第17話 解放


二時間程度のカラオケを終え、店を出て数歩歩いたところで、悠斗がポケットからスマホを取り出しながら言った。


「あー、そういや、俺まだ名乗ってなかったわ!」


さっきまでカラオケをして互いをお兄さんと呼びあっていた。まだ、お互いの名前すら知らなかった。


「俺、梶山悠斗」


「……小崎瑛二です」


「瑛二か〜、じゃあ、えーじでいい?」


「……」


 馴れ馴れしい。けれど、不快ではなかった。


 むしろ、気軽に名前を呼ばれること自体が久しぶりすぎて、少し戸惑ってしまう。

 愛称で呼ばれることはほとんどなかった。

 親しい人間がいなかったのだから当然だ。


「……好きに呼んでいいですよ」


 そう答えると、悠斗は満足そうに笑った。


「よし、じゃあ俺は悠斗で! よろしくな、えーじ!」


 悠斗はニカッと笑い、瑛二の肩を軽く叩いた。


 その軽やかな仕草に、瑛二は思わず目を伏せた。

 こういうのは、慣れていない。


 最初に感じた印象とはまるで違った。

 ただのチャラい男かと思ったが、根っこにあるのは屈託のない明るさだった。


「カラオケ、楽しかったわ。えーじ、意外に歌うまいし、また行こうぜ」


「……あはは、考えときます」


 曖昧に答えつつも、悪くないかもしれないと思っている自分がいた。


 楽しかったのは事実だった。

 人前で歌うなんて滅多になかったし、最初は気が引けたが、悠斗が適当に盛り上げてくれたおかげで、気付けばそれなりに楽しんでいた。


 こんなふうに他人と過ごす時間を「楽しい」と感じたのは、一体どれくらいぶりだろう。


幸福のかたち


 瑛二はスマホを取り出し、悠斗と連絡先を交換する。


「じゃ、またな! いつでも連絡してくれよ!」


 悠斗は気軽に手を振り、去っていった。

 その姿が見えなくなるまで、瑛二はなんとなく目で追っていた。


 ふと、ポケットの中のスマホに視線を落とす。

 新しく登録された「梶山悠斗」という名前を見つめながら、静かに息を吐いた。


(……俺は、何を望んでいたんだろう)


 今日一日を振り返る。


 昨日までの自分なら、こんな展開は想像もしなかった。

 他人と出会い、名前を呼ばれ、何気ない時間を共有する。


 それだけのことが、どうしてこんなにも心を揺さぶるのか。


(俺は——普通の幸せが欲しかったのかもしれない)


 友達がいて、気になる人がいて、他愛もない会話をして、笑い合う。


 そんな、誰もが当たり前に持っているはずのものが、どうして自分にはなかったのか。

 どこで躓いたのかはわからない。


 けれど、今確かに感じている。


 「優しくされたかった」


 それだけだったのかもしれない。


 誰かに気軽に名前を呼ばれ、何気ない会話を交わし、一緒に笑う。

 それだけで、こんなにも心が温かくなるものなのか。


 思えば、ずっと誰かの優しさに飢えていたのかもしれない。

 気付かないふりをしていたが、本当はずっと寂しかったのだろう。


 でも、もし「普通の幸せ」が手に入るのなら。

 それを受け入れる勇気が、自分にはあるのだろうか——。


 今日は、昨日よりも少しだけ心が軽かった。


 静かに歩き出す足取りの先に、また何かが待っている気がして——。


 瑛二は、家へと帰った。

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