第1話
エヴァは十代の終わりまで、家族や友人たちからエレオノールと呼ばれていた。
エレオノール・ダフネ・アムナーシュという、かつての宗主国の影響を強く受けた彼女の本名を変えさせたのはDである。
その頃には彼女自身も、美しく優雅なこの名前への思い入れを失っていた。
歴史を紐解けばかぎりがないが、ユサチェクは古来一貫して弱小国だった。
ユサチェク王国は十八世紀の終わりに欧州の伝統国フラメニアの侵攻を受け敗北、実行支配を受けるに至った。植民地時代の国名はフラメニア領ユサチェク。支配の開始当初は、宗主国にとってそう大きな意味を持つ属国でもなかったようである。
それはひとえに、ユサチェクという島国が途方もなく貧しかったからだ。総面積二〇万強の国土は寒冷な気候のためか、農業ではまったくといっていいほど振るわなかった。
フラメニア領ユサチェクの転機は、ヨーロッパではじまった産業革命だった。
科学開発が進むにつれ、作物の育ちにくいユサチェクの痩せ土の下には天然ガス田やウラン、ラドン鉱山といった天然資源が潤沢に隠れていることが判明した。フラメニア政府は俄然この海を隔てた植民地を重要視して支配を強め、島国の主要な各地方に地方総督を置いて利権を搾り上げはじめた。
エヴァが生まれ育ったグラステ地方一帯も、鉱山採掘業で大いに栄えた。
アムナーシュ家は王国時代から続くグラステの領主貴族で、併合以降はフラメニアの地方総督の下で引き続きグラステ運営を代行した。ようは宗主国側の指令に従って現地住民を監督し、諸税を取り立てる任務を新たな統治者から課せられたのだ。
アムナーシュ一族はグラステの王だった。そんなアムナーシュの王様の娘が、地方総督の息子と結ばれて生まれたのがエヴァである。ただし、まだ少女といって差し支えのない年齢のエヴァの母は若い父の現地妻に過ぎなかった。
彼女をエレオノールと名付けた父親は実父の任地を旅行で訪れた学生で、一年間の休暇を終えるとあっさりと本国に帰っていった。だがグラステ統治を円滑に進めたい地方総督は息子の火遊びの名残であるエヴァを正式な結婚による孫同然に扱い、なにくれとなくアムナーシュ家を援助した。帰国した父に会うことはなかったが、そのことを疑問に思う隙間がないくらい、エヴァはアムナーシュ家の人々や地方総督に大切にされていた。
正しい行いをしなさい、というのが地方総督の口癖だった。おまえはすでに可愛いのだから、正しい女性であるように努めなさい。幼い頃から祈りのように言い聞かされたその言葉は、エヴァの長い人生の指標になり、また呪縛にもなった。
黒目黒髪の人が大多数を占めるユサチェクで、エヴァの金の髪と青い瞳は人目を引いた。エヴァの周囲にはいつも同世代の子供が取り巻き、街の大人たちはエヴァに優しかった。
同じ頃、Dはグラステの鉱山街で『一つ目』と呼ばれていた。
エヴァがDを見知ったのは初等学校に入学する前の年頃だったが、その頃すでに彼女は左目を隠していた。のちに革命軍で名を上げ、その名とともに国中に広まったトレードマークの黒い眼帯を、Dは物心つく前から身に着けていたらしい。
――私の左目がないのは先天性のものだ。あまりに気味悪がられるから、母が布で隠してくれていた。はじめて物を見たときからこうなのだから不自由はなかった。きちんとした医者にかかる金もなく、正式に医師の診断を受けたのは陸軍士官学校の入学試験だった。
後年のDがインタビュー等で語っていた内容は、エヴァの知る限り事実である。
Dの母は子供ふたりを連れて鉱山で働いていた。手押し車を使って坑道から鉱石を運搬する仕事だったという。幼いDと兄も母について石を運んでいたが、Dの母と兄は鉱山事故に巻き込まれて亡くなった。
その鉱山事故の追悼ミサで、貴賓席のエヴァはDを見かけたのだ。梳ることを知らない長い黒髪を伸ばしっぱなしにして、黒い眼帯で左眼を覆った同年輩の少女。神父の祈りの言葉を聞きながら、自分の家族を殺した山を無表情に見つめていた。
彼女も山の事故で怪我をしたのかと、屋敷に帰る自動車で姉のように若い乳母に訊ねた。
「女の子? 誰のこと?」
「さっきミサにいた、片目を隠した女の子よ」
「ああ、『一つ目』ね。あの眼は生まれつきらしいですよ」
そんな会話を、とぼとぼと家路に着く人々を遠慮なく追い抜かして走るフォードの中で交わした。幼いエヴァは幼い心で、生まれつき片目しかないという少女を可哀想に思った。
十数人の死者を出したその事故の直後から、地方総督は操業中のラドン鉱山への視察に、孫娘のエヴァを同行させるようになった。
鉱山の視察に向かう地方総督が、現地住民からの反感を躱そうと現地の血を引く幼い少女を連れて行く。家族の言いつけ通りに身なりを整え、行儀よく地方総督と手を繋いで歩くエヴァは、子供ながら自分たちに向けられる視線の苦々しさには気がついていた。
歓迎していないことがあきらかな眼。うすら笑いを浮かべた慇懃無礼な態度。
ここでは誰もが私を嫌っている。きっと私のこの行いは恥ずべき行為なのだ。
そう思いながら、エヴァはまだ自分の感じた躊躇いをどう伝えれば、総督である祖父の感情を害さずに同行を断れるのかわからなかった。視察のたびに臆病な気持ちになりながら、堂々と大股で進む地方総督の歩幅に遅れてはならないと、必死について歩くばかりだった。
眼帯の少女をふたたび見かけたのは、その視察の途中だった。石を満載した籠を運んでいた少女は地方総督とエヴァに気づき、籠を抱えたまますばやく頭を下げた。
とげとげしい視線に緊張していたエヴァは、少女のその振る舞いに安堵と胸の痛みの両方を感じた。自分と同じ年齢の少女が家族を亡くして、生きるために危険な現場で働いている。それをこうして監督者のように見て回っている自分の姿に、言葉にならない申し訳なさを覚えたのだった。
エヴァは次の視察のとき、その少女のために淡い薄黄色の薔薇の花を持っていった。
数年後には己の行動を振り返って、なんて愚かだったのだろうと深く恥じることになる。だが八歳のエヴァはただ単純に、自分がもらって一番嬉しいと思うものを彼女に選んだ。
孤児になってからのDは鉱山スラムのバラック小屋に住み、学校にも行かずに働いていた。エヴァはDが自分と正反対の暮らしを送っているのは聞き知っていたのに、喜ぶものが違うかもしれないとまでは考えられなかった。そもそも彼女が自分からの贈り物を喜ばない可能性など、思いつきもしなかった。
鞭を持った上長に呼ばれてエヴァの待つ安全な区域にやってきたDは、エヴァの差し出した一輪の薔薇に笑顔を見せた。
その笑顔を、エヴァはのちに数えきれないほど見ることになる。自由になる右目を魅力的に細め、赤い唇を笑みの形に引いたDの笑顔はその明るさに反して感情をまったく伴わない。Dが見せるあまたの表情の中で、冷笑よりも怖いのはこうした陽性の笑みだった。
「お仕事、大変でしょう。お身体は大丈夫?」
「とんでもありません、お嬢さま」
「左目は不自由していませんか? 痛かったり、治療が必要だったりは……」
「お心遣い感謝いたします。でも、生まれつきですから慣れています」
闊達にそう言って、Dは深く頭を下げた。
「エレオノールお嬢さまに声をかけていただけるなんて、とても嬉しいです」
「そんなふうに畏まらないで。私も、あなたとお話してみたかったの」
「本当ですか? ありがとうございます」
白い歯をきらりと覗かせ、さも感激したように笑ったDは、いただいたお花は母と兄の墓に捧げますと言った。
その笑顔を見て、エヴァはDが喜んでくれたとほっとした。
それからエヴァは、祖父に付き従って鉱山を訪れるたびにDを探した。仕事中のDはエヴァに気がつくと、にっこりと笑って頭を下げた。
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