第12話
ニーナのことはよく覚えている。
人の心をぱっと照らすような、可憐な明るさのある少女だった。
陰日向のない性格で、知性や教養よりも気さくさが持ち味。奢った驕慢や我儘さは皆無で、それはDの援助を受け、思うままの贅沢が手に入る環境になっても変わらなかった。
自分でニーナを官邸に呼んでおきながら、Dがその時間帯に帰宅できないことはざらにあった。Dは自身の帰宅が約束の時間に間に合わなかったら遠慮なくアパートに帰るようニーナに言い、エヴァや官邸で働く人たちにもその場合はすぐに車を回すよう伝えていた。
でもニーナはもう上がってもいいと言われても、帰るかわからないDを待っていた。
ニーナはあっという間に官邸の住居部で働く人々に馴染み、オフタイムのスタッフにマッサージをして重宝された。母親のスパで学生の頃から見習いをしていたので、施術の腕前はすでにプロ並みだったのだ。まだ若いのにこんなにも上手だからDが専属マッサージ師として雇い、生活の面倒を見ようと思ったのだと疑いなく納得してしまうほどに。
当時、住居部に発生する雑務やDの私的な用足しをしていたエヴァはたいてい夜は身体が空いていて、待ちぼうけのニーナと過ごす機会は多かった。
官邸のプライベートリビングでエヴァの首や脚をマッサージしながら、ニーナは他愛ない話をじつに楽しそうに語った。
彼女の恋人が地元の電子機器工場で働いていることや、ほんの幼い頃からの友達でもきちんと付き合いだしたのは三年前からだというのも、そうした施術中の会話のなかで聞き知った。
ひとりで首都に来ることを、恋人は心配しなかったのか。エヴァが筆談でそう訊ねると、ニーナは笑って首を振った。
「もう、すごく揉めちゃって。みんな応援してくれて、反対したのはヤンだけなのに」
彼の気持ちもわかる気がする。エヴァは唇を動かしながらそう書いた。
「ヤンもよろこんでくれると思ったんです。だって、こんな奇跡ってきっとない。マダムに認めてもらって、首都の学校で学べるなんて」
エヴァは苦笑する。同じパターンの経験はないが、恋人が自分を置いて都会に行ってしまう焦燥感は簡単に想像できる。しかもニーナはこんなにも可愛らしい。それがこの国の最高権力者に見出されて首都へ行ってしまった。彼はきっと嫉妬と不安でいっぱいだろう。
声が出ないエヴァは紙に文字を書いて会話をする。声と紙でやりとりをするうちに、ペンを動かすよりも早く唇が動いていることがあるらしい。
自分でも知らずにいたその癖を教えてくれたのはニーナだった。ニーナはエヴァが紙に書いた文を見るよりも先に、まずエヴァの表情を見て、聞こえない声を聞こうとする。そしてエヴァが考えている通りのことを読み取ってしまうのだ。エヴァの右眼が見えないのも言っていないのに気がついて、さりげなく庇ってくれる。こうした勘と観察眼に、子供の頃から母親の店を手伝ってきたニーナの履歴が伺えた。
「手紙と電話はよく。でも、ヤンの家は電話がなくて、私がママのお店にかけて、そうしたら誰かがヤンを呼びにいって……タイミングが合わないとしゃべれないんです。この前電話したときはヤンが捕まらなくて。それで不機嫌になられても困りますよね」
エヴァと会話をするときに、エヴァの顔を見る人はほとんどいない。いつしかエヴァのなかで、誰かと話すときには手元のペンと文字を見られるほうが自然になっていた。だからニーナが真っ直ぐに顔を見てくるのはむずがゆくて、でもやっぱりうれしく思う。エヴァはニーナと話すときには、意識して唇も動かすようにしていた。
ニーナは通っている美容学校で、美容エステの技術を身につけたいらしい。メイクもやりたいし、ヘアアレンジももっと専門的にできるようになりたい。
「私、お洋服とアクセサリーが大好きで、だから首都のおしゃれなお店を見て回るのがとても楽しいんです。あ、布地屋さんも好きです。毛糸屋さんも。それにこの前、すごく雰囲気のいいカフェも見つけて、よかったらエヴァさんと一緒におでかけしたいです」
大きな瞳をきらきらさせてエヴァを買い物に誘ったニーナは、メゾンの建ち並ぶ大通りを真剣に吟味しながら歩いた。手持ちの小遣いと相談し、悩みながらショーウィンドウを行ったり来たりする。エヴァの意見も聞きつつ熟考した末に、夏物のワンピースを一枚と故郷の母に送る香水、そしてヤンに上質な開襟シャツを買った。
Dはニーナがどの店でもツケで買えるようにしていたが、それは恐れ多いとニーナが遠慮した。エヴァはこののち何度かニーナと出かけたが、一度もその特権は行使されなかった。ニーナにとってDはずっと憧れの英雄だったので、そんな神様のような人の厚意に甘えるわけにはいかなかったのだろう。
ニーナの買い物に同行することになったとDに言うと、Dもニーナからすでにその約束を聞いていた。
よろしく頼むよ。彼女はとても楽しみにしているようだから。なにかあったら連絡を。
必要だろうからと多めに金を渡されたが、ニーナは自分の買い物でエヴァに財布を開かせなかった。カフェの支払いすら自分の分を出そうとしたので、それはさすがにDに私が怒られると言ってエヴァが払ったぐらいだ。控えめなのか、それとも感覚が若いのか。
せめてなにか、ニーナにちょっとしたものをプレゼントしてやりたい。そう思ったのはニーナを思うDのことが頭をよぎったからかもしれないし、エヴァ自身がこの外出を楽しんでいたからかもしれない。
もうその頃には四十四になっていたエヴァの心に、ニーナの存在は過去をやさしく照らしてみせた。彼女の年頃、エヴァはすべてを奪われてDと再会した。だけどもし、どこかで運命というものを変えられていたら、ちょうど今時分私にもこういう娘がいたのかもしれない。
ニーナといると、エヴァは自分が得られなかったごく当たり前の幸福というものを思い出し、せつないようなあたたかい気持ちになった。
別れ際、ニーナは花屋に並んだ鉢植えに足をとめかけた。エヴァも立ち止まり、どれか部屋に飾ったらと勧めた。その花屋は品揃えもよく、暮れ方なのにまだ花がしゃんとしていた。
「綺麗なお花ばっかりで迷っちゃいます。エヴァさんはどれが好きですか?」
エヴァは店内の鉢植えから、ベビーピンクのピンポンマムを選んだ。小さくまる丸い菊の花は、ニーナの雰囲気にぴったりだと思った。ニーナも可愛いと気に入ったらしいので、エヴァはその鉢植えを液肥とともに包んでもらってニーナに贈った。
この外出から数日後だったか、Dに呼ばれて官邸にやってきたニーナと会った。そのときはDもだいたい時間通りに帰宅できて、ニーナはDにピンポンマムの話をした。
「ピンポンマム?」
「はい、丸いお花の。コロコロしていてすごく可愛いんです」
「ああ、昔住んでいた官舎に咲いていた。エヴァがガーデニングをしていたから」
「あ、だから肥料も一緒にくださったんですね! エヴァさんからお手入れの方法も教えてもらったんです!」
ニーナが官邸を後にしてから、Dはしみじみとエヴァに「君は本当に花が好きなんだね」と言った。エヴァはニーナと話すときのように、唇で「ええ、好きですね」と答えていた。
――柔らかなベビーピンクのピンポンマム。彼女のような花だった。
その文を読んで、Dは不思議そうな顔になった。
「奇遇だな。私もニーナに花を選ぶなら、ピンポンマムだと思っていた」
君と過ごすまでは、存在も知らない花だったんだけどね。そう言ってDは、ハイプの煙で表情を隠した。かつて薔薇を棘ごと咀嚼してみせたDが、ある少女を花にたとえようとしている。自分よりも先にその花を贈ったエヴァに、なんとなく面白くないものを感じている。
そもそもDが、こうしてパトロンめいた振る舞いをした例はほかにない。
愛人ならいただろうと思う。ただ、その場合はニーナにしていたような丁重な扱いと違って、もっと割り切った私的な関係だった。官邸に招くことはなかったし、周囲に相手の個人的な情報が漏れることもなかった。だからエヴァはDに特定の相手が複数いたことは察しているが、それがどのような人物だったかは知らないのだ。
愛人という言葉が恋愛感情やセックスを伴う関係性を示すのなら、ニーナはDの愛人ではなかった。テロ未遂事件発覚の際に盛んに囁かれた、ニーナが最初から暗殺の思惑を抱いてDを籠絡しようとしたというのはありがちなデマだ。そもそも後に計画への加担も否定されているが、Dと対峙できるほどの計略や腹黒さは彼女にはない。
朗らかで天真爛漫なごく普通の少女。可愛いふりをするためにあえて普通を装おうというのでもなく、計算して物事を有利に進めようという嫌味な賢さもなかった。
そこがDの気に入ったのかもしれない。芯から裏表のない屈託のなさは、D自身やDが付き合う人間が持ち得ないものである。
Dとニーナは出会いから別れに至るまで、ずっと庇護者と被護者のままだった。ふたりでいても艶めいた気配はなく、包容力のある姉と姉を尊敬し信頼する妹のような光景になる。
おそらくDはニーナといるとき、常に己を大人として律していたのだとエヴァは思う。
ニーナは故郷に残してきた恋人の存在を隠さなかった。喧嘩や愚痴はたくさんあっても、ニーナがヤンという幼馴染の青年を愛していることは明白だったのだ。そしてニーナがDに抱く透明な尊敬は、けして情愛には変化しない種類のものだった。
素直に自分を慕う年下の若者に、一方的な感情を抱いていることを悟られる大人は愚かである。しかもその相手に、相思相愛の恋人がいるのならなおさら。
ニーナはDの秘めた思いに気づくことはなく、純粋に若い自分の将来を見込んで応援してくれているのだと信じていた。官邸の使用人やDの側近も、Dとニーナの間には敬愛しかないと思って安堵していた。そもそもDにとってニーナがいかに特別な存在であるかも、Dの立ち居振る舞いからは見抜けなかった。
それはDの徹底した自律の成果だが、不器用さでもある。Dは優しい演技なら完璧にできても、誰かひとりを心から慈しむ方法はわからなかったのではないか。
Dは親子ほどに歳の離れたニーナの、良い庇護者であろうとしたのだろう。D政権下に反政府的行動の罪で処罰を受けた人間は一六〇人前後と亡霊は言っていたが、Dが生涯で手にかけた人数はその倍を軽く超える。
Dに近い場所で働く者なら、彼女がいかに恐ろしい人間かは身に染みていた。
D自身、自分のことを憐れみ深い人間だと評されたら鼻で笑っただろう。どれほど自分が冷血かを知っていたから、あれほど篤実なふりができたのだ。
だがDはニーナにだけは本当に優しくしたかった。優しいと思われていたかった。彼女が憧れた強く優しいマダム・プレジデントのままでいたかった。
策略と残酷という二刀の剣を武器にして、欲しいものをすべて手に入れてきたDが、まるではじめて恋をした少女のように潔癖に思い詰めた。考えつく限り尽くして大切にしているつもりだったニーナの裏切りを示唆されて、Dのなかでなにかが切れたのだ。
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