかる。つまりおおもと辿れば軍のトップも兼ねる大統領のサインがないと動かせない武器。 その拳銃は軍部からマフィアに流れ、そして売人を通してヤンの手に渡った。そしてDを撃ち損じた拳銃は、事件後再び軍の持ち物に戻っている。


「これを軍部の暗躍と見ることもできます。なんらかの理由から、軍部がマダムDを暗殺しようとしたと。しかし、はたしてその理論は現実的か?」


 現実的ではないだろう。

 エヴァはタブレットに、軍部にDは殺せなかったと打ち込んだ。


「軍部はあくまで王朝終焉まで、革命軍叩き上げのマダムを恐れていた、そうあなたはおっしゃった。私も、それはそうだっただろうと思うんです。それに外国人の私でも必死で調べれば辿れるようなルートを使用してマダムの暗殺を計画するとは思えない」

 ヤンが拳銃を手に入れられるよう仕向けたのは、彼女だったのではないでしょうか。

 作家の言葉を、エヴァは黙って聞いていた。乾いて衰えた肌から、考えたくない仮定がじわじわと染みこんでくる。


「考えてみると、取り押さえられた青年を見たマダムが、『こんな――をね』と言うのもどこかおかしい。マダムはニーナにヤンという恋人がいたことは知っていただろうし、地方視察のときに彼とも会っていたかもしれません。だけどその青年がまさにその日のその瞬間に自分を襲うことまではわからなかったはずです」


「こんな――をね」ではなく、「こんな――がね」ならありえるかもしれない。だけどマダムは取り押さえられた青年を見てすぐに、「こんな――をね」と言っている。警護の網をかいくぐり、自分に到達しかけた青年に向かって。

こんな――をね、とは、彼を愛していたニーナへのつぶやきだったのではないか。


「マダムは彼が自分を殺しにくることを知っていた。知っていて彼に武器を流し、わざと自分に近づけるよう仕組んだのではないでしょうか」


 彼女は戦場経験はおろか軍事訓練も受けたことのないヤンが、こんな必中の機会に命中させることなどできないと知っていた。わかっていたから、彼女は自分を的にした。


「Dが目をかけ、慈しんだ『ニーナ』は本当に実在したんでしょうか」


 証明ができないから、マダムDとあなたの繋がりを裏付けるものは人の記憶だけだとあなたは言われた。それは、この国に存在したという法的な証明ができないニーナも同じなのではないか。


 Dが愛したニーナは、本当にいたのか。


「私は、反体制派がニーナに接触して彼女をグループに引き込んだというのは違うと思うんです。だけどもしかしたら、ニーナからグループへの接触やテロ行為の示唆はあったかもしれない。そして、彼女にそうして働きかけさせたのはマダムDだった」


 どこから彼女は絵図を引いていたのか。


 そもそものきっかけ、地方視察でスパを訪れたときから、その計画は始まっていた。


「ニーナに、マダムに踊らされているという認識はなかったでしょう。だけど彼女はニーナを手元に置いたときには、はっきりとした計画があったんです。一九六九年に終身大統領に就任してから、彼女は独裁志向を隠さなくなった。国民人気は高いままでしたが、このあたりで一度、しっかりと国民の指示を自分に向けさせて、さらに足場を固める必要があった。そのために彼女は、議事堂と官邸への爆弾テロとその回避、そして自分に向けた直接的な暗殺未遂を計画したのではないでしょうか。Dという稀代の独裁者の英雄譚を盛り上げる、ひとつのターニングポイントの演出として。彼女の策略はまた大当たりした。国民感情はふたたび彼女に引きつけられ、そして自然なかたちで反体制運動の取り締まりを強化できた。ニーナという少女は、そのための捨て石のひとつだったのではないか」


 乾いてつめたい冬の空気のなかに、ふいにエヴァは甘く苦い煙草の香りを嗅いだ気がした。Dが好んだ亜熱帯産の煙草葉の、胸を焦がすようなあの匂い。風に紛れてすぐに消える。


――大抵、叩いたら壊れるからね。


 自動翻訳される画面の文字を追うエヴァの耳元で、Dの声がリフレインした。

 作家は意識して口調を抑えているようだが、切れ目なく語られる言葉には懸命な熱がこもっている。画面の文字に目を落として、エヴァはこの若者もまたDに焦がれているのだとぼんやりと思った。Dの死後、この国とは深い関わりのない他国に生まれた、遅れてきた観客であり崇拝者。

 だけど、彼の推察は根本が誤っている。彼はおそらく、自分で導き出した『冷徹』というワードに支配されているのだ。

 たしかに彼女は冷徹だった。そしてその冷徹は、ニーナに出会って思いがけない残酷を生み出したのだ。


 彼女はニーナの存在を完璧に消したかった。

ニーナが生きていた証を消して、自分ひとりのものにするために。

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