第3話

 開戦当初、戦いは兵力物量で圧倒するフラメニアがあきらかに優勢だった。


 ユサチェクは陸軍士官学校の所在地である南西県には一指も触れさせなかったものの、首都やグラステといった主要都市では激しい市街戦が展開された。

 ここまで痛めつければすぐに泣きを入れてくるだろう。フラメニア以外の国の人々も、誰もがそう思っていた。


 そのフラメニア優位の戦局が揺らいだのが、一九四八年十一月のグラステ攻防戦だった。


 Dはグラステ攻防戦で英雄になった。そしてエヴァは、この戦いですべてを失った。


 国内有数の鉱山保有地であるグラステは伝統的に宗主国支配の影響が強い県である。占領時には一度帰国したエヴァの祖父は戦後ふたたびグラステ地方総督として赴任し、戦前と変わらぬ統治体制を敷いていた。


 グラステだけは落とせない。


 ユサチェクの宣戦布告を受けて本国がいちはやく征圧したのもグラステだった。

 フラメニアにとっては統治の象徴、ユサチェクにとっては反撃の狼煙。

 両国ともにグラステは、死しても勝ち取らねばならない天王山だった。だから祖国戦争におけるグラステ攻防戦とは、フラメニアに占領されたグラステを祖国独立軍とグラステ住民が取り戻そうとする戦いだった。


 十月の終わりからひと月続いたグラステ攻防戦で、Dはフラメニア軍基地への襲撃作戦を指揮し成功させた。そして敵軍基地から奪った兵站で市街戦を有利にした。

 武器を手にしたグラステ住民は、長年の鬱憤を晴らすかのように猛攻をかけた。宗主国的である人や事物は、すべてが彼らの敵と見なされた。もしアムナーシュ家の娘でなかったとしても、この状況の故郷に帰ってくるべきではなかった。


 だがエヴァは、ここに戻るしかなかったのだ。あの時代のフラメニアに、ユサチェク人の私生児であるエヴァの居場所はなかった。


 そして事件はユサチェク国籍を理由に寄宿学校を放校になり、罪状のない逮捕で強制送還処分を下されて帰国したエヴァを待ちかねていたように起きた。


 アムナーシュ邸への直接攻撃を決定したのはDより上位の人間だろう。当時Dの軍での役割は戦闘経験度合いの異なる兵士たちの指揮をとり、命令を確実に遂行させることだった。

 アムナーシュ邸の焼き討ちに、Dが関与した記録は残っていない。

 だがDの名を売り昇進させたグラステ攻防戦において、Dが少しも関わらなかった作戦があるとは思い難いのだ。


 汚れた軍靴で屋敷に雪崩れ込んできた祖国独立軍の兵士たちは、エヴァの知った顔ばかりだった。砲弾の破片が刺さった痛みと出血で朦朧としながら、エヴァは建物の崩れていく騒音を断末魔の叫びとして聞いた。

 倒れ込んだエヴァに銃口を突きつけたのは、かつての友人のひとりだった。

 殺すな、という声を聞いたような気がする。


――気をつけろ。殺すなという命令だぞ。


 記憶はそこで一度途切れて、気がついたら固い板に仰向けに寝かされていた。棺桶のようだと思ったそれは荷車で、エヴァは祖国独立軍の撤収を待って救出にきた以前の使用人たちに助け出されたようだった。

 屋敷で働いていた人たちには、エヴァの留学中に暇が出されていた。ずいぶんと懐かしい顔ばかりが並んでいる。けれど今のエヴァには、自分を取り囲む家政婦や馬丁の姿が独立軍の兵士たちと重なった。

 とっさに叫んだはずの声は壊れた笛の音で、荷台の上の身体は一指も動かない。


「お嬢さま、目が……」


 右頬に白い掌が触れた。そのときはじめてエヴァは顔の右半分が崩れ落ちそうに痛んでいることに気がついた。激痛を知覚した途端、すさまじい嘔吐感が込み上げてくる。頭上で誰かが悲鳴を上げた。

 すぐに医者を。でも先生はこの街から逃げ出した。総督様の診療所だったら。

 半日かけて辿り着いたフラメニア政府の病院に治療を拒まれて立ち往生になる頃には、エヴァの右目はもう痛みも感じなくなっていた。

死がすぐそばまで来ている。

 息をするたびに喉に血が溜まり、閉じられない口からぬるい血が溢れ出た。なんども意識が消えて、うっすらと蘇生するのを繰り返す。

 使用人たちが泣いているのがわかった。姉のようだった乳母が、エレオノール様と叫んでエヴァの肩に縋りついた。唇からこぼれる血を拭い、どうにか傷を手当てしようとする。

 他の人に見られたら自分の身が危なくなってしまうのに、優しい人たちだ。


 もう助からないだろうから、みんなは早く逃げて。お願いだから。


 ありがとうと言おうとして、エヴァは声すら出なくなっていることを知った。焼けつくように喉が痛む。唇からは壊れた笛の音が切れ切れに漏れるばかりだった。


「失礼、その怪我人はアムナーシュ家の方ですね」


 荷台のエヴァを、軍服の女が覗き込んだ。

 黒髪に眼帯のその女は、エヴァに向かって快晴のような笑顔を見せた。

 死神に笑いかけられている。

 瀕死の身体に最後の剣が突き立てられたように、エヴァの意識はそこで死んだ。



 Dの口利きで、エヴァは陸軍士官学校の付属病院に搬送された。そこで緊急手術を受けて生命の危機は脱したものの、右目の失明も声帯の損傷も手の施しようがなかった。


 咽喉部をその内側から、まるでこそげとったように損傷した声帯は、頸部に深く刺さった砲弾の破片とは違う要因によると思われる。医師はそう言っていたが、手術後の丸二昼夜に渡る昏睡から目覚めたエヴァは今更あらためて怪我の原因を考える気にもなれなかった。


 私は声を失った。右の瞳をなくし、帰る家も家族もすべて奪われた。


 仰向けに寝かされたエヴァの左目に、寒々しい白の天井が見えた。戦時下で病床は足りていないだろうに、どういうわけかエヴァはひとり部屋を与えられていた。


 腰まであった金の髪は治療のために短く切られ、頭から首にかけてきつく包帯が巻かれていた。背中が擦れてひりひりと痛む。この白いパジャマの下にも包帯が巻かれているのかもしれないが、熱と倦怠に浮かされた頭は四肢の感覚をうまく捉えられない。

 ひどく吐き気がした。空の眼窩に刺した熱い鉄の棒で、脳髄を掻き回されているようだ。

 ばらばらになった身体は、ただ重たく煩わしいだけだった。

 固定され、それでも不安定に揺れる視界に、エヴァを生かす数本の管が映っていた。


 この管を全部抜いてしまえば、これ以上苦しまないですむ。


 首元に繋がっているらしい管の一本を手に取りかけたとき、ノックとともに病室のドアが開いた。


 馬鹿馬鹿しいほどに大きな薔薇の花束を抱えたDが、ベッドのエヴァに微笑みかける。

 刺されたような痛みが胸に走って、エヴァはとっさに透明な管を強く握りしめた。


「その管なら栄養剤だよ。終わらせたいなら鼻に通っているチューブだね」


 Dはこともなげに言って、ベッドのそばの椅子に座った。軍用ズボンの脚を組み、官帽を脱ごうという様子もない。

 祖国独立軍のカーキの軍服を着たシルエットに、かつて鉱山労働をしていた頃の痩せて薄汚れた少女の面影はなくなっていた。長く伸ばした黒髪は艶めき、鍛えられた体躯が底冷えするような威圧感を放っている。

 変わらないのは左目の眼帯だけだった。だがこの眼帯もありあわせの布切れで間に合わせていたあの頃と違って、顔のかたちに合った黒革のものになっている。


 フラメニア設立の陸軍士官学校がクーデターによって祖国独立軍の管轄になった事件は、本国でも大きく取り上げられた。クーデターの首謀者Dについても、国内解放軍の少年兵から特例で陸士に入学した経歴とともに『恥知らずの裏切り者』として報道された。

 エヴァも留学先の寄宿舎でその記事を読んだ。あの少女が、という驚愕よりも、なにもかもが非現実的すぎて信じられなかった。同い年のDが本国でレジスタンスに関わっていたというのも驚きだったし、官費学生でありながら集団で反抗して士官学校の士官先を変えてしまうなんて前代未聞だ。エヴァからすれば教会で神の似姿に砂を投げようとするぐらい、思いつきもしない非常識な行いだった。

 新聞に掲載されたDの写真は、陸軍士官学校の制服を着ていても確かにあのときの少女の面影があった。だけどいまエヴァが片目だけで写しとるDの姿は、見覚えはあっても知らない人としか思えない。

 Dは薔薇の花びらを弄びながらエヴァを見下ろしている。その腕に抱えられた薔薇たちは、黒く輝いて見えるほど紅に濃い。


 この人がやったのだ。


 静かな表情に滲む冷たい愉悦に、エヴァはそう直観した。この人が私たちの家を燃やし、私の家族を殺した。


 だが、一瞬エヴァの心に燃えかけた怒りはすぐにしぼんだ。

 あきらめに目を伏せたエヴァの表情を観察して、Dはゆっくりと唇を開いた。


「昔、あなたは私に薔薇をくれた」


 エヴァの胸が苦さで満ちた。

 十一年前、地方総督の鉱山視察に伴われたエヴァはDに薔薇を渡した。当時の自分の思慮のなさに気づいてから、エヴァはずっとその振る舞いを恥じてきた。


 Dは笑い、赤い薔薇を一本抜き取った。嬉しかったんですよ、と言う。


「花も丸ごと食べれば腹の足しになる」


 そう嘯いて、Dは八分咲きの花冠を噛み砕いた。まるでアスパラガスでも咀嚼するように、棘だらけの茎まで食べてしまう。

 一本減っても大きな花束をエヴァの枕元に投げ、Dは眼帯を外した。

 眼帯の下にはなにもなかった。ただつるりとした皮膚が頬の延長のように広がっている。


「退院したら、私の生活を手伝ってください」


 有無を言わせない以上に、Dの真意がわからなかった。祖国独立軍に参加しろということだろうか。まともに声を出せなくなって、しかも武器を扱えるわけでもない自分が軍隊で役に立つとは思えない。兵力としてではなく、アムナーシュ家の転向を示すためだろうか。


「ああ、そういうことじゃない。言葉のままです。私はいま陸士の官舎に住んでいるから、その部屋のハウスキープをしてほしいんです」


 エヴァの困惑を読み取ったようにDは言った。三度の食事と住む場所は保証する。なにより私の紹介で士官学校にいれば、どちらの人間からも攻撃されることはない。


「私はこれから、あなたの右目になる。だからあなたは私の左目になってください」


 それは優しさではなくて、すべてを失ったエヴァへのせせら笑いだった。


 義眼は作らせているけど、あれは入れても見えないですからね。あっけない口調でそう言いながら、Dはふたたび眼帯をつけた。


「だけどエレオノール・ダフネ・アムナーシュという名前だとどうしても目立つな……。エヴァでいいでしょう。身元を偽る必要はないが、改名手続きだけしておきます」


 エヴァ――。


 まるで思いつきのように名前の変更を告げられ、エヴァは去っていくDを呆然と見つめた。だが驚きはしても、抗おうという気にはなれなかった。いまさら名前をなんと変えたところで、過去を変えることはできないのだ。もう、エレオノールと呼んでくれる家族も友人もいないのだから。


 ほどなくしてDと入れ替わりのように見回りにきた看護婦は、ごく当たり前に彼女をエヴァと呼んだ。


「点滴の針が抜けかけたんですって? だめよ、無理に起きあがろうとしちゃ」


 チューブの位置を固定しながら、看護婦はエヴァの枕元にある薔薇の花束に目を細めた。いい香りね、とうっとりした声で言う。


「ベッドから見える位置に飾りましょう。本当に素敵な贈り物。いい気晴らしになるわね」


 屈託なく微笑まれて、エヴァは瞳で肯定するしかなかった。声を自在に発せるなら、ぜひもっとたくさんの人が見られる場所にと自然に伝えられたのに、それもできない。


「あなたのことは曹長さんからよく頼まれているの。大切な恩人だから、できる限りのことをしたいって」


 士官候補生のDは祖国独立軍内で曹長の位を得ているらしい。まだ若いのに立派な人よ、と看護婦は語る。エヴァよりも五つ六つ年上に見える彼女は、祖国独立軍におけるDの戦歴と、優しく気遣いのできるDの性格を褒めたたえた。エヴァの出自は知らないようで、ただDのおかげで急死に一生を得たDの友人と認識しているらしい。応急手当てを受けながら軍用トラックで運ばれたこの付属病院は、グラステの外の田舎町にあった。

 腕に抱えるのにも苦労するほどの本数の薔薇は、病院に余っていた花瓶を三つ占拠した。ベッドサイドのチェストに置かれたデザイン違いの三つの花瓶。壁もベッドも病衣も白い無彩色めいた病室で、Dの薔薇だけが色を持っている。あきらかな異物でありながら、花は漂白された空間をじわじわと浸食するようだった。


 薔薇に顔を背けて、エヴァは自身の鼻から経鼻カニューレを抜いた。直されたばかりの首のチューブを取り、内肘の針を外す。恐怖ではなく力が入らないために震える手で、届く範囲の管をすべて取り外した。


 外し終えたときには呼吸は荒くなっていて、次第に脳内に靄がかかっていった。ぼんやりと薄れていく意識の中で、身体を砕くような苦痛だけが続いている。でもいっときの苦しさを耐えたら、これ以上の辱めや悲しみを受けなくてすむ。


 だが脂汗を流して高熱にうなされながら、死という解放をエヴァが得ることはなかった。


 意識を取り戻したエヴァは、薔薇を活けた担当の看護婦に叱られた。こちらの心臓が止まるかと思った。もうあと一歩遅ければあなたは今度こそ危なかった。


 繰り返しのような白い天井に、エヴァは失敗を実感した。漂白したような天井の白が、瞬きをするたびに赤黒く暗転していくようだった。


「エヴァ、今は非常時なのよ。みんな戦っているわ。正直、この病院だって手一杯なんです。なにもかもが足りないの。そのなかで優先的に命を救われたあなたはとても恵まれていると思う。家族を失って大変な怪我をして、自棄になる気持ちもわかるけれど……でもあなたを生かすための時間に亡くなった人がいることは忘れないで」


 正論に、ただ恥ずかしく身を縮めていることしかできない。私の苦しみの何がわかるのと無分別に泣きわめくには、十九の彼女は歳を取り過ぎていた。


 仰向けのエヴァを覗き込み、看護婦は「曹長さんが悲しむわ」と言った。


「あなたが無茶をするかもしれないから、よく気をつけていてほしいと言われていたの。でもまだ酸素を外す程度でよかったわ。これに懲りたらもう馬鹿なことはしないでね」


 優しく言われた言葉が、胸に閊えて固まった。そして面会に来たDの、あの軽口の真意をようやく悟る。


 死のうとしていたエヴァに、Dはわざと苦しいだけで死ねない方法を示唆したのだ。


 くたびれ切っていた心の残滓が、ついに粉々になった気がした。

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