あるDの誤解と後悔について

東雲めめ子

プロローグ

 彼女は今日もまた、アパートの中庭にいた。

 赤紫のショールで頭から首元を包み、白っぽいコートを着込んでいる。錆びたベンチに背を丸めた姿は置物のようだった。その皺だらけの両手が扱う棒針から、機械仕掛けの如く編物が生み出されていく。

 近くの個人商店で売られているニット製品。その卸主の名は、エヴァ・ナーシュ。

 おそらく彼女で間違いないのだ。私が探していた、Dの最後のミッシングピース。

この国に二十三年に渡って君臨して独裁を敷き、死後にはその名前が法的に禁句となったマダム・プレジデント。そのDの生涯をもっとも長い年月、間近に見ていたと思われるのが目の前の彼女だった。公的資料から辿れるよりも、おそらくずっと長いあいだ。

 彼女に話を聞かなければ、私はDについて書くことができない。

 意を決してベンチの彼女に歩み寄り、この国の言葉で声をかけた。


「すみません、あなたはエレオノール・ダフネ・アムナーシュさんではありませんか」


 彼女は顔を上げ、しばらく私を見つめた。

 生年から計算すると、彼女は今年八十六歳になる。年相応の老いが、肌にも身体つきにも表れている。だけどその左目の澄んだ青さだけは、いまもサファイヤのように輝いていた。

 彼女はゆっくりと首を横に振った。ベンチの隣に置いていたタブレット端末を操作し、腰をかがめて待つ私に画面を向ける。


――私はエヴァ。


 エヴァ。Dの付き人として、陸軍官舎と大統領官邸の住居者リストに名が記されている。

 声をかけるまでに確信はあったが、彼女の答えを見てほっとした。ビザと渡航資金の限界までこの国に短期滞在を繰り返して、私はようやく探し求めていた人に辿りつけたようだ。

 緊張で逸る動悸を抑えて、私は「エヴァさん」とその名を呼んだ。パスポートと著作リストを提示しながら、自分はDの生涯を小説にしたくて日本から取材に訪れた作家なのだと自己紹介した。

「私はあなたに、マダムDについて書く許しを得たいのです」

 彼女はじっと私を見ている。おそらく、かつてDを見つめていたのと同じ瞳で。

「あなたはマダムDの秘書的な業務をずっと担っておられた。彼女がまだ陸軍士官学校に在籍していた時分から、一九八四年に彼女が亡くなるまで。だけど本当は、それ以前から彼女とお知り合いだったのではないですか」

 肩に提げていた鞄から、ハードカバーの本を取り出す。私が読んだのは日本語訳だが、持ってきたのは英訳版だ。原書は発禁になっている。

 『D(仮名)自伝』というシンプルなタイトルのこの本は、Dの大統領在位中に出版された彼女の回想録である。Dへの聞き書きで構成された黒い装丁の書籍は、この国で聖書を越えてもっとも出版点数を伸ばしたベストセラーだった。

 付箋を貼ったページを開いて、マーカーした箇所を彼女に指し示した。


――苦しい日々を支えてくれた薔薇一輪


「ここに出てくる薔薇をくれた少女というのは、あなたのことなのではないかと……」

 Dの故郷はフラメニア領ユサチェクの地方都市グラステ。つまり現ユサチェク共和国で、Dの工業施策の結果立ち入り禁止区域となったグリエンテだ。

 そしていま私の目の前にいる老婦人は、Dと同じ年に同じグラステの街で生まれている。ただ、貧しい家庭に生まれ早くに孤児となったDと対照的に、エヴァ――出生名エレオノール・ダフネ・アムナーシュはグラステの領主令嬢だった。

 開いたページに目を落とし、Dの語る言葉を読んでいたエヴァは唇の端に薄い苦笑を浮かべた。力のない乾いた微笑はすぐに消えてしまって、彼女は本を閉じて私に返してきた。


「この本を読まれたことは?」


 否定のかたちに首が振られる。私は再度、その本を彼女の手に戻した。


「英文版も仏文版もあります。どうか読んでください。そして私に聞かせてほしいんです。あなたの知る彼女のことを。きっと、生前の彼女を知る無数の人たちのなかで、もっとも長いあいだ……Dという人を深く知っていたのはあなただと思うから」


 エレオノール及びエヴァという名前は、大統領就任以降のDの公務記録には出てこない。Dの自伝でこの長年の付き人の存在や名前が語られることもなかった。マダムDを研究した膨大な資料のうち、わずか数点に名前と略歴が出てくる程度だ。

 独立戦争のさなか、Dがグラステ攻防戦で命を救った元領主令嬢のエレオノール。そして陸軍士官学校時代から、Dの私的な付き人として暮らしを共にしていた同い年の女性エヴァ。

 この同じ頭文字を持つ二つの名前を、私は同一人物ではないかと考えた。エレオノールはエヴァと名前を変えたのだ。彼女はDの死に至るまでの栄光を、一番近くから見続けた。

 生前のDを直接に知る人々で、いまも生きている人はとても少ない。Dの死後、二度に渡るクーデターにより、関係者の多くは鬼籍に入った。そのうえ二度目のクーデターの後に起きた〝悲劇〟でユサチェクの国土は腐敗し、国民の大半が亡くなった。

 Dと、Dがいた時代を知る生き証人はエヴァしかいない。それは私が彼女を見つけだすよりも先に取材をした、元ユサチェク共和国軍軍人も口にしていた。二度目の体制崩壊後に懲役を務めて二〇一五年現在は他国に住むその元軍人の妻は、Dの最側近の娘である。

「……ルボトフ元中尉と夫人が、あなたに会えたらよろしくと」

 エヴァは目を伏せ、本をベンチに置いた。タッチペンでタブレットに文字を打ち込む。年齢に見合わない、器用で手早い動きだった。


――ルボトフとラーラに聞いたのなら、それ以上を私は知らないだろう。私はあなたの期待するような、Dの秘密はなにも知らない。


「そんなことはないはずです。あなたが知らなければ、きっと誰もマダムDを知らない」


 マダム・プレジデント。皇帝D。隻眼の悪童。吸血蝙蝠。あの女。悪魔。死後に本名を消されてもなお様々な二つ名が後世に刻まれたあるDの本当の姿。彼女の核心。


 私は冷酷という切り口で稀代の独裁者を描きたいと思っている。Dという人が、いかに理性的な悪であったかを。Dの本質とは冷酷ではないかと、この北東ユーラシアの島国の地を踏む前から考えていた。

 表情を動かさない目の前の老婦人が、Dに抱く感情が読み取れない。私の存在をどう思っているのかも判断がつきかねた。歓迎はされていないだろうが、さりとてこれまでの取材で遭遇したようなけんもほろろの対応というわけでもない。


――Dのことは自由に書けばいい。彼女は自分がどう書かれようと気にしない。


「でも、あなたのことは……Dを書こうとすると、そこには必ずあなたが出てきます」


 エヴァは画面に顎をしゃくった。私もだというように頷いてみせる。


――私も、あなたが何をどう書こうと構わない。

――もうじき雪になる。この国は暗くて寒い。帰れるうちに帰ったほうがいい。


 そう打ち込んだ画面を見せるとエヴァはそのタブレットと途中の編み物を布袋に入れ、ベンチに立てかけていた杖にすがって立ち上がった。


「待ってください、本を……」


 私は慌てて日本語で呼びかけ、この国の言葉で言い直した。


「本、ぜひ持って行ってください。私はこの町に泊まっています。また、来ます」


 彼女は私を見上げ、Dの自伝を無造作に布袋に入れた。見つめる瞳の動きで、私は彼女の右目が義眼であることに確信を得た。

「荷物、持ちます。部屋まで送ります」

 断りの首が振られる。これ以上の言葉を拒むように背中を向け、彼女はクリーム色をした漆喰のアパートに消えた。


 彼女が去ったベンチに座ってしばらくすると、どんよりと陰った曇り空が雪に変わった。幾何学的な造形は壁がくすんでも瀟酒で美しいが、建物そのものが死んでしまったようにひと気がない。窓を見るかぎり、ほとんど空き室のようだった。

 いまだ立ち入り禁止区域ばかりのこの国で、この街だけがもっともはやく復興した。それでも街の人口はDの時代の五分の一にも満たない。

 エヴァがこのアパートに住居を得たのは、Dの死の直前らしい。入居はDの死のあとだ。

 無に近い表情からエヴァの内心は掴めなかったが、この国が瓦解してからも彼女がDの帝国を離れなかったことだけは事実だった。そこにどういった理由や意志があったのか、それはエヴァの物語を聞いてみないとわからない。

 私は彼女について考えていた。その彼女とはDであり、そしてエヴァでもあった。


 *


 一九八一年、ユサチェク共和国大統領就任二十周年という節目に出版された彼女の回想録のことは、制作段階から知っていた。だが、印刷所がパンク状態になるほど売り上げを伸ばしたDの自伝をエヴァが読もうと思ったことはない。

 読まなくても、その自伝でDが示そうとした英雄としてのペルソナは想像がついた。当時Dとエヴァはともに五十一歳で、エヴァは人生の半分以上をDのそばで過ごしていた。


 見て知っているDの半生と、はなから本心を明かす気のないDの明朗な語り。


 Dの言葉に、いわゆる本音はひとつもなかった。エヴァは今でもそう思っている。

 虚飾に彩られた人生だったというのとはまた違う。彼女は自身の経歴や功罪は偽らない。だが、確実な反証を出せない思想感情の分野ではためらいもなく大嘘をついた。どうでもいいような些細なことをあえて思わせぶりに口にしたりして、自身の内面に迫ろうとする人々を煙に撒いたりもした。


――たしかに私は幼い頃、Dに薔薇を渡したことがある。けれど、


 そこまで打って、エヴァの手は止まった。

 薪ストーブを焚いてもまだ肌寒いアパートのリビングで、エヴァは日本から来たという青年と向かい合っている。

 青年はDを書きたいという。そんな人間はこれまでいくらでもいただろう。だがエレオノールを見つけだして、こうもしつこく接触してきた外国人ははじめてだった。

 昨日彼から受け取ってしまったDの自伝の英訳版は、ふたりが囲むダイニングテ―ブルの上に表紙を伏せて置いてあった。テーブルには湯気の立つポットと、青年が腕に抱えていたビスケットの缶も並んでいる。茶葉とお菓子は青年からの贈答品だった。

 あなたに会えたときのお土産にするために中継国で購入したのだと、彼はどこか恥ずかしそうに微笑んだ。昨日は突然声をかけたけど、今日はちゃんと話を聞きたいと思って、と。

 午前、午後、夕方と三度に渡って鳴らされた呼び鈴を無視したのだからもう諦めただろうと思っていたのに、さっき薪を取りに外へ出たら青年はまだ玄関ポーチに佇んでいた。

 吹雪になりそうな夜である。

 雪と風で真っ赤になった顔を綻ばせて名前を呼んだ青年に、ついに根負けして部屋に上げ、残りもののシチューまで食べさせてしまった。

 孫のような年齢の青年はタブレットを食い入るように見つめて、エヴァが続きを打つのを待っている。今年三十歳になると言っていたが、まだ学生かと疑うほどにあどけない。

 けれど、の先をどう言えばいいかわからなくて、エヴァは画面を見つめて固まった。


「どうしてエヴァさんは幼い頃、マダムに花をあげようと思ったんですか」


 青年の投げた質問が、エヴァの胸に波紋を描いて落ちていった。すぐに口をついて出そうになった答えは、指先でためらって止まってしまう。

 あの少女を喜ばせたかった。可愛らしい花を彼女も喜んでくれると思った。けれど……。


――Dは花を喜ばなかった。私はとても愚かで、思いやりのない子供だったのだと思う。


「でも、この薔薇をDは成長していく上で精神的な支えになったと本人が言っています。喜んでほしくてプレゼントを渡すって、素敵なことじゃないですか」


 考え込むように首を傾げていた青年は、ふと「マダムが言ったんですか?」と訊いた。


「あなたの自分へのそうした評価……思いやりがないとか、愚かだというのは、Dがあなたに言ったんですか? それでこう、あなたが思い込んでしまったのでは……」


 いいえ、と声にならない唇がひとりでに動いた。エヴァがあのときの薔薇を悔いたのは、Dと再会するよりよほど以前だった。それにDは愚かな人間に、わざわざ愚かとは言わない。


 Dは自身の十代を振り返り、生活はたしかに大変だったけれど、それは多かれ少なかれ誰もがそうではないか、というようなことを言っている。


 苦しいことは沢山あったが、苦労したのは私だけではない。どんな生まれ育ちでも、つらいことはあるだろう。ただ、貧しくて死と隣合わせの日々を照らし、支えてくれたのは同い年の少女からもらった薔薇だった。


 Dの声で再生される文章に目を伏せて、エヴァはかすかに頭を振った。


――少し、待って。


 はじめから、話そう。私の知る彼女のことを。思い出そうと苦心する必要はない。ずっと、忘れたくても忘れられなかった。

 強張った首をひねって、エヴァは小窓の縁に置いたベルに目をやった。

 青銅製の古いハンドベル。手に乗る大きさのあのベルは、Dの遺品のなかで、唯一エヴァがもらってきたものだった。


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