第4話
枯れて傷んだ花を一輪、また一輪と捨てていって、ようやく病室から色が消えても、鮮やかな香りはすっかり染みついてしまった。
半月ほどしてDが迎えにきたとき、エヴァはベッドから起き上がり、問題なく歩けるようになっていた。後遺障害として声帯の損傷と右眼球の損失。右目の下に二センチほどと、首から肩甲骨、腰に至る広範囲にも火傷の痕が薄く生じていた。
平時であればもうしばらくの加療を診断される状態だったが、かろうじて退院に差し支えはない。義眼をはめる作業と、装着中の違和感にも慣れてしまった。
慣れたというよりも、何事につけ抵抗する気持ちが希薄になったのかもしれない。
自殺に失敗してからのエヴァは大人しく入院生活を送った。模範的な患者になれるよう、つらい治療も我慢した。生きていたいと前向きに思ったわけではない。そうするより他に、今の自分には仕方がない気がしたからだ。疲れ切った身体に、もうこれ以上の抵抗を試みようという意志は残っていなかった。
エヴァに代わってDが担当の医師や看護婦と話しているあいだに、エヴァはDに与えられた兵隊服に着替えた。茶渋で染めたような上着とズボンは、どちらもサイズが大きすぎてぶかぶかだった。それでもエヴァは病院にパジャマを返すと他に着られる服がない。兵隊服は薄手だが、コートは着るとずしりと重たくあたたかかった。
病院を出るとDは、夜明けの薄暗い車寄せに停められた軍用トラックに顎をしゃくった。
「各地の基地に寄るので寮への到着は明後日の夕方以降になる。状況によっては途中から一人で行ってもらいます。荷台に兵士が二名同乗しているが、気にはならないでしょう」
言われるままに助手席に座ったエヴァは、渡されたヘルメットに戸惑ってDを見た。Dは陸士にある本部と地方の病院を往復する行程で、なんらかの任務があるらしかった。
「スカーフ、替えた方がいいでしょうね。ノートと鉛筆も」
薄グレーの三角スカーフを外していると、Dがそう言った。
首から頭にかけての包帯が取れた代わりに、エヴァは三角スカーフで頭を覆っていた。短くなった金の髪を隠すためだった。
大半が焼け焦げて破れたワンピースを解いて繕ったスカーフは、いくら綺麗な部分を選んでもみすぼらしさが勝る。膝の上の筆談用ノートは裏紙の手製で、鉛筆は指よりも短い。
顔を赤くしてスカーフを折り畳み、何も言えずにいるエヴァを見て、Dは黙って車を発進させた。地上に立つよりも目線の位置が高く、石を弾いて揺れる座席に気持ちが怯む。
郊外の路は左右を木々に囲まれ、白く凍った雪原が広がっていた。蜘蛛の足のようなバンパーが、フロントガラスに吹きつける霙を神経質に払い除け続ける。
――我が家で働いていた人たちは無事ですか。
悩んだ末に、入院中ずっと気になっていたことをノートに書いた。運転しながらその文に目をやり、Dは「あの時点ではね」と短く答えた。
「グラステは我が軍が完全掌握した。あなたの搬送時にあの場所にいた人たちは、主義心情としては独立側だ。アムナーシュ邸が落ちた時点で、グラステ攻防戦はほぼ決していた」
旧グラステ総督府には現在、祖国独立軍の司令部として使用されている。バロック様式の豪奢な建築に新しい旗が翻る写真は、ユサチェクとフラメニア双方の新聞で一面を飾った。
Dを信じていいかわからないが、あのあとで乳母たちが無事に帰宅できたと聞いてひとまず安堵しようとした。彼らのことは、ずっと気がかりだったのだ。
誰かに問い質したいことならいくらでもあった。襲撃で亡くなった祖母や伯父たちの遺体の行方や、そもそもどうして私の家族は殺されないといけなかったのか。
だがそれをDに訊ねたところで、Dの回答は祖国独立軍の曹長としての回答に過ぎない。エヴァが知りたいのはもっと根源的な、神に問うような類のことだった。しかもエヴァは家族の遺体が晒しものとして市街地を引き回されたことや、故人が眠るはずの代々の墓所も屋敷とともに吹き飛ばされたことをすでに聞き知っていた。
――寮へ向かうのに、グラステは通りますか。
「県境までなら行けるが、あなたは検問で止められる」
――わかりました。では、また今度
書きかけた文字を途中で消した。いつか自分の足で故郷を訪れ、無惨に殺された家族を弔いたい。けれどその願いをDに知られるのは怖かった。Dの反応が読めないからだ。
この人はいったい何を考えているのだろう。
装甲を施されたキャビンは広く、二席の座面はエヴァとDに加えてもう一人くらいは乗れそうだ。ゆったりと余裕を持った車内。それなのに身動きをためらうほど窮屈に感じる。
再会するまで、エヴァがDと言葉を交わした回数はそう多くない。せいぜい数回、短い会話があった程度。そこから十年の別離を挟み、もともと遠かったお互いの境遇は天と地を逆にして入れ替わった。
私にこの人がわからないように、この人も私を知らないのではないか。
Dの経歴はスポット的に報道された。だからエヴァの記憶に残っているDは写真数枚ほどの思い出なのに、よく知っている人のような気がする。だが記事に記される武勲もまた、Dの一面に過ぎないのだろう。
彼女がしたことは知っていても、彼女がなぜそうしたかはわからない。
官帽を目深に被ったDは無言で雪道を見据えている。左だけの視界に写るDは眼帯の横顔で、ごく稀に道を横断する住人を見かけて先を譲るとき以外は表情を動かさなかった。
朝早くに病院を出発して四時間ほど、エヴァは静止画のように黙って車窓にいた。
「あと十キロで一度停めます。荷渡しのため停車させるので、エヴァは休憩を」
トラックは森に沿うように走っていた。雪に突っ立つ標識を見送り、Dは言った。
積雪にも耐える六輪駆動のトラックはいつのまにか雪かきをされた土道を進んでいて、まばらな木々と反対側には民家がかなりの間隔を開けて点在している。
窓から外を眺めているうちに、民家の方面の雪の積もり方がおかしいのに気づいた。
ひと続きの大地なのに、やけに雪面に高低がある。築山のような異様な膨らみだ。
車体より低い雪山から煙突の先が突き出ていた。倒壊した家の瓦礫に雪が積もっている。
空爆されたのだ。雪の降り積もり方からして、爆撃を受けたのは五日ほどは前か。
民家と反対側の森林部も、薪木用の伐採とは思えない無理無体になぎ倒された木々が目についた。雪深い田舎町は、薪木を奪われると冬が越せない。
運転しながら、Dは後ろ手でキャビンの背面に切り抜かれた小窓のシャッターを上げた。「予定通り到着する。停めたら降りてくれ」と声を張る。太い声の応答があった。
「あそこの工場が目的地だ。この地域の避難本部になっている。ここ一帯は繊維系の工場群なんだが、先週の空爆から工場機能が停止してしまって、しかも雪で孤立している」
胸から迫り上がってくるような不安を堪えて、Dを見つめて頷いた。震える手をコートの袖に隠す。
すぐ前方に、工場らしい巨大な建物が現れた。その庭先で遊んでいた数人の子供が、トラックを指さして顔を綻ばせ、建物に向かって何か叫んだ。ひとり、またひとりと、防寒着をまとった住人が建物から出てくる。
Dは彼らに片手を上げた。まだ二十メートルほど距離はあるが一度停車させる。荷台から降りた二人の青年兵士が、運転席のDに合図をして工場に駆けていった。
灰色の工場の壁には、いくつも砲弾の傷があった。その工場の陰にトラックを停めたDは「降りてもいいが、トラックから離れないで」と言い残してキャビンから出ていった。
どうしたらいいのだろうと戸惑いながら、エヴァは助手席からDを目で追いかけた。
Dは工場から出てきた人々に笑顔を見せ、リーダー格らしい中年男性となごやかに言葉を交わしている。
トラックの後部から、エヴァの座る助手席に振動が伝わってきた。積荷を降ろしているらしい。Dも荷台の方へ回ったようで、キャビンの窓からは見えなくなった。
目立たないように、エヴァもキャビンを出た。
Dと兵士は荷台に上がり、木箱を地面に降ろしている。箱は重たい音をたてて積み上げられ、エヴァと同じ服装をした兵士がそれを確認して帳簿をつけている。
――運びますか?
車内で書いていたノートを見せると、木箱を抱えたDは笑って首を振った。
「いいよ。すぐに終わる」
トラックの周囲は凍ったような濃い色の土が剥き出しだった。部下二人が手早く雪をどけたのか、ボディのそばにショベルが刺さっている。跳ね上げ式のリアドアが荷役の場所を雪から守っていた。
木箱を下ろして一度奥に引っ込んだDは、丸めた布を二抱えと背嚢を持ってきた。
「手持ち無沙汰だったら寝袋を干してくれ。側面の幌を引いたらテントになる」
腕いっぱいの荷物を受け止めて、うなずいた。思いのほか重量があってよろけそうになる。
ずっしりと重たい背嚢の中身は、やはりペグなどの金属類とハンマーだった。エヴァはボディの横に回り、ゴム紐で留められた二重幌を外していった。
緊急時のためのテントの張り方は大戦中に地元の青少年団体で学んだ。数人で協力して制限時間内に軍幕テントを張る訓練や、幌馬車の幌を外して天幕にする練習。
あれはまだ、フラメニア本国が枢軸国に占領される前だった。
ペグを打ち込みながら、義眼の右目が痛むのを感じた。約二週間ぶりに野外で身体を動かしているからか、ハンマーひとつ持つのでも腕が震える。
身体の節々は悲鳴を上げているが、なんとか滞りなく雪避けが完成した。エヴァは背嚢の中を探り、組み立て式の物干し竿を見つけだした。
中綿の厚い寝袋を二つ並べて干し終えたときには、すっかり疲れていた。トラックの天板の角を頂点に三角に張ったテントの下で膝を抱え、エヴァは息をついて寝袋を見上げた。
幌は土と鉄の匂いが染みついていて、寝袋は汗臭い。膝を抱えてしゃがむエヴァの背中は、地面に向けて収束していくテントに押されている。それでもあの夜からのどの瞬間よりも、このテントの中に身体を小さくして隠れている今が安心した。
いつしか荷下ろしの音が収まり、車輪を引きずる音がした。子供たちの歓声が聞こえる。
「たいしたものじゃないか」
しばらく経ってから、三角の側面からDが顔をのぞかせた。
ぼんやりと顔を伏せていたエヴァは、弾かれたように顔を上げた。
「出発までは三十分くらいかな。片付けはやるから、時間までそこでゆっくりしておいで」
軍コートの背を向けてDはあっさりと去った。その背中を見送ってから、エヴァは自分がはっきりと震えていることに気がついた。
その途端エヴァの脳裏に、あの夜の光景が蘇った。
砲弾を受けて崩れ落ちる壁。立ち込める硝煙で息ができなくなる。砕けた窓ガラスが矢のように降り注ぎ、エヴァの腕の中で幼い従妹が泣くこともできずにぐったりと失神した。
ほんの数年前まで仲のいい友人だった、一緒に防災訓練をした青年たちが家族に機銃掃射を浴びせ、エヴァにもその銃口を向けた。
それからの途切れ途切れの記憶のどこかで、エヴァはたしかにDを見たのだ。さっきと同じ、どこか面白がるような無表情で、Dは近くの誰かの報告を聞いていた。
「馬鹿とハサミは使いようというらしいが、ハサミを使えない馬鹿は一体どうしたらいいんだろうね」
嘲る価値すらないと言いたげな醒めた声でそう言い捨て、Dはこちらに近づいてきた。彼女は仰向けに倒れたエヴァの顔を覗きこみ、唇の端だけで笑った。
暗がりにいくつものオレンジの照明を見た気がしたのは、倒壊した部屋を方々から燃やす火の手だったのかもしれない。
銀の鋭い先端が、いやに光って目を射った。
死神。
その言葉を思い浮かべたのは、家族の遺体が転がるあの部屋ではなかったか。彼女が家族を手にかけたわけではない。それでも、彼女は死体のようになった私から――。
声にならない叫びを手で押さえ、浮かんだ考えを打ち消すために頭を振った。眩暈を堪えて立ち上がり、ロープに干していた寝袋をはたいた。そう長い時間は干せなかったが、乾いた空気のおかげが湿り気はなくなっている。
寝袋を畳み、物干しを片付けた。テントにしていた幌をトラックのボディに掛け直す。
わからない。いま思い出したこれはすべて正しい記憶なのか。それとも救出された後の、熱にうなされながら荷車に寝かされていたときの印象と混じってしまったのか。
長袖の兵隊服に革のコートを着ていても、骨まで凍えるように寒かった。
荷物をリアドアに持っていくと、Dと部下たちは工場の庭にいた。トラック一台分の配給品をすべて運搬し終えたらしい。住人たちは感激した面持ちで、祖国独立軍の彼らにねぎらいの言葉を掛けている。
「軍曹さん、また来てくれますか?」
まだ五歳ほどの男の子が、目をきらきらさせてDに聞いた。
「ああ、また来るよ」
Dは明るく言って、リンゴのように赤い頬をした子供の頭を撫でた。子供たちはDを軍曹さんと呼んでじゃれついている。
「ちょっと、軍曹さんではないのよ。もっと偉くなったの」
子供の姉か若い母親が、あきれ顔でたしなめた。Dは屈託なく「現在は祖国独立軍の曹長を任官しました」と笑った。
「ほら、たくさん活躍したから位が上がったの。ね、曹長さんよ。言ってごらん」
不思議そうに「曹長?」と言っている子供たちになんでもいいよと優しく言って頭を撫で、Dは後ろに控えていた青年二人を振り返った。
それまでは影のようだった、無言の青年兵士二人がさっと姿勢を正す。
「二人はじきに軍曹になります。次にこうして来たときには、彼らは星をつけている」
Dよりも背が高く、年嵩にも見える二人の表情は思いがけない上官の言葉に輝いた。微笑み慣れない人のように顔を綻ばせる。自然と住人たちから拍手と歓声がわいた。
彼らにとって、Dは紛れもなく英雄なのだ。
直線距離にして、トラックから庭までは十メートル程度しかない。だがエヴァにはあの和やかな庭先とひとりきりの自分の間に、深く激しい川が流れているように思えた。
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