第7話

 大戦後、国際的な非難を浴びながらもフラメニア政府がこの国を手放したがらなかった最大の理由は、この国に埋まっている豊富な天然資源のためだった。


 そして泥沼化する独立戦争に合衆国や連邦といった大国が介入し、こぞって祖国独立軍を応援したのも、フラメニア撤退後に自国が得る利権を期待していたというところが大きい。


 独立を達成し主権を回復したこの国は共和国制をとり、初代大統領選挙が行われた。この選挙は当時の東西冷戦を反映して、合衆国と連邦がそれぞれに支援する対立候補が戦い、最終的に合衆国が後見する候補が僅差で当選した。以降初代大統領が政治の舵取りをした二期八年間、この国は次第に傀儡政権的な色彩を濃くしていった。

 自らの手で独立を勝ち取ったと思っている国民は、徐々に不満を蓄積していく。頭を挿げ替えて少し目新しくしてみただけで、搾取されていることに変わりはないではないか、と。


 Dは彼らの怒りに共鳴することもなければ、人々に燻る鬱屈を操作してこの国を得ようという野望を持つこともなかった。傀儡政権への反発もさして感じていなかっただろう。Dは理想主義者ではなく、根本的に醒めたリアリストだ。そしてエヴァが思うに、Dの人生でこの八年間がもっとも波風の立たない時期だった。


 若くして軍功を立てて大尉の地位についた。社会的にも経済的にも充分に恵まれた生活を手に入れ、しばらくは直接的に参加する戦争の気配がない。二十四歳にして、Dははじめて人並みに平穏な日常を得たのだった。


 Dは軍事協定を結んでいた合衆国内の基地に派遣され、海の向こうの国へも当然のようにエヴァを連れていった。


 西海岸で割り当てられた官舎は、バルコニーから太平洋を臨む一戸建てだった。 

 エヴァはここで最新式の電気掃除機や洗濯機と出会い、その便利さに感動する。めずらしく自分からDに、こういった家電はとても役に立つのでありがたいと文字で伝えたほどだった。

 庭付きの家だったので、ガーデニングにも凝った。ふたつの戦争を潜り抜けてきたエヴァは、誰に踏み荒らされる心配もない庭を持てることを得難い幸福のように感じ、神に感謝した。


 助けてはくれないと知ってしまっても、それでもなお縋ってしまう胸の内の神に。


 この時期DはDで忙しくしていて、派遣早々に大学の神学部に編入し、軍務の傍らキリスト教神学で修士を修めてしまった。エヴァはDが改めて学問をしようとすることは驚かなかったものの、専攻に神学を選んだのはすこぶる意外だった。

 エヴァの祖国はローマン・カトリックと混成した土着の宗教に帰依する者が大半を占めていたが、D自身はまったく信仰心を持っていなかったし、自分でもそう公言していたのだ。不思議に思ったエヴァに、Dは「私には理解できないから興味があるんだよ」と言った。


――なぜ人は神の代理人の足に口づけし、神に命を捨てるのか。


 どうしてだろうね。不思議そうに口にするあなたは、必要ならば神の代理人の足に恭しく口づけしてみせるだろう。ただし、神に命を捨てることは死んでもしない。そのときはきっと、自ら神の椅子を奪い取る。


 彼女の傍で隙間風が吹くような心を抱えながら、エヴァはDという異人をそう見ていた。


 私的な時間をきっちりとれる平時に学位を得ておこうと考え、その必要のあとで専攻を選んだ。Dの決定はいつでも、戦略上の必要が先にあってから、その必要に引き続いて好みや楽しみを加味していく。ちょうど、アムナーシュ家を破壊する必要から発して、手慰みにエヴァの尊厳を奪ったように。

 タイムスケジュールの目途が立つとはいえ、余暇とは本来休む時間である。軍関係の付き合いもあったし、社交界への出入りもあった。そんな生活の中で休息をやりくりして目標達成を目指すDが、海の見える官舎でゆっくり過ごす時間はあまりなかったといっていい。


 Dの留守が、密かにエヴァの安息になった。


 Dは編入試験を受けるに際し、エヴァにも中断した学業を再開するかと訊ねている。諸々の費用は全額持つ。あなたは語学に堪能だから、授業についていくのも苦労はしないだろう。


 厚遇といってもいいようなDの申し出を、エヴァはやんわりと断った。


 内戦以降、エヴァは人の大勢いる場所に出向くのが怖くなっていた。声と右眼を失ったのみならず、右の目元から喉、肩から背中にかけて目につくような火傷の痕も残っている。できることなら他人と関わりたくなかったし、ある集団の中に身を置くことを思うと、動悸がするほど恐怖を感じた。

 意識したことはなかったが、エヴァは大戦中の占領時代からずっとトラウマを抱えていたらしい。なかでもエヴァにとって一番大きな打撃になったのが、アムナーシュ家の焼き討ち事件だったのだ。


 事件後のエヴァは経済的にも社会的にも、Dの庇護下で生活を成り立たせていた。この人のおかげで生きている。そう自分に言い聞かせ、感謝するべきだと理性では思う相手を、どうしても憎んでしまうその苦しさ。


 エヴァの声は十九で死に、エヴァの心も十九で死んだ。身体だけはDに蘇生させられて、そして彼女によってゆっくりと嬲られ粉々にされていった。


 Dに拾われてからのエヴァは一貫して影の存在で、公的な場面に立ち会うことはなかった。それは勿論Dの独断だが、ひっそりと隠れて生きたいエヴァの望みでもあった。

 Dと親しくしていた人々のあいだでも、Dにエヴァという付き人がいたことはあまり知られていない。


 だからヴィクターも、Dの住む官舎を訪れるまでエヴァの存在を知らなかった。


 アーノルド・エリス・ヴィクター。彼は大学出身の合衆国空軍大尉で、ヴィクター家は代々上院議員を輩出している国内有数の名門だった。


 その土曜日の夕方、めずらしくDは自宅にいた。バルコニーのデッキチェアに脚を伸ばして座り、本を読みながらコーンパイプをくゆらせている。エヴァも声をかけられ、そばの椅子に腰かけてサンセットを眺めていた。会話はない。エヴァはいつもエプロンのポケットに小さいノートを入れていて、込み入ったことを伝えたいときはそこに書いて見せるようにしていたが、その日はまだ一枚も使われていなかった。


 通りに停まった車から降りてきた青年が、バルコニーにいるDを認めてにこやかに片手を上げた。Dは本を置いて立ち上がり、空軍の同僚が来たと言った。

 来客があると聞かされていなかったエヴァはびっくりして、いまから手早く作れそうなディナーメニューに頭を悩ませだした。


「気にすることないよ。このあと会食なんだ」


 ゴルフバッグを担いでバルコニーまでやってきた彼は、基地主催のゴルフコンペに招待されたDに道具を貸す約束をしていて、クラブやシューズといった一式を持ってきてくれたという。エヴァがアイスコーヒ―を淹れて持っていくと、彼は朗らかな微笑で礼を言った。


「あなたはDの姉妹? それとも友人の方ですか?」


 エヴァはDを見た。Dは促すように軽くうなずいた。

 エヴァは身振りで話せないのだと伝えて、筆談用のノートに家事手伝いと書いた。エヴァ。D大尉とは同い年で、同郷。


「そうなんだ。僕はアーノルドです。アーノルド・E・ヴィクター」


 よろしく、と手を差し出したアーノルドの表情は屈託がない。エヴァはわずかに緊張しながらその手を握った。


「彼女は古い恩人なんだよ。縁あって、国にいた頃からハウスキーピングを頼んでいる」

「水臭いな、そんなに大切な人ならもっと早くに紹介してくれてもよかったじゃないか」

「まあね。でも君ぐらいだ、ここの同僚で彼女を知ったのは」


 Dがエヴァを意図的にアーノルドに引き合わせたのかは、今となってはわからない。おそらく予想外だったのだろう。もしお見合いのつもりなら、Dはエヴァに仕事着のエプロンではなく、それなりの格好をしておくよう言っていたはずだ。


 ヴィクターが君をデートに誘ってもいいかと訊いてきたが、とDが言ったのは週明けだった。


「どうする? 彼は誠実さでは折り紙付きだし、俳優にしてもいいような男前だ」


――私だけでは間が持たない。大尉は退屈すると思う。あなたは来てくれる?


「いやだな、勘弁してくれよ。それに君を退屈させないのが彼の役目じゃないか」


 エヴァはDがどう考えているのかを知ろうと、その興味なさげな表情に目を凝らした。Dは唇の端に笑みを浮かべた。


「断るのは構わないが、私も彼に借りているものがあるんでね。できれば一度ぐらい会ってやってもらいたい」


 Dの言う通り、アーノルドは誠実な人間だった。気さくさと礼儀正しさがバランスよく同居したような性格で、エヴァは次第に彼に対しての警戒を解いていった。


 アーノルドがエヴァを見つめる目には優しさが溢れていた。これまでなら筆談の手間を気にして飲み込んでいたような、ちょっとした質問や感想も彼になら伝えられた。会う時間を重ねるうちに、いつのまにかエヴァはヴィクターとふたりで会うのが怖くなくなった。


 大尉という呼称が躊躇いがちな〝ヴィクターさん〟に変わる。そして「アーノルド」と素直に呼ぶ頃には、エヴァはアーノルドと歩くとき自然と腕を組むようになっていた。

 毎週末のようにアーノルドはエヴァを誘って出かけ、夜にはDの官舎に送り届ける。そんなサイクルが十か月ほど続いた頃、アーノルドはエヴァに、Dと本当はどういう関係なのかと尋ねた。


 いつものように彼の車で自宅に送られて、リビングに上がってもらってコーヒーを用意しているときだった。もう夜更けに近かったが、Dはまだ帰宅していない。


「不躾なことを訊くけれど、君はDと……恋愛関係にあるのかい?」


 そう問われた瞬間、エヴァは水をかけられたようにショックを受けていた。

 違う。

 恋じゃない。愛でもない。


 私はあの人を憎んでいる。怖れてもいる。だけどあの人は私に、わざわざ名付けるほどの感情は持っていない。


 あの人は私を、いつでも捨てられる部品のひとつとして数えている。なんとなく手元にあって、もう古くて錆びていることはわかっているのだけれど、分別して処分するというのも面倒臭いから錆びていくままに任せているような。


 虚しい?

 そうされることが、私は虚しいのかもしれない。

 だからだろうか、あの人のそばにいると、少しずつ私が削られていくような感じがする。

 アーノルドに言えたら、と胸を突かれるように思った。アーノルドにこれまでのすべてを打ち明けられたら、Dと再会してから心に濁り続ける澱を浄化できるかもしれない。

 でも、いくら言葉を尽くしても、この気持ちはきっとうまく伝えられないのだろう。私の言葉を聞いてほしいと、はじめて思った人なのに。


――私はD大尉を尊敬し、とても感謝しています。だけど大尉と私は雇い主と家政婦で、それ以上の関係にはありません。


 文面が固くなった気がして、続きに〝そんなに親しく見えたのなら嬉しいけれど〟と書き添えた。ペンを持つエヴァの右手はかすかに震えていた。


 ノートの文字を追うアーノルドの表情はぱっと明るくなった。


「よかった。じつは結婚を考えてもらいたいと思っていて。……Dとのことだけが気がかりだったんだ」

 さっきとは違った種類の衝撃がエヴァを襲った。どうしよう、とまず思った。戸惑うエヴァにキスをしたアーノルドは、本当によかったとつぶやきながらエヴァを抱きしめた。


 だが降って湧いた結婚の話は、ヴィクター家の意向で流れた。

 アーノルドはこの先、父の後を継いで政界入りを目指すべき人間である。アメリカ国籍は持たず有力な血縁者もなく、三か国語を解せても物理的に話せない妻は社交界で無用の長物だ。遊びの恋なら許すけれど、あなたをヴィクター家のリストに載せるわけにはいかない。


 それが、招待を受けてヴィクター家の夕食を訪れたエヴァに下された評定だった。

 正直なところ、エヴァはこの結婚話はまとまらない気がしていた。あまりにも身分や経歴、境遇が釣り合わなさすぎる。


 傷つけて申し訳ないと頭を下げ、真面目に別れ話をするアーノルドの憔悴した顔に、エヴァは彼のプロポーズに嘘がなかったことを知った。アーノルドは真剣にエヴァに好意を抱き、結婚したいと考えていたらしい。家や常識を忘れてしまうぐらい、彼は情熱を持ってくれた。

 そのことは、エヴァの心をほんのりと温めた。

 エヴァはアーノルドにこれまでの感謝を伝え、素晴らしい思い出ばかりだったと書いた。

 事実、エヴァはアーノルドを恨む気持ちはまったくなかった。幸せな時間だったと思う。アーノルドはエヴァが言葉を探し、それを紙に書くまでの時間をゆったりと待っていてくれた。


 待たせているとエヴァが焦ると、君を見ているとあっという間に時間が経つと言って笑ってみせる。アーノルドが優しく隣にいてくれたから、エヴァは随分とひさしぶりに、人に心を開くことができたのだ。


 Dはエヴァがアーノルドと交際していることを知っていた。入用だろうと、いつもより多く給金を渡されたりもした。それなのにエヴァがDに結婚話が出たことを言わなかったのは、この結末を半ば予測していたからだった。

 それなのにDは生真面目なアーノルドから、エヴァと結婚したいのだと前もって伝えられていたらしい。そして自分の家の事情から、それが叶わなくなったことも報告されていた。


「君がヴィクターとの結婚を望むなら、いかようにでも話を動かすことはできるよ」


 破局から少し経ったある日、Dはふいにそう言った。

 エヴァは慌てて首を振った。


――これでいい。私はすべて納得しているし、向こうの家の事情もわかる。ヴィクター大尉の幸福のほかに、私が今後この件に望むことはない。


「それならいいが、気になってね」


 それからアーノルドが家を訪れることはなくなったが、Dは同僚としても友人としても、アーノルドと親しくしているようだった。そのこともまた、エヴァを安堵させた。


 アーノルドはその年の終わり、イギリス貴族の血筋を汲む名家の娘との婚約を発表した。挙式と披露宴は翌夏の予定で、その頃には派遣期間を終えて帰国しているだろうDも友人として招待を受けていた。


 だがアーノルドは幸福な結婚を前に、訓練飛行中の不慮の事故で亡くなった。


 エヴァはその訃報を、四年七か月ぶりに帰ってきた祖国の空港で知った。

 新聞の隅の小さな記事に固まるエヴァの隣で、Dは黙ってパイプを蒸かしていた。


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