第16話 カラオケ



男とともにカラオケ店へ向かう途中、瑛二は自分の心の動きを観察していた。


——まさか、自分がこんな展開を受け入れるなんて。


昨日の自分なら、こんな誘いは即座に断っていただろう。

なのに、今は流されるように歩いている。


 自動ドアが開き、冷房の効いたカラオケ店の空気が肌を撫でた。


「二人でフリータイム、ドリンクバー付きで!」


 男は手慣れた様子で受付を済ませ、伝票を受け取ると、軽快な足取りで通路を進む。


「お兄さん、カラオケってよく行く?」


「…いえ…ほとんど行かないですね」


「お、いいじゃん! 初心者のほうが伸びしろあるって!」


 何が「いいじゃん」なのかはわからないが、男の無邪気な笑顔に流されるように部屋へ入る。


 カラオケの個室——モニター、ソファ、リモコン、ドリンクバーのカップ。

 見慣れた光景のはずなのに、瑛二にとってはどこか非現実的に感じられた。


「んじゃ、俺がトップバッターな」


 男は迷いなくリモコンを操作し、曲を入れる。

 流れ出すイントロ。


 マイクを握り、歌い出した瞬間、部屋の空気が変わった。


 音程もリズムも完璧とは言えない。

 それでも、彼の声には不思議な力があった。


 楽しむことに、何の遠慮もない。


(……歌うって、こういうことか)


 ただの娯楽。

 それなのに、瑛二は彼の歌に引き込まれていた。


「ふぅ! やっぱ歌うのは最高!」


 曲を終え、男は豪快にドリンクを飲み干す。


「はい、次お兄さんな」


「……いや、俺は」


「下手でもいいんだって! 誰も気にしないって!」


 そう言って、男はリモコンを差し出した。


 その手を見て、瑛二は小さく息を吐く。


(……試してみるか)


 昔、好きだった曲を選ぶ。

 イントロが流れ出す。


 マイクを握る手が、わずかに震えた。


 でも、それは緊張というより、別の何か——


 胸の奥から込み上げる、新しい感覚だった。


声を出すということ


 一音目を発した瞬間、自分の声が空間を震わせるのを感じた。


(……俺の声って、こんなだったか?)


 思ったよりも響いて、思ったよりも素直に出た。


 歌詞に合わせて声を乗せる。


 音の流れに身を委ねる。


——歌うって、こんなに気持ちいいものだったんだ。


 いつの間にか、曲が終わっていた。


 静寂。


 次の瞬間——


「え、お兄さん、普通にうまいね」


 男が驚いた顔で言う。


「声、めっちゃ綺麗じゃん! もっと歌おう!」


「……俺は……」


 いつもなら、ここで首を横に振る。


 でも、今日は——


「……もう一曲だけ」


 瑛二は、自然とリモコンを手に取った。


 昨日までは考えられなかった選択。


——幸福を受け入れる限界が、少しだけ広がった気がした。

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