第5話
住人たちに見送られてトラックが動きだしてから、窓を閉めたキャビンでDは言った。
「君は、荷役の音と振動を恐れてキャビンを出たんだろう」
どきっとしてDを見る。言い当てられたショックに肩が強張った。
その反応から答えを得たらしいDは「戦闘による心的外傷ね」とつぶやき、かすかに眉を寄せた。
何を考えているかわからないDの隣で、エヴァはそっと目を伏せた。
知らない土地の知らない人々が今は怖い。人の集まる場所を見ると動悸がする。けれど、座面越しに伝わる揺れと鈍い音はそれ以上の恐怖だった。
出所の見えない断続的な衝動は、あの夜の砲弾を思い出させる。
アムナーシュ邸が襲撃されるのは、あれがはじめてではない。本国フラメニアが占領されてユサチェクの支配者が一時的に変わった六年前、屋敷は枢軸国軍に接収されていた。
美しい屋敷を望んで手に入れた枢軸軍は、アムナーシュ邸を損なうことはしなかった。離宮のようにたまに貴賓をもてなして使用していたらしく、家財を盗まれることもなかった。 ただ、奪いはしたが返したのだから罪はないだろうと言われると、三年近くも不当に我が家を占拠されたアムナーシュ家は素直に頷けない。しかも当時エヴァも含めたアムナーシュ家の人間は、フラメニアのスパイだという疑いをかけられて常に監視されていた。
占領軍をフラメニアからの解放者として歓待したグラステの人々は、後ろ盾を失ったかたちのアムナーシュ家を公然と爪弾きにするようになった。すぐに解放者は新たな支配者だとわかってアムナーシュ家排除は一旦収まったものの、あのとき一族に向けられた憎悪は大戦後に火を噴いた。
権力者のそばで甘い汁を吸い続けた、フラメニアの飼い犬。裏切り者。
そう指弾される自分の家のことを振り返って、エヴァは自問自答を繰り返した。
アムナーシュとは、それほどまでに罪悪だろうか。そして私は?
十代はじめの頃にはすでに、エヴァは自分の足元がとても薄い氷のように思えていた。
薄い氷は少し、また少しと割られて次々に亀裂が走る。氷の遠くは溶けだして、居場所はどんどん狭くなる。最初はそばにたくさんいた人も、みんなエヴァを置いて仲良くどこかへ去ってしまう。
最後に残るのは脆い場所に恐々と立つ不確かな自分だけだった。
悪いことやずるいことを、私たちはたくさんしてしまったのだろう。同じ街の人たちに憎まれるような恥ずべき行いを、長いあいだ続けたのかもしれない。だけど、それでも。
私は家族を殺した人たちを許せない。私は彼らの憎悪よりももっと強く、彼らを憎む。
エヴァの母はエヴァが留学先から帰国する直前に、街で暴徒に襲われて殺されていた。
「私は、シェルショックの感覚がわからない」
ハンドルを切りながら、Dは低く言った。
「理解したら、私はその瞬間に死んでいるかもしれないが」
エヴァはDを見つめ、自然と唇を開きかけた。
あなたは怖くはないのか。自分が経験した悲惨も、自分が他者にしたことも。
だが、その問いは紙に書かれることもなくエヴァの中に仕舞われた。
Dをはじめて見かけたのは、鉱山事故の追悼ミサだった。ダイナマイトの暴発で坑道内が崩れ、多くの作業者が亡くなった。Dの母と兄も、その事故の犠牲者だった。
八歳のDはあの事故を生き延び、家族を失ってからも事故の前と同じ仕事を黙々とこなした。いつまた崩れるかわからない坑道に潜り、大人に混じって重たい石を運んでいた。
私だったら、きっと耐えられなかった。
エヴァは言葉を探しあぐね、うつむいた。
「ここから二十キロほど先で宿泊する予定だが、途中で車両を変える。これよりはましな乗り心地だろう」
このトラックを降りて、車両を乗り換える。すると次に寄るのは祖国独立軍の基地なのだろうか。
さっきの工場の町と南西県を地図上に配置して、エヴァは不思議に思った。
――車を変えた後は、どこへ?
Dは書きかけのノートに視線を走らせ、南西県の方向とは離れた港町の名前を言った。
「そこに至るまでの道中はやや危険地帯だが、町に入ってしまえば空爆のおそれはない。特に今晩はね」
そのときのエヴァはDが言ったことの意味を、よくわかっていなかった。
今夜は空爆されないと、Dの立場で言い切れる町。
それはその町の港湾から今夜、フラメニア同盟国の民間船が出航するからだ。
Dは何も、安全だからその町に宿泊しようと考えたわけではない。むしろ、安全を脅かすためである。
乗り換えた中型車の荷台でエヴァが眠っているうちに、Dと二人の兵士は民間人の乗るフェリーに侵入し、攻撃をしかけていた。
民間船に踏み込んだ大義名分は、密航者の取り締まりである。
エヴァの祖父である元グラステ地方総督は、グラステ攻防戦のさなかに街を逃亡して行方をくらましていた。それがこの船に偽名で乗り込み、秘密裡に本国へ脱出しようとしている。
この、元グラステ地方提督を逮捕するのがDたちの任務だった。
七十四歳になるエヴァの祖父はDに捕縛され、祖国独立軍の拘置施設に送られた。
彼は自分に手錠をかけて腰縄を打つ軍人が陸士にクーデターを起こしグラステ駐留軍基地を襲撃した眼帯の悪魔だとは知っていたが、その眼帯の悪魔がかつて自らの統治した街の鉱山で、奴隷に等しい待遇で働かせていた孤児だとは知らなかった。
祖父を犯罪者として捕えながら、Dはエヴァに何も言わなかった。フラメニアに密航しようとしていた船を襲撃した、と簡略に告げたが、それもエヴァが港町の様子から察しているだろうから、一応報告しておいただけのようだった。
寮についてから、Dはエヴァに平たい紙箱を渡した。
「よかったら使うといい」
そう言って渡された贈答用らしい箱を開けると、中身はシルクスカーフだった。
美しいデザインに一瞬心は踊ったが、Dと同行していたエヴァは彼女がこうした装飾品が買える店に寄っていないことを知っている。そもそも乏しい物資をやりくりして戦時下体制を敷いているユサチェクに、こんなに上質なスカーフが出回っているだろうか。
「あなたのおじいさまの所持品にあったものだ。本国の正式な孫娘へのお土産らしい。だったら、あなたにももらう権利はあるだろう」
エヴァは呆然と瞳を見張り、無表情のDを見つめていた。鉄兜を脱いだエヴァの髪は、薄汚れた継ぎ接ぎのスカーフで覆われていた。
「いらないのか?」
不思議そうにDが問う。そんなにみすぼらしいスカーフをしているのに? でもこの不思議そうな訊ね方も、彼女の演技なのかもしれない。
震えるように何度も首を振り、エヴァはスカーフを返した。私の祖父は。そう訊ねかけた無声の唇を読んで、Dは平坦に言った。
「出国禁止令違反でこの近所の監獄にいる」
会いたいか、とDが訊ねる。逡巡したエヴァが小さく頷くと、Dは肩をすくめてスカーフをゴミ箱に投げた。無理だよ。彼は重要人物だから。そう言ったDは自分の言動がエヴァにどう作用しているのか冷静に観察しているようだった。こちらを見つめるDの瞳が、獲物を絡めとるように黒く光っている。
「彼が我が軍との会談に応じていれば、グラステ攻防戦は起こらなかったかもしれない。我々の申し出を伝えるあなたと家族の必死の訴えに、彼が耳を傾けていさえすればね」
血の気が引いて、立っているのが限界だった。ふらついて椅子の背に掴まったエヴァに、Dは寝室なら廊下の奥だとだけ言った。
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