第8話

 一九五八年、二十九歳のDは共和国陸軍少佐に昇進している。少佐になったDは国内の基地に所属しつつ、時折月単位の短いスパンで欧州方面に派遣されていた。


 この時期にDはかつての宗主国だったフラメニア軍幹部との関係改善に成功している。占領下のフラメニアでレジスタンスとして同じ部隊で戦い、この頃にはフラメニア軍正規軍の将校になっていた元上官数名と旧交を温めたことがきっかけとなったらしい。


 当時国内では、二期目も後半に差し掛かった初代大統領とその夫人への不満が充満していた。あまりにも傀儡政権的で、そして大国の後ろ盾を良いことに大統領の一族が好き放題している。これではフラメニアの植民地だった時代と変わらない。


 初代大統領の操演をしていた合衆国も、国民の反発を逸らすためにそろそろ人形を変えたほうが良いだろうと判断した。そうした事情や思惑が噛み合って、ふいに次期大統領として白羽の矢を立てられたのがDだったのだ。


 Dはなぜか許しがたい裏切り者であるはずのフラメニア国内でも人気があり、フラメニア政府としても一度はともに銃を取ったDが相手なら、利権交渉の糸口が掴めるのではないかと考えた。また地理的に近い大陸の連邦も、初動には失敗したもののこの国での資源獲得は諦めていなかった。さらに連邦も、まだ既存の勢力に組み込まれていないDの後ろ盾になってやれば、この国で利権を得るチャンスがあるのではと考えたらしい。


 国内の各政治派閥や財界関係も、Dなら妥当だと思っていた。


 なんといってもDは独立戦争の軍神で、国民の共感を集めやすい苦労人でもある。人気の面では文句なしで、しかも若い女性だから有能で老獪な男を据えるよりも御しやすい。彼女は政治などてんで理解せず、たいした興味もないだろう。所詮は時の運を味方につけて未開な軍で出世しただけの無学な怪力女なのだから。


 きっと、女神マルスは月夜に弱い。


 Dをチェスの駒のように簡単に扱えると踏んだのが、当時の国内外の大きな誤りだった。

 こうした自身への見縊りは、Dをぞっとするほど冷たく笑わせる。


 大統領選出馬の打診から承諾まで、Dと周囲にどのようなやりとりがあったのか、エヴァはまったく教えられていない。


 祖国独立軍の時代から、Dはエヴァに自分の仕事や組織の内部情報を明かさなかった。情報公開の取り決めを厳守するというより、彼女は他人に仕事の話をしないのだ。自分の考えや、プライベートに関することも容易に口にしない。それでもエヴァはDが大統領選出馬を承諾したとき、さぞ闊達に笑って請け負っただろうと思う。凍てついた瞋恚を朗らかさに隠して、唇の端から牙を覗かせていたのだろう。


――光栄ですね。偉大な先人の言葉を借りまして、存分暴れてご覧にいれましょう。


 エヴァがDの大統領選出馬を知ったのは、食材を買い出しに出たときに街角で見た国営テレビの報道だった。そして圧倒的多数によるD当選の報を知らせてきたのも、官舎のリビングにあるテレビの開票速報だった。


 出馬を知ったときは街頭テレビの前で思わず棒立ちになったものの、Dの当選には驚かなかった。必ず勝つだろうと思っていた。Dは勝てると踏んだから受諾したのだ。選挙は当然ながら、その後の政治家人生においても、完璧に。


 これからさき、どうなるのだろう。


 国会議事堂前に詰めかけた市民の歓声に迎えられて、手を振ってそれに応える軍服姿のDを画面越しに眺めながら、エヴァは気が遠くなるようにそう思った。

 しばらくして、備え付けの電話が鳴った。Dはエヴァに、留守中に電話が鳴っても出なくていいと言っていた。


 だがこのとき、エヴァは確信とともに受話器を取り上げた。

「エヴァ? 明後日に入居だから荷造りを」

 この国の頂点に登ったという喜びや感慨のいっさいない、いたって淡々とした声だった。

 声を失ったエヴァはひとりだと電話越しの応答ができない。Dがエヴァに電話をかけてくるのははじめてだった。

 じゃあ、と言ってDは受話器を置こうとしたようだった。エヴァはとっさにそばの壁にかけてあったベル飾りに手を伸ばし、送話口で揺らした。


 涼やかな音が無言のふたりの間を繋ぎ、電話の向こうの喧噪がほんの一瞬消え去った。


「――ありがとう」


 静かな声の余韻を残して電話は切れた。エヴァは受話器を置き、手にしたベルをもう一度鳴らした。


 柔らかな音が鳴る。


 祝福の歌声のようなその音を聞いていると、喉の奥が押し潰されるように痛んだ。右の眼窩が抉られ、強い熱に炙られる錯覚が走る。もうそこにはない器官は、焼けつくように痛むことでエヴァに奪われたものたちを思い出させた。

 手の中に収まる小さなベルを鳴らしながら、エヴァは出ないはずの声を殺して泣いていた。



 一九六一年、三十二歳のDは共和国の第二代大統領に就任する。Dの就任は国内のみならず、関係諸国からも熱烈な歓迎をもって迎えられた。

 弱小国が脅威の経済成長を遂げた『ゴールデン・デイズ』の始まりであり、また独裁と強権による『血塗れの栄光』の幕開けだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る