第6話
祖国独立軍の幹部たちは、元グラステ地方総督の身柄をフラメニアとの交渉材料にするつもりだった。だがたかが老人一人を使った独立交渉はまとまらず、彼は早々に見切りをつけた祖国独立軍によって裁判を経て処刑された。
だんだんと、エヴァは身体も気持ちも萎えきっていった。死ぬことも生きるのと同じぐらい億劫に思える。それに自分が死んだところで、Dにはなんの痛痒も与えないだろう。
どうでもいい、どうとでもなれ。
エヴァの感情は諦めに錆びついた。ものを言わず表情も変えず、Dに言われた仕事をこなし、時間という拷問に耐え忍んで風化していく。
それこそがDの目的だったのかもしれない。
Dにとって、鉱山でのエヴァとの一幕はそう大きな位置を占めていなかった。面白い思い出でもなかったが、あの程度の記憶を反芻していられるほど容易い暮らしは送っていない。
祖国独立軍がグラステの街を完全に手中に収めるにあたり、グラステにおけるフラメニア支配の象徴のようなアムナーシュ家は必ず滅ぼさなければいけなかった。そしてアムナーシュ家には、十一年前に腹を空かせた孤児のDに綺麗なだけの薔薇を一輪与えた少女がいた。
Dが復讐を誓うよりも、アムナーシュ家焼き討ちが軍略上の必要として先にあった。それなら昔の借りも返してやろうかと、片手間のように思いついたのがエヴァのことだったのだ。
独裁者Dの人生を復讐という観点からのみ解き明かそうとするのは安直である。
虐げられる祖国への怒りだった、とDは祖国独立軍への志願動機を語っている。愛でも情熱でもなく〝怒り〟。
巧妙な表現を選んだものだと、エヴァは思う。愛だといかにも嘘くさい。
彼女の心に、怒りはあったか?
今年八十六歳になるエヴァは、今でも時折考える。たとえばこうして、過去からの亡霊がエヴァを探し当てたときなどに。
そしてそのたびに、怒りという言葉で大衆が想起する感情と、彼女の感情の圧倒的な温度差に気づくのだ。
エヴァは彼女と死に別れるまで、彼女に感情の揺らぎを見なかった。ふとしたことで激怒するとか、失敗に不機嫌になるといったこともない。
軍部時代から彼女の部下たちは皆、彼女は殴らない上長だったと言っている。粘着質なタイプでもなく、暴力を振るうときに人格が変わるわけでもない。粛々と、為すべきことを為す女性。だが身長5フィート7インチとけして大柄ではない彼女が誰よりも一番怖かった。
――マダム・プレジデントには、いつでも得体の知れない恐怖を感じた。それはあの人が戦場で敵を殺してきたからかもしれないし、彼女が得た地位のためだったかもしれない。でもそれ以上に、彼女は鋼鉄で覆われた精密機械のようで、あまりにも人間臭さがなかったのだ。
――感情的に叱責してくれるほうが、まだ見捨てられていないと思うことができただろう。
彼女にとって、すべての人間は部品だった。わざわざ手をかけて修理しなくても、新しいものと取り換えれば済む安価な部品。
叩いて直るのはテレビぐらいなものだと、Dは自分の下で隊を任せた部下に諭したことがある。叩いて壊れるのが人間なんだ、だから罰則でやたらに殴るのはいけないよ。そう言いながら、D自身は必要とあれば意図的に人間を壊すことにまったく躊躇がなかった。
独立戦争中に士官学校を卒業したDとともに、エヴァは戦時下の国内を転々とした。戦局は次第にユサチェクに優勢となり、祖国独立軍は主戦場をヨーロッパのフラメニア本国に移していった。
Dは一個中隊レベルの指揮官として本国に赴き、知り尽くした本国の地形と戦法の裏を掻いて倫理観の欠如したゲリラ攻勢を次々に仕掛け、盛んに勝ち星をあげた。
独立戦争時のDは祖国においては偉大な軍神で、フラメニアからすれば恩を仇で返す薄汚い吸血蝙蝠だった。
実際、腰まである長い黒髪に眼帯というDの外見を模した吸血鬼の風刺絵を、あの頃のフラメニアの新聞や雑誌はこぞって描いた。だがその風刺絵はフラメニア政府にとっては予想外なことに、安全圏からこの独立戦争の戦況を追う人々に、Dを奇妙に魅力的なキャラクターとして印象付ける結果になってしまった。
そのことも後年、Dの大統領選出を後押しする。
ある冬の明け方、占拠して以降宿営にしていた本国の官舎で任務帰りのDを出迎えると、部屋のドアを開けた途端に強烈な血肉の臭いがした。
玄関に入ってコートをとるDの顔色は正常で、そう疲労している様子もない。だが軍用ジャケットまで脱ぐとその下のワイシャツは血塗れで、べったりと身体に貼りついていた。
とっさにエヴァはDが負傷したのだと思い、湯を沸かさねばとキッチンに走った。
エヴァのあとからキッチンに来たDは鬱陶しそうに濡れたシャツを脱ぎ、捨てておいてくれとあっさり言った。見れば、下着になったDの肌には傷がない。
エヴァの表情からその誤解と驚愕を読み取ったらしいDは、訝しげにエヴァを見返した。なにを今更驚いている、というように。
――大抵、叩いたら壊れるからね。
誰かの臓物の臭いを指に染みつけながら、Dは取り立てて興奮も嫌悪もしていないようだった。汚れたシャツを捨て、シャワーを浴びて血を洗い流せばそれで終わる。彼女は殺戮に狂喜するタイプではなかったが、冷静だからこそおぞましさが引き立つことはある。
この人の感情は凍てついている。
エヴァがそれを痛感するのはこうした瞬間だった。
憎悪に似た強い感情なら、たしかに彼女も抱いていたのかもしれない。だけどそれは彼女を駆り立てる炎にはならなかったし、熱い涙を流させることもなかった。
一九五三年、祖国独立軍は宗主国フラメニアの降伏宣言を受けて正式に独立を成し遂げた。
新設された共和国軍で、二十四歳になっていたDは陸軍大尉を任官する。
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