あなたへ

 あの一件があってからというもの、グラスはすっかり生気を失ってしまって。

 声をかけても返事は消え入りそうなぐらいに小さく、部屋からも出ることができない状態だった。


「グラス、入るね?」

 閉ざされた、二階の部屋の扉の向こうから声をかけ、アルテはその中に立ち入る。

 途端に、部屋の中いっぱいに甘い匂いが広がった。


「今日の晩ご飯はね、パンケーキ! 一緒に食べよ?」

 いつになく覇気のない目をした弟子に、アルテはせいいっぱいの明るい笑顔を向けてそう告げる。


「……はい、ありがとうございます」

 蚊の鳴くようなか細い声だった。

 少女の内側に曲がった肩にぽんと優しく触れ、それからアルテは食事の準備を済ませる。


「いただきます」

 アルテが言うと、グラスもそれに倣った。


「今日はね、森で採れた木の実をいっぱい使ってみたの」


 どれも、グラスが特に好む木の実だ。

 表面にふんだんに乗せるのはもちろん、生地の中にも果肉を忍ばせている。シロップもグラスの好きな甘さ加減にしてあった。


 弱々しくも、少女は白い手でフォークとナイフを使い、パンケーキを切り分ける。


 それを口へと運び、ゆっくりと咀嚼し、呑み込み。そして、こう言った。

「とっても、おいしいです」


 声はとても弱々しいが、本心からそう思っているのは間違いなさそうだった。


 その証拠に、パンケーキを口にした途端、表情のなかった彼女の口元が、いくらか緩んだのだ。

 その瞬間が、アルテにとってどれだけ嬉しいことか。


 毎日、毎食、グラスの好物を作って持っていくたびに、彼女の表情がいくらか和らぐのを見るたびに、アルテは少しだけ安心するのだ。


「……この木の実、今見るとなんだか懐かしい気持ちになります」


 そう言ってグラスが指さしたのは、パンケーキの上に一番多く乗せている木の実だった。


「お師匠様に、初めてパンケーキを作っていただいた夜……確か、私がこれを凍らせたんですよね」

「ふふっ、そうだよね。確かに、今思うとちょっと懐かしいかも」


 そう。だから今日は、この木の実をあえて多めに使ってみたのだ。


 グラスが思い出してくれたのを嬉しく思うアルテの脳裏に、あの日の記憶が蘇る。


 彼女の瞳の、その輝きの美しさに魅入られたあの日。


 ぎこちなくも、可愛らしい笑顔を初めて見せてくれたあの日。


 今は無理でも、いずれ取り戻してほしい。あの美しい瞳を。可憐な笑顔を。取り戻させてあげたい。


「やっぱり、お師匠様のパンケーキは世界一です。……すみません、こういうことは普通、笑って言うべきなのでしょうけど……」


「笑えないときに、無理して笑う必要はないわ」

 そう言うと、アルテは俯くグラスの頭をそっと撫でる。そして、陽だまりのように優しく微笑みかけた。


「ありがとう、グラス。あなたの気持ち、ちゃんと伝わったよ」


「……お師匠様」

 アルテの目を数秒見つめたのち、グラスは苦しそうに自分の胸元をきゅっとつかみ、ため息をついた。


「お師匠様は、こんなにも私に良くしてくださるのに……私はお返しどころか、恩を仇で返すような真似を」

「えっ? そ、そんな……どういうこと?」


 恩を仇で返すような真似、だなんて。そんなことをされた覚えなど、アルテには全くない。怪訝そうな顔で彼女が問うと、グラスは静かに話し出す。


「家出した伯爵家の娘を、家に引き渡さずに匿っている……お師匠様が、もしそう判断されてしまったら……ここには、もういられなくなってしまうかもしれません」


「あら、そんなこと?」

「……えっ?」

「ふふっ。もしそうなったら、どこに行く?」


 少し冗談っぽい口調で、けれどわりかし本気で、アルテは言ってみた。


「えっ……えぇっ?」

「グラスの好きな所に行きましょうよ。どこだって連れてってあげる」


「で、ですが……それでは、お師匠様がお尋ね者に……」

「お尋ね者でも、なんでもいいわ」


 アルテはそう言って微笑み、グラスの頭を優しく撫でた。

 彼女の言葉を呑み込めず、グラスはぱちくりと目をしばたたかせる。


「この世界には、素敵な場所がいっぱいあるのよ。街並みが綺麗なところ、ご飯がとってもおいしいところ、優しい人がいっぱいいるところ……


 それから海を越えれば、この大陸とは全く別の文化の広がる地域だっていっぱいあるんだから。世界はとっても広いのよ。あなたにも見せてあげたいなぁ」


「……お、お師匠、様?」


「そうだ、わたしの故郷にも行ってみない? 少し遠いけど、素敵なところよ。


 この辺りよりも錬金術が盛んな地域なの。わたしの実家もあるから、きっとお母さんも助けてくれると思うし」


「え、えぇっ⁉ あ、あの、それってつまり……、お師匠様のお母様に私を、紹介してくださる……ということでしょうか?」


「えっ? うん、そうなるね」

 グラスがなぜか顔を少し赤らめたのを不思議に思いつつ、アルテは頷く。


 するとどういうわけか、グラスは恥ずかしそうに俯き始めた。


 その理由は分からないが、ともあれアルテは少しだけほっとした。だって今まで、グラスの顔は白すぎるほどに白かったのだから。


「で、ですがやっぱり、私のためにお師匠様の人生をめちゃくちゃにしてしまうのは……」


「わたしの人生が、あなたのせいでめちゃくちゃ? そんなこと、あるわけないじゃない。あなたのおかげで、毎日がこんなにも幸せなのに」


 アルテはグラスの手を握り、噛みしめるようにそう告げる。

「あなたのおかげで、わたしの人生は変わったのよ」


 それは本心からの言葉だった。グラスのおかげで、アルテの人生は着実に彩りを取り戻している。

 彼女と過ごす日々の、その全てが新鮮で。


 そして、楽しいのだ。一人で暮らしていた頃には決して味わえなかった幸せを、アルテは今、毎日味わうことができているのだ。


「何が追ってきても、わたしが絶対にあなたを守るから」

 アルテはそう言って、グラスに自分の小指を差し出す。


 だって自分は、彼女の“聖女”なのだから——そんな格好のいい台詞は、実際に口にするにはあまりにも照れくさかったから呑み込んだけれど。


 あの頃は、誰よりも守りたかった人を守れなかった。けれど今度は必ず守ってみせる。

 目の前の少女一人守れなくて、何が聖女だ。

 

「世界を巡る二人旅も、きっと……ううん、絶対楽しいわ。あなたが一緒だもの」


 少女は瞳に溜めきれなくなった涙をぽろぽろと流し、頬と目を真っ赤にしてアルテの目をじっと見つめている。


 彼女はアルテの言葉を受けると、その顔にくしゃっと笑みを浮かべて。

「はい……そうに決まってます!」


 アルテの差し出した小指に、自分の小指をそっと絡めたのだった。


 それから二人は、パンケーキをゆっくりと食べながら話し合った。二人の逃避行の旅に思いを巡らせて。

 これからの、二人の人生に思いを馳せて。


「私は今まで、自分は家の所有物も同然の存在だとばかり思って生きてきました。けれど、心の何処かではそれをどうしても認めたくなくて……


 そうして、ここまで逃げてきたんです。そうしてきてよかった、だって幼い頃からずっと憧れ続けてきた“自由”が、やっと手に入りそうなんですもの」


「自由、か……。ふふっ、グラスは自由になったら、何がしたい?」


「そう、ですね、いろいろとしてみたいことはあるのですが、やはりまずは心行くまで、錬金術をやっていたいです。……もちろん、お師匠様と一緒に」

「グラス……」


 弟子の口から紡がれたその言葉を、アルテは嬉しく思う。


 彼女がこんなにも錬金術を愛するようになってくれたことが。そしてそれ以上に、自分が彼女にこんなにも必要とされていることが。


「そうね。わたしに教えられることなら、いくらでも教えるから」

「お師匠様……ふふっ、ありがとうございます」


 グラスの口元に、わずかにだが笑みが戻ってきたのをアルテは見逃さなかった。


 彼女はフォークでパンケーキの切れ端を口に運ぶ。それを呑み込むと、しみじみと言う。


「お師匠様のパンケーキは、いつもとってもおいしくて、お口に入れるだけでとろけてしまいそうで……。どうして、こんなにおいしいのでしょう」


「ふふっ。あなたにおいしいって言ってもらえるように、心を込めて錬成したからよ」

 アルテがそう答えると、グラスの口元にはにかむような笑みが宿る。


 その頬には、桜のように可憐な色がほんのりと差し込んで。


「……以前も、おっしゃっていましたよね。術者の心境は、錬成物にも影響をもたらすと」


 皿の上でフォークを弄びながら、グラスは呟くように言った。照れながら髪の毛を指先で弄ぶ乙女のように。


「お師匠様は、やっぱりすごいなぁ。いつだって、錬金術で私に幸せをくださるんです。……もしかしたら、私はどこかで勘違いをしていたのかもしれません」

「……えっ?」


「“錬金術は人を幸せにできるものだ”なんてお母様に堂々と言ったにも関わらず、恥ずかしいことですが……これまでの私は、心の奥底で思い違いをしていた気がするんです。


 今までの私は心のどこかで錬金術を、自由を勝ち取るための武器のように思っていたのだと思うんです。


 けれどそうではないということを、今改めて実感しました。錬金術は本来、誰かを癒すことも、楽しませることも、救うこともできる素敵なものなんですよね。このパンケーキのように」


 グラスはゆっくりと言葉を紡いだ。心の中で、己の思いを噛みしめるように。


 それから、静かに独りごちる。

「そんなものを……私もいつか、作れたらなぁ」

「あなたならできるわ、きっと」


 それは、アルテの本心からの言葉だった。

「あなたのそんな思いはきっと、あなたがこれから作り出す物にも影響するはずだから」

「そ、そうでしょうか?」


 アルテの言葉を受け、グラスの瞳の色はみるみるうちに変わっていく。


 期待と不安に満ちた瞳をアルテに向け、彼女はおずおずとこう告げてきた。


「あの、お師匠様……こ、これから、工房に行ってもよろしいでしょうか?」


 そう尋ねてきた、錬金術をこよなく愛する少女にアルテは笑顔で頷く。

「ええ、もちろん。これ食べたら工房行く?」





「な、なんだかこういうの、久しぶりな気がします」

 食事の後、数日ぶりの工房に降り立ったグラスはやや緊張した面持ちでそう言った。


 ずらりと並ぶ器具たちを前にして、その目つきはまるで、初めてそれらを目にするかのように新鮮そうなものに変わる。


「えぇと、何を作りましょう」

「グラスの作りたいものでいいのよ」

「私の、作りたいもの……で、では」


 グラスは少し考えてから、一冊の本を棚から取り出してくる。


 その錬金術書は、確か彼女の初めての依頼の際にも使ったものだ。


 指先でぱらぱらとページをめくり、目当てのレシピを見つけ出すと、彼女はひとつひとつ自分の中で手順を思い出すようにゆっくりと、錬成準備を始めていく。


 数日ぶりの作業だったが、その手元に狂いは一切生まれなかった。


 彼女の手によって、錬成作業は滞りなく行われる。そうして、やがて一つの錬成物が誕生した。


 アルテは、グラスの背後からその手元を覗き込む。

「あら、それって……」


「うふふ。前にご依頼で作った毒薬……私が初めて、自分の作ったものを誰かに感謝していただくことができたものです」


 一点の淀みもなく正確に作られたその毒薬は、器具の器の中でかすかに揺らいでいる。


 それを見つめるグラスの瞳は、きらきらと輝いていて。


「えへへ、いっそ毒薬専門の錬金術師になるのもありでしょうか?」

 なんて、彼女は冗談っぽく言ってきた。


「うん、いいと思う! 毒薬は一定の需要があるし、それにあなたの作る毒はとっても質が高いんですもの。喜んでくれる人、いっぱいいるはずよ」


 彼女の問いかけに対し、アルテは至極真面目に答えた。

 何か一つのものを専門とする錬金術師も、世の中にはたくさんいるのだから。


 アルテのその答えを受け、グラスは嬉しそうに、静かに微笑んだ。


「ふふっ……これを作ったらなんだか、あのときの気持ちを思い出してしまいました。


 ご依頼主様に喜んでいただけますように、ってたくさん心の中でお祈りしながら錬成して、依頼が成功したことが分かったときは、本当に嬉しくて……


 私でも誰かを喜ばせることができるんだって、生まれて初めて思えたのがあのときだったんです」


 そう言って、グラスはアルテの方を顧み、満面の笑みを見せた。


 その言葉に、アルテの胸の奥からは喜びがじわりと込み上げてくる。


 誰かを喜ばせられたことへの実感と、そこから生まれる幸福感。それこそが、錬金術をやっていて何よりもよかったと思う瞬間だと思うから。


 そして。それと同時に。

(……あれ? これって、もしかして)

彼女の脳裏に、とある閃きが浮かんできて。


「ね、ねぇグラス!」

「はっ、はい?」

「えぇと、ちょっとやってみてほしいことがあるんだけど……」


「はい、何でしょう? お師匠様のお願いでしたら、何でもいたしますよ!」


「じゃあ、誰かのために……うーん、あっ、そうだ! わたしのために、今ここで何か作ってみてくれない?」


「えっ? お師匠様のために、ですか……? は、はい、もちろん、私でよろしければ何でもお作りいたしますが……うまくいくかどうか」


「それでいいの! ねぇ、やってみてくれない? 作るものはなんでもいいから!」


 アルテの急な頼み事に少しばかり困惑の色を見せつつも、グラスはそれを快諾する。


「う~ん、お師匠様のために……」

 と、考え始めてから、グラスが実際に何を作るのか決めるまでには数分かかった。


 少しまだ迷っているような素振りを見せつつも、意を決して彼女は錬金術を始めていく。


 ——錬成が始まったそのとき、アルテは思わず息を呑んだ。


 グラスの魔力と、エーテルの織り成す調和の、そのあまりの優美さに。


 上質で清らかなグラスの魔力は、天界の元素たる神聖なエーテルを優しく抱くように導き、半ば混ざり合いながら、眩い光を放って器具の中の素材に含まれる“要素”たちに反応を起こさせていく。


 錬成というより、天使が光の羽衣を織りなしている光景を見ているような錯覚に陥りそうになるくらいに、神秘的で美しい錬成。


 その光景にアルテは心奪われると同時に、自分の脳裏につい先ほど閃いた仮説が正しかったことを確信する。


 そんな彼女の眼前で絶え間なく繰り広げられる神聖な演舞は、錬成が終わるそのときまで、ついぞ損なわれることはなかった。


「終わりました、なんだかうまくいったような気がするのですが……どう、でしょうか」


 遠慮がちにそう言うと、つい先ほどまで天使の羽衣を織り上げていた少女はそっと器具の前を離れる。


 師のためにたった今作り上げたものを、その人自身に見せるために。

 一体、彼女は何を作ったのだろう。アルテは器の中を覗き込む。


「えぇと、以前研究でお疲れだとおっしゃっていましたので、疲労回復薬を作ってみたつもり、なのですが……」


「まぁ、最高!!」

「えっ?」


「最高よ、グラス! やっぱりそういうことだったのね!」

「……えぇっと?」


 器の中を見るなり、急に目の色を変えたアルテ。その豹変ぶりに、グラスは思わずぽかんとしてしまう。


 無理もない。こんなにも彼女が興奮するなんて、滅多にないことなのだから。


 器の中にあるものは、毒物とはまったく真逆のものだった。レシピ通りの疲労回復薬が、完璧に出来上がっている。


「わかったわ、あなたの悩みのタネの原因が!」

「は、はい? えぇと、どういうことでしょうか……?」


 今にも飛び上がりそうなほど嬉しそうにしながら、グラスの両手をぎゅっと握り、アルテは一から説明する。


「グラス、これまであなたが毒物しか作れなかった理由が、やっと分かったの!


 これまでは錬金術を武器のように思っていたって、さっき言ってたでしょ? そういう気持ちでレ錬成をするんじゃなくて、誰かのことを思って作ったらちゃんとうまくいったでしょ? ふふっ、そういうことだったのよ!」


 彼女が今しがた話したことこそが、つい先ほど彼女の脳裏に閃き、そして今しがた立証された“仮説”の内容だった。


 グラスが初めての依頼の話をした際、思い出したのだ。そういえばあのときは、彼女の魔力が突然濁っていく不可思議な現象が起こらなかったはず。


 それは単に彼女と毒の相性がいいだけかと思っていたが、もしそうではないとしたら——普段とは違い、他者のことを思う気持ちで作ったからこそ成功したのではないか。


 アルテはふとそう思ったのだ。そして、その予想は正しかった。


 だがそれ以上に嬉しかったことは、他にあった。

 グラスはやはり、錬金術の神に選ばれた子だ。


 出会った当初からアルテはそう思い続けてきた。けれど、それをグラス自身に証明してやることができずに、ずっともどかしい思いをしてきたのだ。


 けれどもう、そんなことで思い悩む必要もなくなる。だってグラスはこれで、自分自身のありのままの実力を思い知ることができるだろうから。


「わたしのために、本当にありがとうグラス! さっそくこれ、いただくね!」


「えっ? あっ、ま、待ってください、本当に大丈夫かどうか……」


 心配するグラスの声をよそに、アルテは杓子で薬を掬って口に運び、そしてごくんと飲み込んだ。

 すると、たちまち彼女の表情が変わる。


「!! すごい、すごいよこれ!」

「そ、そんな! やっぱりそれ、ものすごく危ないものだったんですね……! そんなものをお師匠様に飲ませてしまっただなんて、私……」


「ううん、違うの! びっくりするぐらい疲れが取れて、身体が元気になっていくの!」

「……えっ?」


 身体はこれまでとは段違いに軽いし、蓄積された疲労も一気に吹き飛んで、今なら何でもできそうな気がする。


 だが、言葉や態度でそういった振る舞いをするのは簡単だ。今の言葉に偽りはないと、ちゃんと身をもって証明してあげなくては。


 そう思ったアルテは手近なものを求めて辺りを見回し、そしてちょうどよさそうなものを発見する。

「ねぇ、見ててグラス!」


 アルテは部屋の奥の方へと駆けていくと、そこに置いてあるもの——三つ並んだ錬金釜の、その一番小さなものを、ひょいと持ち上げた。


「まぁ……!」

 するとグラスは、たちまち口をあんぐりと開け、目をぱちくりとさせるではないか。どうやらアルテの作戦はうまくいったようだった。


 一番小さいものといっても、その素材は幾度となく行われる錬成に耐えられる特殊なものであり、その重量はなかなかのものだ。


 以前少しだけグラスにも持たせてみたことがあるため、それは彼女自身よくわかっているはず。


 ましてや子供も同然のような体格のアルテがこれをひょいと持ち上げるなど、本来なら相当難しいことであるはずなのに。


 だが彼女は今、小さな釜をその腕の力だけで地面から浮き上がらせながら、涼しい顔をしている。


 周囲に彼女の魔力が出ていないことから、魔術の類を使ってはいないこともグラスになら分かったはず。


 つまり彼女は今、グラスの作った薬の効果だけでこれほどの力を出しているのだ。

「えっ……えっ?」


 グラスはしばらく、信じられないといった様子で目をしばたたかせたり、自分の頬をつねったりしていたが、その甲斐もあってだんだん現実が飲み込めるようになってきたのだろう。


「……えぇと、じゃあ、本当にうまくいった、ということでしょうか?」


 アルテが笑顔で頷くと、グラスはたちまちその顔いっぱいに喜びの色をたたえる。

「ほ、本当、ですか……っ‼」


 きらきらと潤みだす少女の瞳に、アルテは優しく微笑みかける。


 錬金釜を元の場所に置いてから、彼女はゆっくりと涙ぐむ弟子のもとへと近づいた。


「えぇ。すごいわ、グラス。あなたってとってもすごいのよ」

 そう言って、自慢の弟子の頭をそっと撫でる。


「疲労回復薬のはずなのに、まるでもっとすごいお薬を飲んだみたい……びっくりするほど疲れが取れるだけじゃなくて、もとの何倍もの力が湧いてくる感じがするの」


「えへへ……じ、実は素材は、在庫の中でもなるべく良いものを選ぶようにしたんです。目利きの仕方を、以前教えていただきましたから……あと、それから」


 グラスはそこで、一旦言葉を切る。

 それから、少しはにかみながらこう続けた。


「……いっぱい、いっぱいお祈りしたんです。お師匠様が元気になりますように、って」


「グラス……」

 いい弟子をもったと、アルテはつくづく思う。それから、彼女の師匠になれてよかった、とも。


 愛おしい弟子をアルテはそっと抱き寄せ、そしてもう一度礼を言う。「ありがとう」と。


「お師匠様……」

 彼女の言葉を噛みしめるように、グラスはアルテの小さな身体を抱き返す。


 その瞳は、まっすぐに澄んでいた。

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