第14話
ニーナがどうして事件に巻き込まれたのか、それには当時からいくつか説があった。
Dに気に入られているニーナを危険視した政府内部関係者が、公安部のテロ未遂摘発にかこつけてニーナを抹殺しようとした。公安部内の勢力争いが激化し、手柄を競って先走りすぎた。その当時はDの第二秘書官だったクロトフ・ルゼの策謀説などである。
エヴァにはどの説も六〇パーセント程度の根拠しかないように思える。ルゼの説に及んではほぼありえないだろう。あれはDの公的な影になり、片腕として生きることに生きがいを覚えていた男だ。
教会に祈りを捧げない彼は、だけど無神論者ではなかった。彼が信じる神はDだったから。
ルゼは、Dが誰を愛そうがDの盾と刀の両方を同時に務められるのは自分しかいないのだからどうでもいいのだと言っていたことがある。その自負はただの驕りではなく、Dとエヴァよりも十歳若い彼は簡単にはDに交換部品にされないだけの高い能力を備えていた。そんな男がたかが嫉妬でニーナを殺そうとするなんて、目的も動機も筋が通らない。
警察と軍部は、独立革命軍叩き上げのDに恐怖を抱き続けていた。政府内部の関係者も同様に畏怖していた。公安部がニーナの冤罪証明に繋がる日記帳を隠蔽しようとしたのも、Dを心の底から恐れていたからだ。
Dの近くにいる人間で、Dを怖がらなかったのはニーナだけだ。
だからだろうか、と今でも考えてしまう。
Dは生まれてはじめて、悪魔である自分を恐れない少女に出会った。だから彼女に惹かれ、些細な思い込みから残忍に殺し、そして自らの過ちに気づいて後悔した。
そう、Dは後悔したのである。Dはニーナへの仕打ちにだけは、己の過ちを悔いた。
*
年が明けて、最初の月が終わろうという頃だった。
エヴァは外に出ていたDからの言伝で、官邸の執務室に書類をとりに入った。
そして棚に並べられた書類から、ニーナ・ギオルギの公的文書を発見したのだ。
不透明のファイルに収められた身分登録書の原本。ニーナが出生した証。
これをここに残しているのはなぜだろう。
父親の名前が空欄になったニーナの身分登録書を見ながら、エヴァはまた胸の底につめたい水が滴り落ちるのを感じていた。
これはDの後悔だ。
深く慈しみ愛したニーナの背信に嚇怒したDは、彼女に処刑命令を出した。しかしその後ニーナが反体制派グループとは無関係であったと察し、彼女に振り下ろした残虐への後悔から、彼女の公的な存在証明を手元に残したのではないか。それも官邸執務室の中という、己が一番長い時間を過ごす場所に。
あなたらしくもない、あまりにも人間じみて矮小なセンチメンタルだ。
蔑みたかったのにうまくできなくて、エヴァは強く唇を噛んだ。インクで筆記された登録書を持つ手が震えていた。
エヴァはそのファイルをもとの場所にしまった。だけどその後も執務室に用を言いつけられると、時折そのファイルを取り出して、そこにあることを確かめてしまった。
一九七三年の爆破テロ未遂事件、そしてD暗殺未遂事件を経て、Dの政権はより盤石になった。一九九三年にDが亡くなるまで、共和国にDがもたらした繁栄はまさにゴールデン・デイズだった。
近しい政府関係者以外に病を伝えなかったDは執務をこなしながら闘病し、五十五歳で亡くなった。
「このあたりで死ねばちょうどいいだろうね」
それが、ふたりきりのときにDがエヴァに言った最後の言葉だった。
彼女は正確な死期を予測していた、または自ら死ぬときを選んだのかもしれない。
傍目には突然だった彼女の死に、毒殺の噂は当時からあった。だがエヴァもしもDの死が毒殺なら、それは服毒自殺だろうと思っている。
病を深めてからの彼女の私室のベッドには医師が処方した各種の薬剤や吸入器があった。それらは医師、看護師の指示によって置かれたものである。
Dの死後、私室のゴミ箱に液体を入れた形跡のない空の注射器が入っていた。エヴァはそれを拾い、ルゼに頼んでこっそりと調査に回してもらった。
薬品を入れた形跡はなく、Dの指紋のみがついている。
Dは動脈に空気注射をしたのかもしれない。自らの死を確実に手繰り寄せるために。
彼女の死後のひととき、やや下向きかけていた国内経済は一瞬奇跡的な上昇を見せた。
この国のゴールデン・デイス、最後の足掻きだった。
Dの死後、執務室に隠されたニーナの書類を処分しなければとエヴァが人目を忍んで執務室に向かうと、あのファイルはなくなっていた。
身辺整理を徹底して死んでいったDのことだ。あの書類も死の前に処分したのかもしれない。
Dの遺体はエンバーメントされて霊廟に入れられていたが、死後にD批判が起きると霊廟放火事件がおきた。
この放火についてエヴァは、Dの死まで公的な最側近であり続け、皇帝の懐刀の異名をとったルゼがしたことではないかと考えている。
ルゼ・クロトフは嵐のようなD批判、そして体制崩壊による動乱のさなかに処刑された。
その頃すでにエヴァは主人の亡くなった官邸を引き払い、中央から遠く離れていた。Dがずっと以前に、エヴァの名義でこのアパートの一室を購入していたから。
Dがエヴァに残した唯一の遺品は、この国の中では比較的安全な地域の住居だった。
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