第13話
あとから思い返しても、あれが予兆だったのかと考えられるのは、十月最後の日の朝、Dからの突然の通達までなにもなかった。
あの日の朝Dはエヴァに、二週間ほど海外で休暇を過ごしておいでと言った。唐突な提案だが、Dがエヴァになにか提案、もとい提案という形の命令をするときはだいたい唐突である。
疑いを持つこともなくエヴァは自分がここにいては不都合があるのだろうと思い、すでに用意されていたパリ行のチケットを受け取って旅装の支度をした。そしてパリのホテルで、自分の住む官邸内に危険が迫っていたことを知ったのだ。
エヴァが休暇を得たのとほぼ同時に、官邸で働く人の全員に休みが与えられていた。そのために被害者を出すことなくテロは防がれたという。グループのアジトからは官邸内に仕掛けられた爆発物と関連する証拠が押収され、この計画の予行練習だったと思われる小規模な爆弾騒ぎもこのグループによるものと判明したらしい。
一国の首長を狙った凶悪なテロ未遂事件として、こちらの報道機関でも大々的に取り扱われたが、さすがに逮捕者についての詳細は情報がないのか、グループの幹部たちの名前が簡単に紹介されただけだった。官邸テロ未遂そのものには冷静だったエヴァは大使館に出向いて問い合わせ、もっと詳しい情報を得ようとした。
そして逮捕者のリストに、ニーナ・ギオルギの名を発見したのだ。
Dに見出され専属セラピストとして雇われていたニーナはそばにいるうちにDの政治方針に疑問を抱き、反体制派グループに参加した。官邸内に出入り自由だったニーナは爆発物設置にも直接的に関わった疑いがある。
エヴァには無理なこじつけとしか思えない話だった。あの官邸にいた人間なら、誰もがそう言うだろう。彼女は明るく正直で、でもとても人を気遣うやさしい少女だ。嘘をついてうまく周囲を欺けるタイプでもない。最初から策略を隠してDに接近し、あれほど天真爛漫に振る舞えるほどの能力があるのなら、この計画の無謀も事前に悟れるだろう。
感情論ではDを動かせない。それは知っていたけれど、エヴァはニーナが無罪だとする自分なりの根拠を数えようとしていた。
ニーナはDを崇拝していたが、それは雲の上のスターに憧れるような、そんな類いの感情だ。独立戦争後に生まれたニーナは政治に興味がなかったし、新聞だって読まなかった。その彼女がどうして政策に疑問を持ち、Dを殺してまで政治体制を変えたいと思うだろう。
Dは自分がそばに置いた人間に背信の気があったら、事態が進む前に気づいている。そもそもDは他人がD自身や統治のあり方に意見しても、それに構う人間ではないはずだ。もしニーナがDになにか言ったとしても、適当に返事をして放っておいただろう。目に余れば手切れ金を渡して母親と恋人の元に戻せばいい。
それに彼女が所持していたとされる反政府的思想の書籍は外国語のはずだが、彼女は母国語以外使えない。かつて公用語だった旧宗主国の言語も、いまは義務教育として学ぶ英語も、どちらも彼女は身につけていなかった。そんな彼女が知らない言語の本をどうやって読んだというのか。わざわざ一語一語辞書を引いて?
Dだって一笑に付すだろう。
だが、Dがサインをしたからニーナが逮捕されたのだ。
Dが正式に決めたことは他者に覆せない。それは骨の髄まで知りぬいている。だけどエヴァはどうしてもこの件だけはと思い、大使館からDの執務室に電話をかけてもらった。Dは出られないと向こうの職員に言われても、彼女の件は手違いではないかと伝えてもらうつもりだった。
案の定、取り込み中で出られないらしいので伝言を頼んでもらい、執務室に向けて電報も打った。
その足でホテルをチェックアウトして帰国したが、国についたときには事件は終わっていた。新聞が報じた処刑者一覧は、無機質な文字でニーナの死を告げた。
エヴァが電報を打った時点で、もう手遅れだったのかもしれない。この国はパリよりも日の出が早い。それに一九七三年当時、国際間の通信伝達は今ほどスピーディーではなかった。
官邸はまだ厳戒体制で、エヴァは数日を首都のホテルで過ごした。エヴァが封鎖のとけた官邸に戻って、さらにDと顔を合わせるまで、そこから五日ほどかかった。
およそ二週間ぶりに会うDは、さすがの自制力で事件前と変わらない落ち着きを見せていた。だけどいつもよりもひややかな気配をまとって、周囲の人々から踏み込まれるのを無言で拒んでいる。
Dは温度のない顔をして、苦労をかけたねとだけ言った。エヴァが残した伝言や電報のことはなにも言わない。勝手に予定を切り上げて帰国をはやめたのも、知っているだろうが不問に付された。
エヴァはDにニーナのことを言いだせず、Dもいっさい語らなかった。ニーナのことだけでなく、このテロ未遂事件に関する何事についても、Dはエヴァに口を開かせなかった。
徐々にエヴァは報道に出ないこの事件の内部事情を、拾い集めるように知っていった。あの年のクリスマス、ヤンによるD暗殺未遂事件が起きる前には、先ほど亡霊が提示したような一連の情報は得ていた。
ニーナの逮捕は、事前捜査の不足による誤認逮捕だった。ニーナは冤罪で処刑された。ニーナの遺体は拷問によって、両腕を切り落とされていた。
それらの事実はエヴァの胸を、火を点けた燐寸でも投げ込んだように燃やしていった。
この処刑はDの失敗だ。Dらしくない、短絡的で無分別なミス。
あのDが、前後の見境をなくすほどに怒った。怒りの感情などとうに凍てついたようなDが、ニーナの裏切りの気配に我を忘れた。
公安部の逮捕者リストはDがサインしないと機能しない。そして取り調べの手段は、Dが指定した通りに遂行される。
叩けば壊れるとDは言っていた。叩けば壊れる。壊れるから人間なんだ。
Dはニーナを壊した。自らの命令のもと、自らの指定した方法で。
ニーナの腕を切断させたのはDだ。
エヴァの胸を焼く炎は身体中に広がっていた。その炎はエヴァを四肢の先まで痛めつけるような嫉妬だった。
私からすべてを奪っておいて、涼しい顔をしていたくせに。
あなたはニーナにだけは、その凍てついた心を融かされたのか。
クリスマスの発砲事件を、エヴァは官邸のテレビに流れたニュース速報で知った。逮捕された青年がニーナの恋人だということは名前で気がついた。
現場のカメラがとらえたヤンは、顔立ちにも体格にもまだ、少年らしい幼さが残っていた。とても人殺しなどできそうにないその眼がDを睨みつけ、強く引き金を引いた。
Dは避けようともしなかった。
「こんな薄間抜けをね」
思いがけず大事件の瞬間を撮ることになった報道カメラに、Dのつぶやきまでは入っていなかった。薄間抜けというのはこのときのDの唇の動きと、彼女の性格からエヴァが当てはめて考えたものである。
形ばかりの取り調べののち、ヤンは雪の降る野外絞首台に吊るされて亡くなった。恋人のニーナと同じ、十九歳の死だった。
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