再会
あの手紙が届いてからというもの、グラスはほとんど食事が喉を通らなくなるぐらいに塞ぎ込んでしまっていた。
そんな彼女に、アルテは連日連夜ずっと寄り添っていた。怯える弟子を少しでも安心させてやりたくて。
実際、効果があったのかどうかは分からない。けれど、少しでも今できることをしたかったのだ。
今月の、最後の夜はやけに短く感じられた。
よく眠れなかった二人の枕元を太陽は無慈悲にも照らし始め、訪れた新たな月の朝。
家の中には、重苦しい雰囲気が立ち込めていた。
いつになく無口で、そして暗い表情を浮かべているグラスに、アルテはそっと淹れたての紅茶を渡す。グラスの一番好きなブレンドのものだ。
「大丈夫、わたしがついてるから」
縮こまるようにしてソファーに座る少女に、アルテはそう言ってそっと寄り添う。
少女は消え入るようなか細い声で礼を言うと、アルテが飲みやすい温度まで冷ました紅茶を一口飲んだ。そして、静かにアルテの肩にその身を寄せた。
刻一刻と、時間が流れていく。時計の針を見つめ、怯えることしかできない少女を置き去りにするように。
そんな彼女の手にずっと自分の手を添えつつ、アルテは静かに意識を研ぎ澄ませていた。
グラスの母がいつ来てもいいよう、もう準備は整えてある。
アルテの決意は固かった。何があっても、グラスを連れ戻させはしないと。
「大丈夫よ」
グラスの肩をそっと抱き寄せ、アルテは告げる。
それは、隣で弱々しくたたずむ弟子に向けられた励ましであるのは間違いなかったが、それ以外の意味も持ち合わせていた。
はやりだす自分の胸の鼓動を、鎮めるための独り言でもあったのだ。
本当は、指だってぴりぴりと痺れていたし、気を抜けば荒い呼吸が口から漏れてしまいそうだった。
けれど、こんなときに師匠の自分がしっかりしていなければ、グラスは余計に不安になってしまうだろう。今、彼女が頼れる相手は他にいないのだから。
それからは、お互い一切言葉を発さなかった。二人とも、悠長に会話ができるような精神状態でもなかった。
二人で沈黙を共有することは普段なら特段苦にならないが、今はわけが違った。
空気はずしりと重たく肺を圧迫してくるし、ささいな物音さえもが鼓膜をいちいち敏感に刺激してくる。
けれど、何よりアルテの心を締め付けるのは、やはり隣に座る弟子の姿だった。
いつもならしゃんと伸びている背は力なく曲がり、目の下にはうっすらとクマができている。彼女も最近はあまり眠れていなかったのだろう。
そして何より、透き通った彼女の瞳が、光を失って暗くなってしまっているのが辛かった。
だからこそ、彼女の思いも強くなる。グラスを絶対に、家という籠から解放したい。
こんな暗い表情は、グラスらしくない。いつもの希望に満ち溢れた瞳の輝きを早く取り戻してほしい。
そしていつかは叶えてほしい。自分の力で未来を切り開き、知らない世界を見たいという夢を。そのためにも、怖気づくわけにはいかない。
鉛のように重い空気の中、過ぎ行く時間は長くて短い。
その間グラスはずっと、アルテの身体にぴたりとくっついて、片時も離れることはなかった。まるで、外敵に怯えて母親に守ってもらおうとする小動物のように。
そんな彼女を、アルテはずっと抱き寄せていた。
かち、こち、ともう何千回聞いたか分からない秒針の音が、空間にこだまする。
かちっ。何千回目か分からない秒針の音と共に、来客を報せるドアノッカーの音が、いやに大きく家の中に鳴り響いた。
「っ⁉」
その瞬間。その音に反応し、グラスの肩が激しく震えた。その瞳は一瞬にして、天敵に睨まれた子ウサギのように怯えに支配される。
そんな彼女の心を少しでも和らげるため、アルテは優しく微笑みかけ、頭をそっと撫でた。それから、徐ろに立ち上がって玄関へと向かう。すうっと深呼吸をしてから。
ゆっくりと、扉を開く。
そこに立っていた人物に、アルテは至極落ち着き払った態度で一礼した。
「お初にお目にかかります、ド・ネージュ伯爵。ご令嬢の師匠を務めさせております、アルテミシア・アルキュミアと申します」
「…………」
アルテと対峙するのは、一言で言えばまるで雪と氷で出来たような女だった。
顔はつばの広い帽子の陰にほとんど隠れてしまっているが、冷たい視線が自分を見下ろしていることだけは分かった。
そこに居るのは、陽に晒せば溶けてしまいそうなほど色白な身体を、白いドレス、白い手袋、そして白い日傘で覆った純白の女。
帽子の下から僅かに覗く二つの瞳の色と、アップにした髪の色が、彼女がグラスと血縁関係にある何よりの証拠だった。
これほどまでに美しい色をした瞳と髪の持ち主は、そういるものではないから。
背は高く、ハイヒールを脱いだとしてもアルテより頭二つ分は大きいだろう。まるでそびえたつ氷山のようだ。だからこそ、その威圧感も余計に強まる。
けれどアルテは怯まなかった。怯んでいられるわけがない。
こちらを見つめてくる氷色の双眸を、彼女はじっと見つめ返し続ける。
「お目にかかれて光栄ですわ、アルキュミア様」
白い扇子で覆われた向こう、氷を打ち鳴らしたような高い声が言う。
声ひとつで辺りの温度がいくらか下がるような、静かで、美しくて、そしてひどく冷たい声。例えるなら、凍土に降り積もる雪のような声だった。
「お手紙でお伝えした通り、本日は娘を連れ戻しにまいりました」
「そのことで、お話があります」
アルテが言うと、伯爵は一瞬虚をつかれたような色を見せるも、すぐに平静に戻り。
「お話?」と、問い返してきた。
「はい。立ちっぱなしでお話ししていただくのも申し訳ありませんし、どうぞ中へお入りください」
「あら……こちらでも全然平気ですのに。お気遣い、痛み入ります」
アルテは伯爵を家の中へ招き入れ、リビングへと案内する。
背後から、こつ、こつとハイヒールの音が聞こえてくる。
硬く、けれど静かなその音や、所作から伝わる彼女の振る舞いの丁寧さは、さすが貴族といったところだ。
伯爵を席へと案内し、紅茶を淹れる。その用意は伯爵がここに来る前から済ませていた。
「あら、申し訳ありません。長居するつもりはありませんのに……」
頂きます、と言ってから、伯爵は静かにティーカップを持ち上げる。
彼女と同じように、アルテも自分のカップを手にとって傾けた。
茶葉の香りと、ほどよい熱さの紅茶が喉を通っていく感覚は、緊張をいくらかほぐしてくれる。
一方、伯爵はカップを置くと、まるで何かを探すようにおもむろに辺りを見回し始め。
それからアルテの方に向き直り、静かな声で言った。
「ところで……娘はどこですの?」
「そのことについて、お話があります」
アルテがそう返すと、伯爵は感情のほとんどこもっていない瞳にわずかに怪訝そうな色を宿す。
「……どういうことですの?」
「単刀直入に言わせていただきます。私は、あの子を帰らせるつもりはありません」
アルテが言った途端、伯爵の目の色があからさまに変わる。
「帰らせるつもりは、ない……? 貴女、ご自分が何を言っておられるのか、分かっておいでで?」
しんしんと雪が降り積もるように静かだった伯爵の声のトーンが、僅かに揺らぐ。
けれど、それでもアルテは落ち着きを保ったまま言葉を返した。
「はい。彼女には、このままわたしの元で錬金術の勉強を続けてほしいのです」
「…………」
「伯爵、わたしはこの一か月の間、グラスに錬金術を教えてきました。だから自信をもって言えるんです、彼女には錬金術の才能があると。
その才能は、わたしの弟子になる前から彼女がずっと持っていたものなんです。その証拠に、彼女はわたしの元に来る前に、自分で錬成物をひとつ完成させていたのです。
そんなこと、そう簡単にできることではありません。錬金術師の弟子は普通、もっと時間をかけて師匠から技術を教わり、やっと初めての錬成物を一つ完成させるものなのですから」
アルテのその言葉に、伯爵はどんな感情を抱いたのか。凍てついたように変化の少ないその表情から読み取ることはできなかった。
それでも、アルテは言葉を続ける。いちど一呼吸おいてから、伝えたいことを今一度頭の中で整理して。
「これからもっと研鑽を重ねていけば、グラスはいずれ立派な錬金術師になれるはずです。
わたしも、彼女に錬金術をこれからも学んでほしいと思っています。それに何より、彼女自身もそう望んでいます」
長い睫毛に縁どられた硝子のような双眸は、静かにアルテのことを見つめている。
その奥に宿る感情は、一体何なのか。
「……随分、娘と仲がよろしいのですね。あの子の兄弟しか使わない呼び名で、あの子を呼ぶなんて」
アルテの言葉を一通り聞き、伯爵が最初に発した台詞はそれだった。
「……何の断りもなく押しかけていった不躾な娘の面倒を見ていただいたこと、それからこの一か月間、あの子によくしていただいたことには深く感謝しております。
ですがこちらとしても、彼女を置いて帰るわけにはいかないわけがあるのです」
それが、次に伯爵の言った言葉だった。
そのような返事が返ってくるであろうことは、アルテも薄々勘付いていた。
「手紙にも書きました通り、グラキエースは魔術貴族たる我が家でも特に秀でた魔術の才を有しており、我が家にとっても凍土にとっても非情に重要な存在なのです。
彼女にはネージュ家の今後を担うための学習、とりわけ魔術の学習に日々の時間の大半を使わせたいと存じておりますの。ですから他のことにうつつを抜かさせる暇は、ございませんの」
「……」
伯爵のその物言いに、アルテは強い嫌悪感を覚える。
グラスの言っていた通りだ。彼女には、子供の意志を尊重しようという気持ちは一切ないように見える。
子供に家や周囲に尽くすことを強制し、それ以外の可能性を潰そうとするだなんて。
最低な親だ、とアルテは思った。
けれどそれを表には表さず、冷静な態度を保って彼女はこう返す。
もちろん、ここで食い下がる気などない。だが、あくまで冷静に説得するつもりだ。感情的になっても逆効果なのは、目に見えているから。
「グラスが魔術において類まれな才能をもっていることも、彼女がド・ネージュ家にとっても非常に大切な存在であることも、よくわかります。
けれど、家と凍土の将来のために魔術の学習をさせたいとおっしゃるのなら、それこそ錬金術を学ばせるのも良い経験だと思いませんか? 錬金術だって、広義では魔術の一種なのですから。
それに、錬金術の才能をもつ人はそう多くありません。天性の才を持たない世の中の大抵の人は、どれだけ努力をしても何かを錬成することすらできないのです。
そんな中でグラスは、誰から教わるでもなく、たった一人で素材を錬成し、ひとつの錬成物にするところまで辿り着けたのです。
そんな難しいことを可能にした彼女の錬金術の才能は、魔術に対するものと同程度と言っても良いのではないでしょうか?」
「…………」
そこまで言ってみるが、返事は返ってこない。
口を閉ざした伯爵を真っ直ぐに見据え、アルテは続ける。
「錬金術ができる人は世の中にそう多くありません。ですから、領主であるド・ネージュ家に錬金術ができる方が一人でもいたら、住人のみなさんにとっても何かと助かることが多いのではないかと……」
「結構です」
耐えかねたように、伯爵はそこでアルテの言葉を遮る。
「わたくしは何も、魔術以外のことを学ぶのが無駄と言いたいわけではありませんの。それが娘の将来にとって有用ならば喜んで学ばせます。ですが、錬金術——それだけは、認めるわけにはいきません」
「えっ……? どうして、ですか?」
錬金術“だけは”。それは一体、どういうことなのか。
「錬金術の才能をもつ者は少ないと——貴女様はそうおっしゃいましたね」
返ってきた言葉は静かで、けれどその内側に秘めた感情を抑え込むような声で紡がれた。
かと思えば、次の瞬間。
「そんな才能、ない方が良いのです!」
これまでの一切抑揚のない声とは正反対の、激しい声があたりに響き渡った。
氷柱のように鋭く、突き刺さるようなその声。アルテは思わず一瞬身じろぎしてしまう。
けれど、すぐに平静を取り戻し、至極落ち着いた様子を装ってこう尋ねる。
「……どうして、そう思われるのですか?」
「考えていただきたいのです。類まれな才能は、いつの世もその代償に人を不幸にするものでしょう。
錬金術師が稀有な存在であることは、わたくしも存じ上げております。その存在が、この世界にいかに有益なものをもたらしたかも……。
ですが、だからこそ彼らは時として不幸になるのです。
一人の身には余るほど多くの人から求められ、それでもその声に応えようとした挙句、己の身を滅ぼす……類まれな才能と、それから深い慈悲の心を持っているあの子だからこそ、心配なのです」
「で、ですが、錬金術の才能があるということがあの子の不幸に繋がるだなんて、そんなわけ……」
アルテの返答を遮って、伯爵は言葉を続ける。
「貴女様は、確かに錬金術の才能があったおかげで成功なされていますね。ですが、その才に恵まれていたからこそ不幸になった者だっているのです。成功者たる貴女様がご存じないのも、無理はないのかもしれませんが」
「た……確かに、そういった方もいたかもしれません。ですが、だからと言って最初から錬金術の道を閉ざしてしまうのは、あの子の幸せに繋がることなのでしょうか? それに錬金術は、正しく使えば人を幸せにできる技術で……」
「もう結構です! 娘はどこにいるのですか! 早くグラキエースをお出しなさい!」
伯爵の叫ぶような声が、辺りに響き渡る。
これ以上喋らせる気はないと言わんばかりの迫力。強い怒りが伝わってくる声。
だがこうなっては、アルテも下がるわけにはいかない。こんな母親のもとに帰してなるものか。
「いいえ、グラスを帰らせるわけにはいきません! 彼女はここで錬金術を続けるんです、錬金術はあの子にとって、大切な——」
「お、お師匠様!」
そのときだった。アルテを呼ぶか細い声が、アルテの背後から聞こえてきたのは。
「グラス……!?」
アルテは咄嗟に振り返る。そこにいた少女の瞳からは大粒の涙が大量に溢れ出し、顔はびしょびしょに濡れていた。
そんな彼女に、アルテは慌てて駆け寄っていく。
「いつからそこにいたの? 上にいていいって言ったのに!」
「で、ですが……」
とめどなく溢れてくる涙を手で何度も拭いながら、グラスはアルテにこう告げる。
「これは、私の問題ですから……! それなのに、ごめんなさい、ずっとお任せしてしまって……最初から、私が自分から話さなければいけないことでしたのに……!」
「いいのよ、謝らないで! 言ったでしょ、わたしがなんとかするって……」
「グラキエース」
アルテの背後から、ふいに突き刺さるような声が飛んでくる。
娘の名を呼んでいるとは思えない、冷淡な声だった。
「……お母様」
「グラキエース。わたくしがここに来た理由、分かっていますわね。さあ、一緒に家に帰り……」
「い、嫌ですっ!」
それは、これまでグラスの口から一度たりとも聞いたことのなかったような、強く鋭い声だった。
その声に驚いたのはアルテばかりではない。伯爵もまた、同じように一瞬虚をつかれたような様子を見せる。
けれど、伯爵はすぐに落ち着きはらった態度を取り戻し、娘に告げた。相変わらずの淡々とした調子で。
「嫌、とは? そこでずっと聞いていたのなら分かったでしょう、わたくしは錬金術を認めるつもりはありませんよ」
「お母様のお考えは間違っています! 錬金術で不幸になったりするなど、ありえません! お師匠様の言った通り、錬金術は人を幸せにする技なのです!」
「……そう思うのも仕方ありませんわね、貴女は何も知らないのですから。ですがわたくしも、貴女に意地悪がしたくてこんなことを言っているのではありませんのよ。
貴女もじきに分かるはずです、わたくしはいつも、貴女が幸せになるための最善の道を……」
「いいえ! お母様は断じて間違っていらっしゃいます!」
母親の淡々とした言葉を遮り、グラスはきっぱりとそう言い放った。
こんなにも口答えするグラスの姿を見るのはさすがの伯爵も初めてなのだろうか、彼女はほんの少したじろぐような様子を見せる。
泣きはらした目で母の瞳をきっと見つめるグラスはずっと、お守りのようにアルテの手を握りしめていた。
「だって私は、錬金術のおかげで今とても幸せなのですから! 錬金術と……私にいろいろなことを教えてくださる、お師匠様のおかげで!」
「グラキエース。わたくしは母親として、いつも貴女の幸せを思って行動しているのですよ。
今は確かに、家での厳しい修練の日々から逃れられて幸せかもしれませんね。
ですがわたくしが貴女に厳しくするのも、貴女の将来を明るく輝かしいものにするためなのですよ。
分かってくれるでしょう? 賢い貴女なら」
伯爵のその嫌気のさす物言いに、アルテの胸の中に激しい憤りの感情が芽生える。
どうして、そんなに頑なに子供の意志を踏みにじることができるのか。だが、ここでそんなことを言うのは悪手だ。だから、アルテは出かかっていた言葉を呑み込んだ。
けれど、感情的になってしまったグラスと、自分の行いが最善だと信じてやまない伯爵の二人だけで会話させていては、話も平行線をたどる一方だろう。
アルテはこの状況を、なんとか打破する方向へと持ち込むための台詞を考え出そうとする。
だが、そのとき。
「分かりません! 私は……私は、錬金術がしたいのです! それ以外の道に進むぐらいなら、死んだほうがマシです……!」
突如、グラスの半ば叫ぶような訴えが周囲に響きわたった。
彼女はすすり泣きながら、そのままその場にくずおれてしまう。
「……お願いです、伯爵。どうかグラスが錬金術を続けることをお許しください、錬金術は彼女にとって、心から大切な存在なんです」
アルテは弟子を庇うように一方前に出、それから伯爵にそう言って頭を下げた。
数秒のの沈黙ののち、伯爵の雪風のようなため息を彼女の長い耳が拾う。
「そう言われましても、やはり考えを変えることはできませんわ。錬金術は認めませんし、グラキエースは魔術を極めるべきなのです。
それが凍土にとって、そしてなにより彼女自身にとって最良の選択なのですから」
伯爵がそう言ったきり、辺りはしんと静まり返る。
彼女はあくまで、自分の考えを曲げるつもりはないようだ。この状況から説得するのは厳しそうだ。
けれど、ここで諦めるわけにはいかない。
次に言うべき言葉は何か。アルテは脳を必死に回転させ、考える。
だが彼女が結論を出す前に、その斜め後ろからこんな声が飛んできた。
「……そうやって、先ほどからお母様は錬金術を頑なに否定されますが、お母様は錬金術が一体どんなものなのか、本当に分かっておっしゃっているのですか?」
言ったのは、もちろんグラスだ。伯爵の言葉が、彼女の心に火をつけたのだろうか。
この状態から彼女がまた言葉を発するとは伯爵も思っていなかったのだろう。伯爵の白い喉から、かすかに息を呑む音がした。
グラスは弱々しくも立ち上がり、そして言い放つ。
「お母様は、錬金術を誤解していらっしゃいます! 錬金術はみんなを幸せにすることのできるものなんです、誰かを助けることも、自分の未来を自分の手で切り拓くことも、何でもできるんです!
そんな素晴らしい技術こそが錬金術なんです、それが不幸に繋がるだなんて、ありえません!」
熱の籠もったグラスのその言葉に、伯爵の瞳の奥が一瞬揺らいだことにアルテは気づく。
「……随分と、自信満々に言うのですね」
「お師匠様が、私に教えてくださったことですから!」
きっぱりと、そう言い切るグラス。
思いがけなかったその言葉は、アルテの胸にも強く響く。
「お母様、どうか一度、錬金術をご覧になってください! 錬金術がお母様の考えていらっしゃるようなものかどうか、実際に見てからご判断いただきたいのです!」
赤くなった目で真っ直ぐと伯爵を見据え、少女はそう告げる。
表情はほとんど変わらなくとも、あからさまな迷いの気配をアルテは伯爵から感じた。
「……何を見せられても、わたくしの意見は変わりませんわよ」
心なしか、先ほどよりも少し小さな声で冷たくそう言う伯爵。
けれど、それでもグラスの意志は変わらないようだった。
三人は、地下の錬金工房へと移動する。
工房特有の、いろいろな素材や薬品が混ざったような匂いが、今日は妙に鼻についた。
器具や素材などの準備をてきぱきと始めるグラス。その手元を、伯爵はじっと見つめている。
いつもならアルテも安心して見ていられるが、今回ばかりはそうではなかった。
むしろ、不安で仕方ない。だって、今のグラスは相変わらず毒物しか——
(ううん、信じるしかないよね……)
こうなったら、信じて祈るしかない。グラスが本来の実力を見せられることを。
何を見せられても意見が変わることはない。そう伯爵は言ったが、グラスが実力を発揮できたら、ほんの少しだけでも考えを改めてくれる可能性もなくはないかもしれない。
グラスは素材の下処理を済ませ、器具を使って錬成を始める。
彼女の澄んだ綺麗な魔力が、辺りのエーテルを取り込んで混ざり合っていく。
視覚的に例えるなら、魔力とエーテルがマーブル模様を作り出しているような。
錬金術特有の現象に、伯爵の目つきも少し変わったのをアルテは見逃さなかった。
そんな彼女を背後に、グラスの手元で錬成は進む。
(お願い、このままうまくいって!)
アルテは胸の中で必死に祈った。このままうまくいけば、あるいは。
——だが。
錬成も、あと少しで終わりの段階。
いつもの現象が、起こり始めた。
グラスの魔力が、にわかに変容し始める。山頂の空気のように澄んでいた魔力が、じわじわとどす黒いものに浸食されていき。
そして、最後には完全に濁り切ってしまった。
魔術に長けているはずのド・ネージュ伯爵が、その変化に気づかないわけがない。
アルテが恐る恐る横を見ると、彼女は明らかに顔をしかめていた。
グラスの背後から、氷のように青白い女が彼女の手元を覗き見る。
「それは、一体何なのですか」
グラスは何も答えなかった。答えられる状態ではなかったのだろう。その証拠に、彼女の肩は小刻みに震えている。
「このページに記されているものとは、全くもって別物であることは確かですね」
グラスの開いていた錬金術書のページを指し示し、伯爵は言う。
アルテはもう見ていられなかった。思わず目を塞ぎたくなる。
伯爵の前に立ちつくす少女の背中が、本当に小さく、弱々しいものに見えて。まるで——無実の罪で断頭台に立たされる者を見ているようで。
「呆れました。貴女は一か月、ここで何をしていたのですか?」
「お、お母様! 違うんです、グラスは本当は……」
「アルキュミア様、申し訳ありませんが、最初から決めていたことなのです。
娘がご厄介になってしまったことへのお詫びは、後日改めてさせていただきます。……さあ、帰りますよ。グラキエース」
そう言って、グラスの手首を掴もうとする伯爵。だがグラスはそれをさっと避ける。
けれどその抵抗も虚しく、彼女は地下室の外へと連れ去られてしまって。
「ま、待ってください!」
アルテは慌てて駆け出した。
背の高い伯爵と、子供ほどに小さなアルテとでは歩幅に差がありすぎる。そのせいで、早足で去っていく伯爵になかなか追いつくことができない。
伯爵が、玄関の扉を開く。
そして、抵抗しようとするグラスを引っ張り、外へと一歩歩み出した。
「グラス!」
アルテは彼女のもとへと全速力で走っていき、手を伸ばす。
「お師匠、様……!」
グラスがこちらに伸ばしてきた手を、アルテは掴むことに成功した。
こんな親のもとに、グラスを渡すわけにはいかない。こうなったら、どんな手を使ってでも——そう思ったそのとき。
「っ!」
「!! グラキエース!」
どんな技を使ったのか、グラスは固く握られた、伯爵の大きな手を振り払った。
その直後、辺りで魔力の塊が爆ぜるような感覚をアルテは感じた。おそらく、グラスは伯爵の不意を突き、魔術を使って手を振りほどいたのだろう。
突然のことに、伯爵の瞳にはっきりと驚きの色が宿ったのも束の間。
目の前に、突如として氷壁が現れた。
「……!」
険しいその氷壁は、家の中からではその先端が見えないほどに高く、家の出入り口を完全に封鎖できてしまうほどに大きかった。
自分とグラスを伯爵から一瞬にして遠ざけたそれにアルテが息を呑む中、氷壁に隔てられた向こうから伯爵の声が聞こえてくる。
「グラキエース……! 一体どういうつもりで……! 貴女、母親に向かって何をしているのか、分かっているのですか!?」
「わ、私は——」
「はい?」
「私は……もう、貴女の娘ではありません!」
分厚い氷の壁の向こうまで、グラスのその声はしっかりと響いただろう。
彼女はそう言い放つと、さっと踵を返して逃げるように家の奥へと走り去っていってしまう。
氷壁の向こう、立ち尽くす様子の伯爵の姿が見える。
伯爵のことだ、グラスが魔術によって生み出したこの氷も、すぐに取り払って娘を追いかけようとするだろう。
アルテはそう思い、警戒したままその場を離れなかった。
だが、彼女の予想は大きく外れることとなる。
なんと伯爵はそのまま、外に待たせていた馬車へと徐ろに乗り込んだのだ。
そして、そのまま馬車を走らせ、帰っていってしまう。
「……えっ?」
あまりにも予想と正反対の彼女の行動に、アルテはたった今目の前で見た光景が信じられなかった。
だがそれ以上に信じられないのは、伯爵がこれ以上何もせずに大人しく帰っていったことではない。
踵を返し、馬車に乗り込む彼女の背中は、ここに来たときとは別人なのではないかと思ってしまうぐらいに弱々しかったのだ。
そして、とても悲しそうで。
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