第2話
エヴァがDとはじめて言葉を交わした翌年、本国フラメニアは第二次世界大戦に連合国側の一員として参加を決めた。その宗主国の決定に従って、この国にも戦時下体制が敷かれることとなった。
エヴァの暮らしは、思い返せばこの頃からゆるやかに斜陽を帯びていったのだ。
彼女が自身の生活にはっきりとした影を感じたのは、一九四二年にフラメニア本国全土が敵国の占領下に置かれたときだった。占領軍は本国に続き、この遠い属国にも支配の手を伸ばした。ユサチェクを支配する者の旗は変わり、エヴァの祖父であるグラステ総督は本国へ帰っていった。
ひたすら暗く寂しかった占領下時代、エヴァがDと会うことはなかった。
Dはフラメニアが占領される直前、徴用で本国へ送られていたのだ。D自身は十三歳だったが、徴用対象だった身重の鉱山仲間の代わりに船に乗ったという。徴用工として働く予定の兵器工場が倒壊して行き場を失ったDは、占領下のフラメニアでなかば無理矢理レジスタンス勢力に組み込まれて少年兵になった。
――どうして他人の国のために命を投げ出して戦わねばならないのか、その疑問はずっとあった。
Dが心の底からそうした『疑問』を感じていたのか、エヴァは昔もいまも疑いを抱いている。だが、その言葉は終戦後、独立のため立ち上がった人々を鼓舞するスローガンになった。
フラメニアは一九四四年に領土を取り返し、一九四五年の欧州戦線終によって最終的に勝利者として大戦を終えた。一度他国の手に渡った植民地を取り返したフラメニアは、当然のようにユサチェク支配を再開する。
首都の中央総督府にふたたび主席総督と各地の地方総督が入場したその日、総督府前では大規模な自治権回復デモが行われた。三千人に及んだデモの参加者は放水と爆竹によって蹴散らされ、参加者たちは手あたり次第に逮捕された。独立を目指すユサチェク国民と、それを無視して力で捩じ伏せようとするフラメニアの軋轢は深まるばかりだった。
ユサチェク側は対等な立場での話し合いを求め、フラメニアはユサチェク国民をテーブルのある会談室に入れようとしなかった。友人としての話し合いに応じないのなら武力蜂起しかないと、祖国独立軍なる革命組織が結成された。
国内情勢が不安定さを増すなか、十六歳になっていたエヴァは高等教育を受けるためにフラメニアの首都にある女子寄宿学校へ留学することになり、反対にDは用済みになったとばかりにこの国へ送り返された。
だがDの人生ゲームは、この時期を境に華々しい快進撃を見せていく。
陸軍士官学校への入学が、その皮切りだろう。
帰国したDは本国の解放戦線に加わっていた経歴が評価され、この国の南西部に新規設立されたフラメニア共和国陸軍士官学校への受験資格を得た。
本来フラメニアにおいて、共和国軍士官学校の受験資格は十八歳以上の中等教育修了者となっている。Dは規定年齢に二歳足りず、またいっさいの教育を受けていなかった。それでも彼女は陸軍士官を受験し、合格を勝ち取った。
Dがフラメニア国内解放軍の歩兵だったことはフラメニア側の記録に明記されており、部隊長や同僚の証言からも間違いない。そしてこの特例受験からも、解放軍内での彼女の働きぶりをうかがうことができる。
――衣食住が官費で賄われ、卒業すれば尉官からキャリアをスタートできる。なにも持たず、ただ戦場に身を置いた経験だけがあった当時の私にとって、食っていくためにこれ以上の選択肢はなかっただろう。
彼女は第一期合格者八〇人中、六番の成績で入学を許可された。唯一の女子生徒であり、最年少合格者でもあった。
陸軍士官学校への入学と同時期、Dは祖国独立軍に志願入隊している。祖国独立軍はフラメニア統治下において非合法組織だったので、その活動は地下に潜って秘密裡に行われた。
間違いなく独立運動が激化するという展望のもと、Dは陸軍士官学校生として公的な地位を手にしつつ地下組織の独立軍に参加した。
フラメニア本国の解放戦線で築いた実績にプラスして、陸軍士官学校在学中という華々しい経歴。Dが持ってきたふたつのお土産は、あるものといえば滾り立つ熱意だけで戦略も物資もろくにない祖国独立軍内で一目置かれることとなり、彼女は一気に若手兵士の筆頭格に躍り出た。
士官学校の二年目、Dは全生徒と一部の指導教官を扇動して駐留フラメニア軍相手にクーデターを起こした。初代校長の本国軍准将を退任させ、校名をユサチェク陸軍士官学校と変更。そして学校の教育目的を宗主国フラメニアの尉官養成ではなく、祖国のための指揮官養成へと変革させる。
当然のことながら、本国は激怒した。そもそもユサチェクに陸士を設立したのはインフラ整備における教育機関拡充の一環である。ユサチェク人に感謝されこそすれ、こんな強盗行為で恩に報いられるとは思ってもみなかった。しかも首謀者の女生徒Dに戦いの作法を教え実戦経験を積ませてやったのは、我が国のレジスタンスだというではないか。
陸士のクーデター後、ユサチェク祖国独立軍は本国政府に植民地支配の撤廃と完全自治の回復を求める書状を送っている。だがフラメニアはこれを猛然と拒絶し、ユサチェク国内における締め付けの強化と本国に滞在するユサチェク人の排斥運動で報復した。
一九四七年十二月、祖国独立軍による臨時政府は本国フラメニアに最後通牒を提出した。
四十八時間以内にユサチェクの完全自治回復に向けた話し合いの場を設けること。この通告は各国で大きく報道されたが、フラメニアは独立交渉を拒否する姿勢を崩さなかった。
いわく、ユサチェクとは我が国の血肉の一部であり、それゆえにこれは宣戦布告ではない。国家と国家なら紛争を行うことができるが、人間と羊は永遠に導くものと導かれるものだ。
四十八時間後、フラメニアは会談日程を提示する代わりにユサチェクに向けて爆撃機を発進させた。後にユサチェク祖国戦争と呼ばれることになる長い独立紛争の始まりだった。
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