第17話 病気

18歳の健一がアルバムを見ていたのはコロナが流行りだしてから、2年ほど経った頃のことだ。日本がもうあらゆることに関して後退国となってしまった時代だ。


比較的猛暑が厳しくない北国にいても、地球沸騰化のせいか、健一の誕生日、7月20日になると、例年では必要がなかったのに、クーラーが無いと、とても過ごせない、と誰もが思うようになった。


暑さに慣れていない精神病患者は体調を崩しやすいはずだ。


健一の誕生日も過ぎて7月も終わりそうになったある日、朝食を食べている時に健一は母とケンカをした。そのケンカはいつも通り、母が健一をバカにしたのが、きっかけだった。


「健一はどうせ分からないだろ」


という母の言葉に健一はやるせなさを感じた。


健一が何を分からないのかというと、青葉というレストランの場所だ。


(健一はどうせ分からないだろ)。


という言葉は母の口癖のようになっていた。


そう言われるたびに健一は


(またそうやって俺をバカにする! )。


と何度も怒鳴ってきた。


母はいつも


(バカにしているのではない。お前がひねくれているだけだ)。


と冷静に返答する。


健一は、暖簾に腕押し、という言葉を思い出し、こんな時は母の居る所から逃げるのが賢明だと考えた。


健一と母はテーブルをはさんで向かい合って座っていたが、健一は勢いよく立ち上がり、母の左側を通り抜け、ダイニングキッチンを出て階段を登り、2階の自室にこもった。


健一はもう1度敷き布団を敷いてその上に横たわり、あお向けになって目をつむったが、なかなか怒りが収まらない。


でも、健一には母を怒鳴りつける資格など無い。


父が会社に行き、母が家事をやって、そのお金で、大学を中退した健一は食べていけるのだ。


しかし、正午になっても健一の怒りは収まらなかった。


東京の大学に入学した直後に健一の精神病が発症し、その大学を中退せざるを得なくなり、見栄っぱりの母はさぞ悔しかっただろうと健一は思う。


精神病の症状で健一の能力は小学校1年生並みになり、足し算もあやふやだし、令和の(令)の字が書けなかったこともあるし、下手をすれば自分の名前さえ書けない。時々人の話しを理解出来ないこともある。記憶力も落ちたから、健一はメモ帳をいつも持ち歩いている。


今の母はそんな健一を完全にバカにしていて、健一のやっかいなプライドは、健一の皮膚も内臓も筋肉も脂肪も脳ミソも全てズタズタに破壊する。


正午を過ぎると健一もさすがに空腹が辛くなってきたが、健一は我慢して布団の上で横になり続けた。


午後3時くらいに健一はぼんやりしながら


(ああ、両親がいなくなれば、俺は死亡届けも出せずにこうして仰向けになったまま、餓死するのかもしれないなぁ…)。


などと考えていた。


夕方になって母が健一の自室に来て


「ご飯食べなさい。もう怒っていないから」


と言った。


(そうじゃない。怒っているのは俺の方だ)。


と健一は母に言い返したかったが、昼食抜きなので母にそんなことを叫ぶ元気も無かった。


健一が返事をしないでいると母も黙って階下ヘ降りて行った。


深夜の2時頃に健一はとうとう空腹に我慢が出来なくなって、ダイニングキッチンへ行って母が残してくれた夕食を食べ、そして2階の自室に戻ってまた布団の上に仰向けになった。しかし、精神のリズムが崩れたせいか、健一は午前5時頃まで眠れなかった。


翌日は正午頃に目が覚めたが、ひどく頭が痛く、その頭痛は2日続き、そして4日ほど昼夜が逆転した。


つまり、昼間は布団の上で眠って、深夜に母が作っておいてくれた食事を食べたが、食欲もあまり無く、母が作ったその食事も、半分くらいしか食べることが出来なかった。何もする気になれず食事以外はほとんど布団の中で過ごした。


健一は発症して故郷に帰ってから、毎週1回春日病院の精神科で診察を受けている。


そして、診察の日になった。なんとか病院へ行かなくてはならないのだが、こんな状態で病院へ行くのは辛かった。


健一は気力を振り絞って洗顔、歯磨きをして、髪は寝ぐせがついたままにして、適当な服に着替え、よろめきながら家を出て停留場まで歩いた。


バスが来ると健一は乗降口に近い座席に座った。


立っているお年寄りもいたが、


健一は


(申し訳ありません)。


と心の中で念じながら座席に座り続けた。それは、席をゆずるために立ち上がる気力が、その時の健一には無かったからだ。


健一はバスが病院に着くのもイヤで、このまま座席に座り続けていたかったが、バスというモノはたいてい目的地に到着するもので、健一も座り続ける訳にいかない。


そして、バスが病院の玄関の近くにピタッと止まっても、健一は座席に座ったままでいて、他の乗客達はバスを降りる列を作り始め、健一はその列の最後尾に並んだ。


健一はゆっくりとヨタヨタしながらバスを降り、それでも、病院の玄関で両手のアルコール消毒をして受け付けに行ったが、診察券を忘れてきたことに気がついた。


健一は受け付けのお姉さんに向かって


「すいません。診察券……忘れた」


と蚊の鳴くような声を出すと、受け付けのお姉さんは笑顔を絶やさず1枚の紙切れを差し出し


「大丈夫ですよ。この紙に名前を書いて座ってお待ちください」


と答えてくれた。


そこで健一は紙に自分の名前をなんとか書いて提出し、待合室の長椅子にドサリと座り、なおかつ横になりたかったが、他の患者も大勢いたので健一は我慢して座り続けた。


しばらくして健一の名前が呼ばれた。健一は懸命に立ち上がり、一歩一歩足を進めて診察室に入った。


「おはようございます」


と健一は小声で挨拶をして診察椅子に座ると、健一よりはちょっと年上で小柄な主治医が、いつも通りの優しげな声で


「おはよー」


と返事をして


「どうしてたかなぁ、この1週間は」


と健一に尋ねた。


健一は母とケンカをしてハンストをしたこと、


2日間頭痛がしたこと、


4日ほど食欲があまり無く、何もする気になれなかったこと、


別に幻聴とか妄想のような、他人から見て、オカシイと思われるような症状があるわけではないこと、


昼間に眠らないのに夜も寝付きが悪く、下手をすれば朝まで眠れなかった日が2~3日あること、


夜に眠らなくても昼も目覚めたまま、布団の中で仰向けになっていたこと、


等々


そういう症状が続いていることを、疲れを我慢して可能な限り、主治医に喋りまくった。


主治医はカルテに何やら書き込み


「入院してみる?」


と言いながら健一の目をキッチリと見た。その視線は健一が反論する余地の無いものだった。


健一はうなずいて


「はい、入院します」


と素直に答えた。

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