第5話 心の傷
あと、これは健一が2~3歳の秋、昼頃のことだと思う。
さと子は別として、当時の健一は1人で遊ぶのを好んだ。この日も健一は自分の家の裏庭で、3輪車に乗って1人で遊んでいた。
健一は3輪車をこいで、裏庭の端から端まで行ったり来たりしていた。
その時、さと子が、さと子のママに連れられて、健一の家に遊びに来た気配があった。そして、さと子が裏庭に来た。
さと子は健一の背後から、いつもの透き通った声で健一に呼びかけた。
「健ちゃん。健ちゃん。あたしのママが作ったリンゴジャム食べない?」
健一はさと子の方に振り返りもせず即座に答えた。
「食べない」
その時健一は、さと子が不思議に思うに違いないと予測はした。それどころか、このような健一の態度に腹を立てるのが当たり前だとも考えた。
けれども、さと子は健一のこういう態度には慣れていたのかもしれない。さと子は相変わらず透き通った声で話し続けた。
「健ちゃんは、あたしのママが作ったリンゴジャムは大好きだって、前に言ってたから……。今は、健ちゃんは食べたくないのね」
確かに、市販のリンゴジャムは味気なくて、さと子のママが作ってくれるリンゴジャムの方が、甘くて、ちょうど良く酸っぱくて、とても美味しいことを、その時、健一もよくよく承知していた。
でも、健一はもう1度
「食べない」
と言い、さと子に背を向けたまま3輪車をこぎ始めた。
でも、さと子は、たいして気にした気配もさせず、その場を立ち去ったようだ。
その時、健一は思った。
(どうしてなのだろう。さと子のママが作った美味しいリンゴジャムを、なんで俺は食べないのだろう。なんでなんだろう)。
もしこの時、健一と、母と、さと子と、さと子のママと、4人揃って、さと子のママが作ったとびきり美味しいリンゴジャムを、パンに塗って食べていたならば……。
ジャムを食べなかったという出来ごとは当時の健一の心の中に、ごくごく微量の傷となって残った。
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